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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

青年将校

2018年01月03日 | 昭和元年~10年
講談社現代新書J・ホール「日本の歴史・下」より転記。

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1920年代には、軍部は不承不承政治における政党の指導権を認めていたが、しだいに幻滅を感じるようになった。
文官支配に対する批判は、青年将校の新しい集団の中で特に激しかった。
彼らは士官学校で狭い教育を受け、政治的経験はほとんどなく、海外旅行の機会もほとんど持たず。、しかも社会的責任感が強く、国際関係の見方が狭かった。

これらの青年将校は、国際交渉の手順にも代議政治にもがまんできず、断固たる行動をとろうとする指導者に国を任せる、「昭和維新」という観念にひきつけられた。
1920代末期、直接行動を信奉する小さな結社が不気味にひろがった。
軍人会員と北一輝の思想を結びつける中心人物は、大川周明という民間人であることがわかったが、彼は拓殖大学の講師であり、軍事クーデターを唱える過激な人物であった。

日本が直面していた”大陸問題”は、かなり多くの日本人が、中国における日本の”特殊権益”を擁護し、満州の支配権を確保する必要があると、確信するに至った。
南京の蒋介石政府は強力になっていくように見え、黒竜江付近のソ連軍はますます脅威になってきた。
軍部筋にとって、この危機に日本がロンドン海軍条約に同意するのは、狂気の沙汰と見えた。
1930年代までに”なんとかしなければならぬ”という感情がますます高まっていた。


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満州建国の頃(小説より)③

2018年01月03日 | 昭和元年~10年

城山三郎「落日燃ゆ」新潮社より転記

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一方、日本の国内は不景気のどん底に在った。
失業者は街に溢れ、求職者は十人に一人という割合。
それにもまして農村、特に東北の農村は、冷害による凶作も加わって、困窮を極めていた。

追いつめられた人々の目に、広大な「無主の地」満州は、大いなる希望の地に見えた。
そこには、十年間、肥料を施す必要もないといわれる肥沃な大地が果てしもなく広がり、豊かな鉱物資源が眠ったまま埋蔵されている。

関東軍の石原莞爾参謀たちは、これを植民地としてでなく、日本人を含めたアジア諸民族の共存共栄の楽土にするという意気込みであった。「五族協和」「王道国家の建設」がうたわれた。
国民の多くに受け入れられる夢にもなった。

折から、ソ連は国内の整備開発に追われており、中国は政治的統一が完了していない。
満州で事を起こすには格好のチャンスでもあった。


一方、中国側にしてみれば、満州における日本の諸権益の存在は、主権の冒涜であり、領土を蚕食されることに他ならない。
排日運動が強まり、旅順・大連および満鉄の返還、日本領事裁判権・警察権の回収などを求める声が強くなった。
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