講談社現代新書J・ホール「日本の歴史・下」より転記。
xxxxxxxxxxxxxxxxx
1920年代には、軍部は不承不承政治における政党の指導権を認めていたが、しだいに幻滅を感じるようになった。
文官支配に対する批判は、青年将校の新しい集団の中で特に激しかった。
彼らは士官学校で狭い教育を受け、政治的経験はほとんどなく、海外旅行の機会もほとんど持たず。、しかも社会的責任感が強く、国際関係の見方が狭かった。
これらの青年将校は、国際交渉の手順にも代議政治にもがまんできず、断固たる行動をとろうとする指導者に国を任せる、「昭和維新」という観念にひきつけられた。
1920代末期、直接行動を信奉する小さな結社が不気味にひろがった。
軍人会員と北一輝の思想を結びつける中心人物は、大川周明という民間人であることがわかったが、彼は拓殖大学の講師であり、軍事クーデターを唱える過激な人物であった。
日本が直面していた”大陸問題”は、かなり多くの日本人が、中国における日本の”特殊権益”を擁護し、満州の支配権を確保する必要があると、確信するに至った。
南京の蒋介石政府は強力になっていくように見え、黒竜江付近のソ連軍はますます脅威になってきた。
軍部筋にとって、この危機に日本がロンドン海軍条約に同意するのは、狂気の沙汰と見えた。
1930年代までに”なんとかしなければならぬ”という感情がますます高まっていた。
xxxxxxxxxxxxxxxxx
1920年代には、軍部は不承不承政治における政党の指導権を認めていたが、しだいに幻滅を感じるようになった。
文官支配に対する批判は、青年将校の新しい集団の中で特に激しかった。
彼らは士官学校で狭い教育を受け、政治的経験はほとんどなく、海外旅行の機会もほとんど持たず。、しかも社会的責任感が強く、国際関係の見方が狭かった。
これらの青年将校は、国際交渉の手順にも代議政治にもがまんできず、断固たる行動をとろうとする指導者に国を任せる、「昭和維新」という観念にひきつけられた。
1920代末期、直接行動を信奉する小さな結社が不気味にひろがった。
軍人会員と北一輝の思想を結びつける中心人物は、大川周明という民間人であることがわかったが、彼は拓殖大学の講師であり、軍事クーデターを唱える過激な人物であった。
日本が直面していた”大陸問題”は、かなり多くの日本人が、中国における日本の”特殊権益”を擁護し、満州の支配権を確保する必要があると、確信するに至った。
南京の蒋介石政府は強力になっていくように見え、黒竜江付近のソ連軍はますます脅威になってきた。
軍部筋にとって、この危機に日本がロンドン海軍条約に同意するのは、狂気の沙汰と見えた。
1930年代までに”なんとかしなければならぬ”という感情がますます高まっていた。