股関節痛は怖くない!~変形性股関節症の新しい考え方

変形性股関節症の常識には間違いが多く、怖さを抱えている人が多い。
常識の間違いを理解して人生を楽しみましょう!

体験談 第2弾 TETSUさん 4

2006-12-02 02:40:04 | 体験談
状態が良くなったもう一つの要因は、脚長差の解消です。これも患者仲間を通じて得た情報なのですが、その人の足の状態に合ったオリジナルの靴を作ってくれる病院を知りました。実際に診察を受け、完全に自分にフィットする靴を作製してもらいました。最初はやはり違和感がありましたが、次第に慣れていき、完全に生活必需品となりました。
その後、同様に脚長差を踏まえて自分にあった靴を製作してくれる靴の専門店(横浜市)をみつけ、今ではそこで作った靴を愛用してます。(靴の研究では先進国の)ドイツの靴であり、モノは非常に良いですが、その分値段も張ります。私の場合は、補高するので更にコストがかさみますが、やはり靴は大事ですしここにはお金をかけることにしました。夏用のサンダルも作りましたが、モノが良いので長持ちしてます。
補高靴のおかげで、何よりも腰痛が緩和されました。立っているときの腰への負担は以前よりかなり軽減されたように思います。また、脚長差が原因で補高靴を身に付けていることで、障害者認定を受けられることを知り、さっそく申請しました。4級の軽度障害ですが、税金負担が軽減されたり、有料道路が半額になるなどの援助を受けることができます。保険のきかない治療を続け、また前述の靴の購入には高い費用がかかるなど何かと出費がかさみますので、そういう点では障害者認定を受けることができたことは幸いでした。
ところで、私はずっと一つの病院に通い続けてきましたが、数年前に始めて別の病院で診察を受けてみました。セカンドオピニオンを受けにというつもりでしたが、特に変わったことを言われたわけでもなく、こんなものかと思ったものでした。また、別の医師体験として、変股症の専門医との電話相談というものを試しに受けたことがあるのですが、これが何とも衝撃的でした。
電話相談に出てきた医師は、こちらから一通り経緯と現在の状態を説明した後に(事前に送っておいたレントゲン写真のコピーを診た上で)、これは末期のもうどうしようもない状態なので、とにかく動かさないこと、歩くときは常時杖を使い一度に続けて歩く時間は10分程度とすること、関節を動かすリハビリはかえって逆効果なので不要(というかしてはいけない)。人工股関節への置換は避けられないし、今のままでは手の施しようが無いので、とにかく動かさないでこれ以上ひどくならないようにするしかない、と言われました。
呆気にとられました。自分がこれまで努力してきたことを全て否定するだけでなく、(現在はこんなことはしないと言いつつ)セメントで関節を固めてしまうといった旧時代の手術の効用についてまで話していました。この医師の助言に従うと、今の自分はリハビリなんてもってのほか、仕事はもちろん辞めて、家の中でじっとしていなければならなくなってしまいます。これでは生活できませんね。
もちろん、今まで自分がやってきたことを変えるつもりなどありませんでしたが、何よりもショックだったのが、(いくら時間の限られた電話相談とはいえ)患者の実際の生活環境に対して何の考慮もない悲観的対応を一方的に言い放つ医師が存在しているということでした。世の中にはいろいろな医師がいるのだということを実感させられました。ちなみに、今の担当医師は私のやり方を支持してくれていますし、特に関節はできる限り動かしていないと硬直してしまうので可動域を維持するためのトレーニングは重要であると言っています。
皆それぞれに多少無理をしても維持しなければいけない生活があるわけですし、仕事などを通じた人生の目標もあることと思います。変股症とうまく付き合いつつどうやって自分らしく生きるか模索しながら生活している方々が多いと思いますが、自分もその一人です。自分にあったQOLを実現・維持できるようにこれからも試行錯誤していきたいと思っています。
変股症になったことで、それまでの自分の生活が一変し、大好きなスポーツができなくなったり、仕事にも制約が生じたりと失うことも多々ありました。でもその一方で、変股症になったおかげで得られたことも多々ありました。
数年前に両親が私に対して、「(変股症を背負って生きねばならないことに対して)本当に申し訳ない」と泣きながら謝ったことがあります。驚きました。たしかに、私はある時まで“健常者”のように自由きままに動き回れる何一つ不自由ない生活をしていたので、変股症発症後の生活をなかなか受け入れられずに苦悩していましたし、悔しいと思ったことは正直何度もあります。ただ、これは自分に与えられた天分であると受け止めていたし、ましてや両親を恨むなんてことは一時もありませんでした。
両親、特に母親は今でも自分以上に股関節のことを心配してくれます。心配してくれる人がいるというのはありがたいことですね。妻や妻の両親、親戚たちもいつも自分をサポートしてくれるし、自分が本当に恵まれた環境にいることに感謝しなければなりません。6歳になる長女はパパの足が悪いことをもう十分に認識しているので、気にかけてくれたりします(涙)。
松本先生とのお付き合いは、かれこれ6年近くになると思いますが、今では単に治療を受ける“患者”の立場を超えて、お仕事でご一緒したり、また先生の夢を共有できるような関係にまで発展してきたように思います。決して怪しい関係ではございません(笑)。今後もライフワークとして先生を支援していきます。その結果として変股症患者の方々の支援につながれば幸いです。

