板野潤治「昭和史の決定的瞬間」ちくま新書2004年発行より転記
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昭和12年1月末、宇垣一成が天皇に組閣を命じられながら、陸軍大臣を得ることができずに流産した。
それから半年もしない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、それが日中全面戦争に発展し、さらには昭和16年の太平洋戦争に突入していったことを振り返れば、この内閣の流産は日本の将来にとってまさに致命的であった。
陸軍長老の宇垣を総理とし、戦争とファシズムを阻止しようとする構想は、民政党と政友会の二大政党の一部によって昭和6年の満州事変以来、一貫して抱かれていた。
宇垣は「反ファッショ」の覚悟を決めて組閣に乗り出した。
「私は今、ファッショか憲政か分岐点に立ちありと信ずる。
震源地は陸軍にある。
これを脱線させぬように、犠牲になってもやる」
宇垣内閣を流産させたのは石原莞爾を中心とする陸軍であったが、もう一人の犯人は湯浅内大臣であった。(226事件で内大臣が殺された事)
1月25日の組閣大命から29日に断念した。
歴史的に見れば、
半年後の日中戦争を回避できたかもしれない宇垣一成の組閣に際して、天皇側近や元老西園寺公望には、この内閣が戦争回避のための最後の橋頭堡だというほどの認識はなかった。
気軽にその失敗を受け入れたのである。
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昭和12年1月末、宇垣一成が天皇に組閣を命じられながら、陸軍大臣を得ることができずに流産した。
それから半年もしない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、それが日中全面戦争に発展し、さらには昭和16年の太平洋戦争に突入していったことを振り返れば、この内閣の流産は日本の将来にとってまさに致命的であった。
陸軍長老の宇垣を総理とし、戦争とファシズムを阻止しようとする構想は、民政党と政友会の二大政党の一部によって昭和6年の満州事変以来、一貫して抱かれていた。
宇垣は「反ファッショ」の覚悟を決めて組閣に乗り出した。
「私は今、ファッショか憲政か分岐点に立ちありと信ずる。
震源地は陸軍にある。
これを脱線させぬように、犠牲になってもやる」
宇垣内閣を流産させたのは石原莞爾を中心とする陸軍であったが、もう一人の犯人は湯浅内大臣であった。(226事件で内大臣が殺された事)
1月25日の組閣大命から29日に断念した。
歴史的に見れば、
半年後の日中戦争を回避できたかもしれない宇垣一成の組閣に際して、天皇側近や元老西園寺公望には、この内閣が戦争回避のための最後の橋頭堡だというほどの認識はなかった。
気軽にその失敗を受け入れたのである。