しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

浜子の失業

2018年01月06日 | 昭和21年~25年

終戦直後の塩不足は深刻で、茂平にも塩田ができるほどだった。


岡山県史現代Ⅰより転記する。


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入浜式塩田が近世初頭から開発され、約300年間も続いて1955年(昭和30年)頃になって
流下式塩田に転換された。
1905年専売制が施行され、第一次塩田整備によって不良塩田が廃止された。
本県では小田郡金浦町ほか8町5反が対象になった。
1930年(昭和5年)には第二次塩田整備が行われ、小田郡神島内村の神島浜や横島浜など、81町7反が廃止され、残るは393町になった。

塩田で働く労働者を浜子、作業の事を採鹹作業(さいかんさぎょう)と言った。
入浜式塩田では長年の経験が必要であるうえ、夏の炎天下の重労働である。
第二次大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃した。
神島、横島浜などは、戦後の塩飢饉時代に自給製塩ということで復活した。

1950年頃、戦前の状態に復した。
政府もこの頃から流下式塩田への転換を促した。

粘土板の上に礫をまき、海水がゆっくり流れる。
枝条架(しじょうか)と称する竹枝をつるした濃縮装置を併用した。

それにより重労働がなくなり、労働量が1/5にすむことになった。

昭和32年頃まで全国的に転換された。
浜子の失業問題が起こったが、
戦後は浜子という仕事が若者に魅力がなくなっていた。
農業との兼業者が多かった。
工業労働者の需要が高まった。
などにより大きな問題にはならなかった。

なお予想以上の好成績の為、たちまち全国的な生産過剰をもたらした。
しかも安い輸入塩もあり、1960年第三次塩業整備が行われた。
山田、味野を残して廃止され、流下式塩田の稼働はわずか数年間だけだった。



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昆虫を食べる

2018年01月06日 | 暮らし
子供の頃に「戦時中はバッタを食べた」話はよく聞いたが、後年父母に聞くと
田舎では、そこまでの食糧難はなく食べていないという事だった。

成虫でなく幼虫なら、ハチの幼虫を食べていた。
これは腹の足しとかでなく、ハチの巣を・・・刺されないで逃げるという冒険・・
落とすという遊びであった。無事軒下から地上に落とした巣から幼虫を食べると言うより、飲み込んでいた。栄養があるという話は知っていた。


「昆虫を食べる」水野より転記する

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平安時代、イナゴを食べていた。
江戸時代になると、昆虫食の記録が増えてくる。
「本朝食鑑」(1697年)が著され、同書ではイナゴや、桃の実の中にる白い虫、柑の虫に効くクサギノムシ、クワの木喰い虫などが解説されている。
この流れは江戸中期・後期へと続いてゆき日本初の百科事典として知られる「和漢三才図絵」の、イナゴ、蚕の蛹、クロスズメバチの巣の採取法、幼虫の食べ方等、食用・薬用が日本の伝統文化であったことを今に伝えている。

大正8年、農商省の昆虫学者三宅恒方により「食用及薬用昆虫に関する調査」がまとめられた。
これは日本全土を調査し、ハチ、ガ、バッタなど全55種の食用昆虫と123種の薬用昆虫を明らかにした名編である。

さらに時代を下ると、大戦末期から戦後3年にかけて食糧が不足した。
日本全国でイナゴ、ハチ幼虫、カイコ蛹が食べられており、中部と近畿が多かった。

(以下岡山県・広島県のみ抜粋)

クロスズメバチ(ジバチ) 幼虫・蛹・・・ 生食、焼く、炙る、佃煮など
イナゴ類 成虫 ・・・煎る、煮る、焼く、佃煮など
タガメ 卵・・・炙る
カイコガ 蛹 ・・生食、焼く、佃煮など

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