しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島③占守島水際殲滅戦

2018年01月24日 | 占守島の戦い

「陸軍部隊戦史」新人物往来社・2001年7月発行より転記する

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幌莚島のすぐ北方にある占守島へ日本降伏の三日後に、あたかも降伏は認めないかのように不当にもソ連軍が攻撃をしかけ上陸してきた。
占守島の部隊はこれにたいして徹底した自衛戦闘を展開し、最後はソ連軍約6.000名を海岸に追いつめ、崩壊寸前の態勢で矛を収めた。
日本軍死者数百名にたいして、ソ連軍は三千名以上が戦死した。
停戦に際しソ連上陸司令官は「日本軍が総攻撃しなかったことに感謝する」と述べたほど、近代戦まれに見る水際殲滅戦と言われる所以である。

万一占守島の日本軍が無抵抗でソ連軍に明け渡していたら、勢いに乗じて北海道に上陸していただろうし、あるいは東北地方まで占領地を広げていたかも知れない。

実際、占守島の占領後もソ連軍は武力で千島列島を侵攻し続け、8月28日は択捉島、9月1日は色丹島、5日に水晶島と進み、そこでようやく止まった。
北海道まであと一歩という地点である。
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占守島②失われた北の故郷

2018年01月24日 | 占守島の戦い

「北海道の歴史」山川出版社・昭和44年発行 より転記する

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失われた北の故郷

昭和20年8月15日、悪夢のような戦争は終わった。
しかし、北海道の周辺は、むしろそのあとで戦闘がおこなわれたのである。

8月17日、樺太へ侵入したソ連軍とのあいだに、18日には北千島占守島に上陸したソ連軍をむかえて激戦がおこなわれた。崩壊状態の大本営停戦命令が、末端まですみやかに伝達されなかったためである。
まさに、あたら死なずにすんだ尊い生命が、8月15日後の数日に多く失われたのである。

北千島守備隊は、ニュースとして終戦を知っていたが、命令のないまま迎撃し、18日夕刻にいたって停戦、全千島の日本軍は29日までに武装解除された。

島民たちの約半数は小舟で根室方面へ脱出したが、残った住民は、翌翌年、樺太経由で強制送還されたのである。
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