いろいろな情報に助けられたんですね。
情報収集って大事なんですね。
実は彼とは怪しい関係なんですが、ブログにそんなこと書けない・・もん。
私はちょうど一回り年下の彼を非常に尊敬していますし、この出会いに私も感謝しています。
私の夢を私達の夢としていき、一生付き合って行くでしょう。
ありがとうございました。
天丼をおごったあとに、コーヒーをおごってもらいました。

体験談 第2弾 TETSUさん 3

2006-12-01 10:55:06 | 体験談
このままではいけないと思っていた頃、以前に母がNPO法人・のぞみ会のメンバーより聞いたという整体治療のことを思い出しました。何でも、痛みがひどくて杖も手放せなかった患者の方が、その治療を受けたところ、痛みも全く取れて杖なしで歩けるようになったとか。そういう劇的な改善話は、それまで全く信用していなかったのですが、何とか手術以外の方法で足の状態を良くする方法はないかと考えていたので、とにかく治療を受けてみることにしました。
それが松本先生との始めての出会いでした。
初診の際、私の場合、やはりかなりのしこりがあり、長年の無理がたたって疲労が回復されずに蓄積されてきたため、筋肉が相当悪い状態にある(痛んでいる)とのことでした。しこりの硬さもかなりのもので、これを取り除くには相当な時間がかかると言われてしまいました。治療の最初の印象は、とにかく痛かった!ということでしょうか。深部にあるしこりをほぐすには強く押す必要がありますので、その痛さといったら半端ではありません(もちろん、しこりがあるから痛いのであって、筋肉が良い状態にあれば押されても強い痛みはないということもわかりましたが)。
私自身、これまで筋肉をつけることばかりに主眼を置いて、筋肉へのケアに対してあまり真剣ではありませんでした。関節(骨)はベースですし、重要ですが、人間誰しも骨だけで立っているわけではありません。骨を支える筋肉があってこそ立つことや、動くことができるわけで、その筋肉に対して同じようにケアをしていくことがいかに大切かを思い知ることになりました。特に、股関節周辺には、人間の体幹を支えるために重要な筋肉がたくさん集まっており、尚更重要な箇所であるのです。
松本先生はとてもわかりやすくかつ論理的に痛みが発症する仕組みを話して下さり、治療を受けるこちらもとても納得できました。これまで治療といえば、手術しかないと思い込んでいましたが、こうして患部に直接触れて痛みから解放してもらうということ自体も新鮮でした。
自ら直接体験し、そして先生とよく話しをした結果、この治療に本格的にかけてみようと決意し、会社を半年間程休職して集中的に治療を受けることにしました。その時点で股関節自体は、ほぼ軟骨がなくなっている状態で、臼蓋部分と大腿骨頭の隙間はほとんどありませんでした。この先、関節に破壊症状が出だしたら、もう人工股関節に変えるしかありません。自分としては、とにかく可能な限り保存療法に努め、何とか自骨で長くもたせられるように頑張ろうと決意しました。
休職期間中は、先生の治療を毎週1~2回受け、それ以外はジムやプールでリハビリを続けました。私がこれまで行ってきた筋トレは、やみくもに鍛えていただけであって筋肉のケアを疎かにしていたために大した効果がありませんでした。「あれだけやったのになぜ筋力があまりつかないのだろう」という、それまで持ち続けてきた疑問がようやく解消されたのです。筋肉が痛んでいる状態で筋力トレーニングを行っても、まともな力はつかないということです。
数ヶ月後、痛みは引き始め、また硬くなっていた関節周りの筋肉の動きに柔軟性も出てきました。それまでは、しばらく座っているだけで筋肉は硬直し、立つときになかなか関節部分が伸びてくれなかったのですが、非常に楽になりました。明らかに改善しているようでした。
そして半年後、仕事を再び開始する上で支障がないと判断するに至り、仕事復帰しました。むろん、以前のように激しく動き回ったり、スポーツをしたりするというわけにはもういきませんが、何より自分で今後ずっと股関節をケアしていくんだという意識が芽生えたことが大きかったと思います。今も先生の治療を受け続けていますが、今では痛みが発生する原因・仕組みを自分でも把握できているので、多少調子が悪くなってもあまり動じなくなったように思います。
とにかく、松本先生に出会えたことに本当に感謝していますし、これがなければもしかすると安易に(人工股関節への)手術に踏み切ってしまっていたかもしれません。


