終戦直後の塩不足は深刻で、茂平にも塩田ができるほどだった。
岡山県史現代Ⅰより転記する。
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入浜式塩田が近世初頭から開発され、約300年間も続いて1955年(昭和30年)頃になって
流下式塩田に転換された。
1905年専売制が施行され、第一次塩田整備によって不良塩田が廃止された。
本県では小田郡金浦町ほか8町5反が対象になった。
1930年(昭和5年)には第二次塩田整備が行われ、小田郡神島内村の神島浜や横島浜など、81町7反が廃止され、残るは393町になった。
塩田で働く労働者を浜子、作業の事を採鹹作業(さいかんさぎょう)と言った。
入浜式塩田では長年の経験が必要であるうえ、夏の炎天下の重労働である。
第二次大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃した。
神島、横島浜などは、戦後の塩飢饉時代に自給製塩ということで復活した。
1950年頃、戦前の状態に復した。
政府もこの頃から流下式塩田への転換を促した。
粘土板の上に礫をまき、海水がゆっくり流れる。
枝条架(しじょうか)と称する竹枝をつるした濃縮装置を併用した。
それにより重労働がなくなり、労働量が1/5にすむことになった。
昭和32年頃まで全国的に転換された。
浜子の失業問題が起こったが、
戦後は浜子という仕事が若者に魅力がなくなっていた。
農業との兼業者が多かった。
工業労働者の需要が高まった。
などにより大きな問題にはならなかった。
なお予想以上の好成績の為、たちまち全国的な生産過剰をもたらした。
しかも安い輸入塩もあり、1960年第三次塩業整備が行われた。
山田、味野を残して廃止され、流下式塩田の稼働はわずか数年間だけだった。