しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

津浦沿線の戦闘

2018年01月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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津浦沿線の戦闘

昭和12年8月
支那事変の発生とともに、第20師団が北支に応急動員下命で派兵され、次に第5・6・10の三個師団に対して動員下命あり、8月8日、9日真夏の太陽が照りつける中を岡山駅頭を離れ、神戸で乗船し、一路北支に向かい、8月15,16日歩兵第10連隊は太沽に上陸する。

(略)

第三大隊の韓荘守備
昭和13年4月19日
大運河方面の鉄道線路によった敵は遺棄死体121を残して退却し、微山湖畔の敵は夜半退却し、小学校の敵も退却する。
4月20日
弾薬糧秣の輸送部隊到着する。交付の後わが戦傷者を収容して帰還す。
第16師団からも救援が判明し、敵はほとんど退却してしまう。
5月18日
微山湖を渡り、微山湖西方を南下し、進撃すると敵は退却していたが陣地は堅固に構築されており、後方陣地との交通壕もつくられていた。
5月22日
列車で徐州に着き、一週間滞在のうえ赤柴部隊に追及する。
韓荘守備期間のわが方の損害は戦史21、戦傷44。

徐州西方の追撃戦
5月24日
徐州西方地区を南下して敗敵を追撃中の赤柴・沼田の両部隊は氷城南方で三千余の敵縦隊を敗走さた。
5月29日、
〇県に砲撃を加え、歩兵は終日猛攻を繰り返し午後8時突入。
5月30日、
鹿邑を占領、観武集をおとし、
6月8日、
安平集を攻略する。
師団長、連隊長が転任し、
6月28日
篠塚中将、毛利連隊長が着信した。







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藤田農場の解放

2018年01月18日 | 昭和21年~25年

国道30号線は左右に水田や農家があり、興陽高校が広い農地に
聳えていた。今は市街地化して注意していないと興陽高校は見落としてしまう。


岡山県史・現代Ⅰより転記

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明治の政商・藤田伝三郎(長州の人)が明治藩閥政治と結託し、児島湾干拓の許可を受けた。
明治後半に干拓造成した、日本最大の農場であった。
四農区(高崎・大曲・都・錦)の区画の上に、直営様式600町と小作様式600町の二本建てで、両者均衡の下に経営されてきた。

昭和21年5月、会社・県庁・地元村立会のもとに「藤田農場開放に関する覚書」が交換された。
県農林部長を会長とする委員会が設置、藤田村長が会社側と交渉の結果、土地を含む一切の物件につき四千万円の売買契約が成立したのである。

その時期、第二次の農地改革の段階に入っており、国家の買収の対象になるに至った。

結局、旧小作農増反、労務者、職員、復員者、引揚者に細分されて、藤田農場は完全に解体するにいたったのである。

藤田農場の解体によって、戦前「日本一の機械化農村」として有名な興除村とともに、「高位生産力地帯」を構成した岡山県農業は新しい段階に入った。








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