あの時はきつかったね、私は埼玉のふじみ野で施術しており、TETSUさんは毎週逗子から通ったもんね・・・んで、それからどうなったの?・・・TETSUさん 4 につづく

体験談 第2弾 TETSUさん 2

2006-11-28 00:40:16 | 体験談
今にして思えば退院直後からかなり無理をしていたかもしれません。一刻も早く普通の生活に戻りたいと思い、ジムや自宅で筋トレを続けましたが、とにかく筋力をつけることばかりに主眼を置いていたように思います。
ただ、一つ気になる点がありました。それは、術後、脚長差がひどく感じられるようになったことです。長さを測ってもらうと、たしかに3センチから5センチ程の差があるようでした。担当医師曰く、この手術では術後に多少の脚長差が生じることは否めないが、筋力をつけることでその差異感はほとんど解消されるとのことでした。私にはなぜ脚長差が生じるのかよく理解できませんでしたが、とにかく筋力さえつければ解消される問題なのだと理解し、前述の通り、筋トレに励んだ次第でした。
その後、この脚長差は解消されることはなく、万年腰痛の原因となりました。歩いているときは、足をのばして正しく歩くことを意識していればそれほど不都合さを感じることはありませんでしたが、立っているときは自分では両足をしっかり地につけたつもりでも、極端に言えば右足が“浮いている”ような状態になってしまいます。そのため、反対側の正常な左足への負担が大きくなり、同様に立っているときは常に腰痛を感じている状態で苦痛となっていました。
とにかく術前の生活に戻りたいという一進で筋トレに励み、術後1年程?でランニングやほぼ全力疾走(50メートル程度)までできるようになりました。
大学卒業後、東京都心の会社へ就職し、地獄の?電車通勤の日々が始まりました。前述の脚長差のせいで、立ちっぱなしでの通勤はやはりきつかったものの、若さゆえか何とか持ちこたえられたし、それ以外の面では生活にそれほど不自由もなく、仕事生活に没頭する日々が始まりました。
当初の仕事は企画系の業務であり、基本的には内勤であったのですが、顧客訪問を行ったり、時々機械設備を持ち運びしたり等、精力的に動き回ってました。また、私生活では時々テニスやスキーをしたり等、遊びまわってましたが、自分では普通の人と同じような生活ができるはずだという思い込みがあったので、疲れがあってもあまり気にすることなく生活してました。今にして思えば相当な無理をしていましたね。若かったのでそれなりに休息を取れば回復するし、それで何とかなっていただけだったと思います。
仕事は大変でしたがすごく充実感があり、完全に仕事中心の生活でした。結果、リハビリに費やす時間的・精神的余裕もなく、足には疲労だけが蓄積されていった期間でした。
手術をしたのが20歳の夏でしたが、その約9年後の29歳頃だったでしょうか、急に足の曲がり度合が悪化しだしたのを感じました。それは、勤務先企業の派遣により新潟県の大学院へ通う事になって雪国地方で生活をしていた時のことでした。その頃は、夏はキャンパスでテニスをしたり、近所にスキー場がたくさんあり、スノーボードに挑戦し始める等、相変わらず無理をした“普通の生活”を楽しんでいました。曲がりの悪化を感じるのと同時に、それほど強くはありませんでしたが、痛みや妙な違和感も覚えるようになりました。運動を控えるようにしましたが、症状の悪化が進行し出したのはまさにこの頃でした。手術を受けた病院にて最低年に1度は定期検診を受けることになっていたのですが、その頃はレントゲン上も何ら変化はなく、医師の言うこともいつもと変わらずであったため、2年程診察には行っていませんでした。
症状の悪化を感じてすぐに診察を受けてみると、レントゲン上で明らかに関節軟骨が磨り減っているようでした。つまり、以前と比べて関節の隙間がなくなってきていたのです。医師からは、このままでは軟骨が磨り減っていくは時間の問題というようなことを言われました。ショックでしたが、それでもまだ現実を受入れられない自分がるようで、まだ心のどこかで(なぜか)安心していたように思います。
大学院卒業後、職場復帰して勤務地も再び東京となりました。ちょうどその頃に結婚し、新居のある横浜市(金沢区)から東京までの遠距離通勤が始まったのですが、この遠距離通勤が重くのしかかり、疲労困憊の日々が続きました。以前から長時間立ちっぱなしの状態には耐えられなかったのですが、状態が悪化し始めていたその当時は尚更でした。少しの間、立っているだけで腰痛がひどく、悪化のスピードは速まるばかりで冬になるにつれ患部の痛みも増大していきました。
その後、通勤負担軽減のために都心近くへ引越しをする等、何とか対策を講じてきたのですが、いよいよ痛みもかなりの状態に達し、階段を上る際には手すりがないときついほどでした。特に冬場は寝床に入って体温が低下していくとジンジンと痛みが襲ってきて眠れないほどでした。


えっ、えっ、それからどうなったの?・・・TETSUさん 3 につづく

体験談 第2弾 TETSUさん 1

2006-11-27 01:12:19 | 体験談
体験談 第2弾です。
もう5年以上お付き合いのあるTETSUさん(男性)の体験談です。
天丼をおごりながらお願いしました。


私の変形性股関節症(以下、変股症)発症の原因は、生まれつきの股関節脱臼にあります。
そのため、生後3ヶ月で手術を受け、しばらくはギプスをつけた生活をしていたものの(むろん本人はその頃のことは全く覚えてません)、その後は生活には何ら不自由はなく、小学生から高校に至るまで野球やサッカー、ラグビー等、様々なスポーツを楽しんできました。
ところが、高校生時になってから時折腰痛が生じるようになり、おそらく先天股脱の影響ではないかと思われたこともあって、一度専門医にその後の経過も含めて診てもらおうということで変股症の治療で著名な医師のもとを訪れました。
幼児期のことは私自身は全く覚えていませんので、母によると、幼児期に通っていた病院の医師より「経過は非常に良好であり、今後の生活に問題はないと思われるが、将来的には何らかの影響が出てくるかもしれない」と言われていたそうです(当時は大阪に住んでおり、大阪の大学病院へ通院していたらしい)。
そういう経緯もあったので、軽い気持ちで久しぶりに診察してもらうことにしました。
神奈川県内のK病院で、レントゲン検診及び筋力や曲がり度合い等の検査の結果、臼蓋形成不全による変形性股関節症という診断が下りました。ただ、その時点では前期症状で状態は非常に良いとのこと。
ただし、将来的には症状が悪化することは避けられないので、今の良い状態のうちになるべく早期に手術をした方がよいと強く勧められました。
当時は、股関節自体に痛みや不自由さはほとんどなく、多少の腰痛はあったものの生活自体にも全く不自由さを感じていなかったため、手術を受けるということに全く現実味がありませんでした。
しかし、いずれ悪化するなら(学生時の)時間的に自由なうちにやってもよいかなという考えや、有名な専門医の勧めということのみを判断材料として、大学生になったら手術を受けるという決断をしました。
今にして思えば、その決断に至るまでの自分自身に非常に後悔をしています。手術を受けることの是非ではなく、その決断をするための病気に対する情報収集や理解を怠っていたことに対してです。自分がきちんとこの病気や手術に対する理解をした上での決断であれば、後悔することもなかったと思いますが、その当時まで自分が健常者として実際に何一つ不自由のない生活をしていたこともあって、その後の生活が一変することなど全く想像もできなかったため、そうした努力が欠けていました。
また、医師より状態の良い時期に手術をしてしまえば、自骨で一生もつと言われたこともあり、とにかく早いうちにその手術を受けてしまえば、その後苦しまないで済むのだなという安易な考えにとらわれ、疑うこともしませんでした。
長期間(約3ヶ月)の入院が必要であったため、大学生1年時の夏休みを利用してとにもかくにも手術を受けることになりました。
手術名は「臼蓋回転骨切術」で、関節をいわば“屋根”となって支える臼蓋部分を“つぎ足す”ような手術です。大腿骨頭の受け皿となる部分(面積)が少なかったため、それを増やすというものでした。
術後1週間程は仰向けのまま完全に寝たきりの生活を強いられましたが、この間が一番辛く苦しいものでした。
1週間後に足をマットに固定し、体勢を横向きへ変えてもらった時の爽快感は忘れられません。4週間寝たきりの安静期間が過ぎると、今度は車椅子の生活が始まりましたが、一時とはいえ、まさか自分が車椅子での生活を送るとは夢にも思っていませんでした。
動けるようになった喜び勇んで車椅子で病院の周辺へ外出したりしましたが、入院していた病院の周辺はのどかな自然にあふれて環境もよく、散歩をするにはうってつけでした。
車椅子の後は、両松葉杖、片松葉杖というように、徐々に足に体重をかけていくというリハビリ・プログラムになっていました。術後は自分の足がただの棒のように感じ、全く力を入れることもできず、両手で持ち上げて動かしていました。
それが懸命なリハビリ努力により、自力で足を動かしたり、体重をかけて立てるようになっていく様は、自分でも驚きでした。
理学療法士(PT)の先生方のお陰で入院時のリハビリメニューも順調に消化し、何とかほぼ予定通りに退院することができましたが、このときも私はこのままリハビリ努力を続け、筋力が回復すればまた術前とほぼ同じような生活を送ることができるものと信じて疑いもしませんでしたし、楽観的であったように思います。実際、担当医師は遊び程度であればスキーやテニス等のスポーツも可能と言っていましたし、身体を動かすことが何よりも好きな私はその言葉を信じてリハビリ、とりわけ筋力トレーニングに邁進しました。


トレーニングに邁進してどうなったの?・・・TETSUさん2につづく


ご存知だとは思いますが、私のホームページには、ブックマークにある「LE SALON GINZA」をクリックしてくださいね。
LE SALON GINZAは「ル・サロン・ギンザ」と読みます。つまりギンザサロン、銀サロです。よろしくお願いいたいます。

体験談 第1弾! JUNKOさん 4

2006-10-30 10:16:15 | 体験談
夫も無事、術後5年を迎え、現在5年7ヶ月が経過しました。

整形外科医に言われた「末期です。」の状態は変わっていませんが二年以内に自ら人工関節置き換えを申し出るでしょうと言う言葉もはずれ、あれから5年が過ぎました。
クオリティーオブライフを考えなさいとも言われましたが、私は手術では無く筋肉を整える事でクオリティーオブライフが実現している気がしています。

今は夫婦で夕食後に温泉健康ランドに出かけプールでの歩行浴をやっています。
始めた頃は20分歩くのがやっとでしたが継続は力なりの言葉通り、今ではその倍の40分ほど歩けるようになりました。
そして痛みの軽減を実感して今までよりアクティブな自分に驚いています。
プールの前後は必ずストレッチを行い少しの筋肉痛も見落とさずに毎分一トンのジェット水流でお尻の筋肉太もも、ふくらはぎなどをほぐしています。

歩くときは股関節症のトレーニングの仕方の本を参考にして歩いています。

その後はサウナに入ったり、ゆっくり温泉に浸かり露天風呂に行ったりと楽しみながら過ごしています。
ストレスが解消され良く休めるようになりました。
それにおまけが付いて来て一月ちょつとで3キロ減量
出来た事は予想外の喜びでした。(笑)

股関節症に負けそうだった5年前、プール歩行なんてとんでも無い、出歩くなんて無理と不平不満だらけだった私が、、、
痛い時には松本先生がいる。と安心していられるように
なりました。
初めて施術をして頂いたあの頃の体重から今は10キロ近く減っています。
コリがほぐれ痛みが軽減すると動くようになり血行が良くなると新陳代謝が活発になって痩せる?と考えています。


これからも前向きに楽しみながら生きて行こうと思っています。
口下手だけど優しいマーク松本先生には心から感謝しています。
常に股関節症の人たちの事を考え研究して学んでいらっしゃるひたむきな姿勢は私がこれまでの人生の中で出合ったどの先生にもかなわないと思います。

どうぞお身体を大切にこれからも宜しく御願いします。




素晴らしい体験記ありがとうございました。
JUNKOさんの元気なお母さんのことも思い出し、所々で涙が出てしまいました。

未来はわかりませんが、自分の人生を悔いなく生きたいですね。
私もそうします。


変形性股関節症を怖がらないでね






体験談 第1弾! JUNKOさん 3

2006-10-28 01:04:26 | 体験談
母は二年前の夏にこの世を去りました。
私より元気なのでは無いかと思うほどパワフルな人
でしたが体調を崩し入院してあっと言う間に逝って
しまいました。
この母は最期まで私の脚を気使い無理をしない
ようにと言っていました。

松本先生とのご縁はさらにさかのぼって四年以上
前になると思います。

五年近く前に新聞に掲載された「のぞみ会」(鹿児島地区会)の会合
に当時、大病を患い手術をして休職中の夫と参加した時にのぞみ会鹿児島地区会の会長さんが
東京、原宿のル サロン オリエントと言う所
から鹿児島に不定期で治療に来て下さる松本先生
の事をご紹介下さいました。
会長さんの別荘を治療の為に解放して下さっている
とのお話でした。
私達は「藁をもすがる思いで」会長さんの言葉を信じて
みようと話し合いました。


先生の第一印象は「怖そう?」「取っ付きにくそう?」
そんな感じでした。

私が先生の前に座る時に先生が見ていたのは私の脚
でした。
第一声、「良い筋肉をしてるね。大丈夫!」と言われた
事が印象的でした。
飛躍的に脚が良くなったと言う印象は無かったのですが
帰る時には心も身体も軽く、希望を頂いた気がしました。
股関節症は一生治らない病気、手術をしても術後は
思わしくないと言う固定観念から開放された時でした。

人見知りな私はその後の治療でも先生、取っ付きにくそう、、、、とずっと考えていたのですが母が付き添って治療に行った時「よかにせ(良い男)の先生だねぇ~♪優しそうだねぇ~♪」と先生を褒めちぎっていました。(笑)
母は人を見る目があると私は勝手に思っていましたので
母のこの言葉がきっかけで松本先生を心から信頼するようになりました。

私の脚は夫の大病の看護の為に無理を重ねて悲鳴
をあげていたのですが「骨の病気では死なない、今は
命に関わるかも知れない夫をこの命に代えてでも守ろう」
と固く心に誓っていましたが夫を見舞った病院からの帰り運転中に脚が攣り唸りながらスーパーの駐車場に停めて脚の攣りが治まった頃に買い物をするのですがレジーに並んで待っている最中も脚が攣り、脚を投げ出して坐ってしまった事もありました。

そんな頃、夫の定期健診のついでに隣の整形外科で
受診した時に言われた言葉にショックを受けました。

「末期です。」人工関節しか道はありません、おそらく
二年以内には手術してくれと自ら言ってくるでしょう
と言われていました。

私は股関節症と言う病気ともう一つ不安と言う苦しみを
背負わされてしまったのです。

松本先生に施術をして頂くようになって二年近く経った
頃、主治医の整形外科でレントゲンを撮って頂いた所
隙間の無かった関節に隙間が認められました。
凝り固まった筋肉を揉み解して血行が良くなった結果
であろうと思います。

痛みは骨では無いと言った松本先生の言葉が思い出された。


つづく

体験談 第1弾! JUNKOさん 2

2006-10-27 21:10:58 | 体験談
婦人科医には二人目は帝王切開を薦められました。
整形外科でレントゲン撮影した所「あなたねぇ~!
お産どころでは無いよ、股関節が非常に悪い、しかも両足だ」と吐き捨てるように言われました。

そうは言われてももう産むしかない時期になり長女を
一人っ子にしたくない思いと日に日に大きくなり増加
した体重をやっとの思いで支えていた私の股関節に
もう少しだけ頑張って、、、と祈りました。

婦人科医と取り決めた帝王切開手術の予定日より
一週間早く入院した私でしたが酷い風邪に罹り
咳が止まらずいつまでも手術が出来ない状態に陥り
家に残した長女を思い落ち込んでいました。

その時、婦長が「一人目は自然分娩したのだから
二人目は産道が出来ているはず私が普通分娩で
脚に負担を掛けずに介添えしてあげるよ」と言って
下さったので自然分娩を決心し両親と夫に
「帝王切開は止めて普通分娩にするから」と電話した所、夫は「JUNKOがそうしたいのなら・・・」と同意して
くれましたが父は病院に飛んで来て
「お前は親にどこまで心配をかけるつもりなんだ・・」
と怒鳴られました。

その時は父親の理不尽な言葉に傷付きました。
今、親になってあの時の父親の言葉に込められた
親心が理解出来ます。
無類の子供好きな父は次女の誕生を大変、
喜んで産後の手伝いに母をよこしてくれました。

二人目の赤ちゃんは一人目の時とは異なり手の掛からない子供でした。

一人目は一時間置きに起きて大泣きし授乳、
24時間そんな調子で夜泣きにも悩まされました。
日がな抱っこしなければならない子育てでした。

二人目は眠くなればいつの間にか眠り、ミルクを飲み
ライナスの毛布もどきのタオルケットを握り締め
指しゃぶりをして、一人遊びの上手な子でした。
「案ずるより産むが易し」ですね。
また長女も良く妹を可愛がり面倒を見てくれました
ので次女は家族全員の手で育てた感じです。

次女の首が座った頃、父は進行性の肝臓癌に
侵されている事が判明、既に腹水が溜まり末期
の状態で私は夫と長女を送り出しベビーバスケットに
次女を入れて高速で父の病院に通い続けました。
この頃は脚が痛い中でしたが、協力して下さる
友人知人の方々のご好意で病院に行っている間は
次女を預かって頂き必死な気持ちの方が痛みに勝り
無我夢中で過ごしていました。

次女、五ヶ月の時に56歳の若さで父は旅立ちました。
一年位は季節が移り変わる事も感じられないような気持ちで過ごしていましたがそれを救ってくれたのは次女の子育てでした。
この頃、座って次女を抱きしめている私を見て夫が
「良かったねぇ~!OOが(次女)居て」と言ってくれたので私はこの子に救われていると実感しました。

月日は過ぎて次女は保育園、長女が中学受験を
したいとの希望を叶える為に私は勤めに出ました。

脚に負担の掛からない仕事を見つけ数年、働き
ましたがこの時は脚の痛みと長女の「家に居て欲しい」
との希望から専業主婦に戻り、我が身を振り返る
余裕が出て来ましたので改めて整形外科を受診
しましたがやはり治療は牽引、電気治療、マッサージ
に湿布と痛み止めが加わったくらいでした。
この時、「持つな、歩くな、長時間立つな」と三つの
指示を受けました。

私は指示通り、家事も適当に家でごろごろする日々
を送るようになりました。
そうする事が大切だと信じ安静、安静と考えていました。

結果、太り、引き篭もりに近い状態で毎日、
イライラしていました。
母親に「脚が痛くて」を口癖のように言いそれを聞いた
母親は事あるごとに家に手伝いに来てくれて
「私はしっかり念を入れて産んだつもりなのに、、、」と
言いながら涙をこぼしていました。

母親を攻めるつもりなど無かったのですが結果、悲しませていた事をこの時の母親の気持ちを今、感じています。


JUNKOさんのご主人とは同級生でして、いつも親しくしてもらってます。
お二人は仲がよくない様に見える、仲のよいご夫婦です。
ご主人は施術にも興味を持ってくれて、いつもJUNKOさんのお尻を押してくれているようです。
いつまでも仲良くしてくれ!
ちくしょう~!・・・泣かせやがって!

つづく

体験談 第1弾! JUNKOさん 1 

2006-10-26 09:26:21 | 体験談
鹿児島のJUNKOさんから体験談をいただきましたので、4回シリーズでそのまま載せてみますね。
知り合ったのは5年ほど前だったか。
JUNKOさんがかなり落ち込んでいる時でした。
今はKUMIKOさんと元気に笑顔で話をしているのが印象的です。
JUNKOさんは犬が大大大好きなんですよね。

皆さん、こんにちは!
松本先生のブログの一読者で松本先生にお世話になっています。JUNKOと言います。
恥ずかしながら体験談もどきを書かせて頂、
出来るなら皆さんと分かち合えたらと考えて
投稿させていただきました。
宜しく御願いしますね。

私が股関節症の痛みを自覚したのは小学校低学年
の徒歩での遠足の後でした。
帰宅早々、「脚が痛いよぉ~」と母親に訴え父親
がマイカーに乗せて近くの医院に連れて行ってくれました。
「この子は生後10ヶ月で歩き始めたのですが歩き方
が不自然だったので整形を受診させて半年間、ギブス
を着けさせて後に半年リハビリに通いました。」
「先天性股関節脱臼だと診断されたのですが完治
したと聞いているのに痛いと言います」
父親はおよそこのような内容の事を医師に話して
いました。

その時の診断は「筋肉痛です。もっと鍛えて下さい」
と言う物でした。

幼かった私はその後、大した痛みも無かったので
忘れるとも無く忘れ、普通の子供同様に駆け回り
元気一杯の幸福な時期を過ごしました。

中学ではテニス部に在籍して人並みの青春時代
を過ごし、高校では体育の時間の砲丸投げで体育教官よりも遠くへ投げると言う女子生徒でした。
その甲斐あってか教官から「ソフト部に来い」と再三
お誘いを頂いた事もありました。(笑)
ようするにマッチョな女の子だったのです。

しかし高校二年の修学旅行で京都のお寺回り
をした夜、脚の痛みから眠れず、自ら整形外科を受診
しました。

寮生活をしていた私は寮を出て地元の整形外科に通い「物療」と言われる部屋で治療を受けました。
治療は当時、悪いと言われていた右足の牽引と電気治療でした。
その時の院長先生は父親の友人で親身な態度で
私にこう言いました。
「JUNKOちゃん、とにかく大人になって結婚して子供を
産み終えたら人工関節の手術をしょうね。」
「この病気は進行性だから今、手術をしても仕方無い
から、、、、湿布を貼って、時々物療に来なさい」

若かった私は事の重大さを認識せずに遠い遠い先の
事だと人事のように考えていました。
両親共この院長先生を信頼していましたので現在の
ようにセカンドオピニオンなど考えつきもしなかったようです。
やがて大人になり脚の事が心配でたまらない両親
(特に父)は「就職はせずに家業を手伝いなさい嫁に
だって行かなくても良いからね。」と言い来る縁談を全て「未だ早い」と言う理由を付けて断っていました。
私は自力で21歳の時に某企業に就職しました。

縁は異なもの味なものと言いますが(笑)
配偶者と縁あって結婚しました。
股関節の事も承知して共に歩いてくれています。

結婚20うん年を過ぎた今までには本当に色々な事が
ありました。

結婚後三年目に長女を授かりました。
この頃から三度目の脚の痛みが始まり乳母車や
コンビラックなどを上手に使って夫の協力もあり子育てをしました。

幼稚園の行事や運動会など脚の痛い事が続き
また超A級の難産だった事も相まって二人目の
子供はためらい、悩んでいました。

長女が小学校に上がり落ち着いた頃
二人目を妊娠、婦人科を受診するまでは
産み育てる自信が持てず暗い気持ちで婦人科の
門をくぐりましたが「おめでとう!予定日は11月です。」
と言われた途端に不安やためらいが吹き飛び喜びが
湧き上がり頭の中には
「パラパラパァ~♪」とバックミュージックが流れました。

これが母性本能と言う物なんだと実感しました。

しかし本格的に脚の痛みに悩まされたのは次女を
出産してからでした。
二人共、2560グラムと2040グラムと小さく産まれた
にも関わらず相変わらずの難産で、、、、


つづく