平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




阿波高校のグラウンドの北側に西光屋敷の石碑があります。
西光800年忌を記念して建てられたもので、
『阿波誌』は、「源師光庁 柿原広永里に在り、其の址今に存す」と
江戸時代にはその屋敷跡の伝承が伝わっていたことを記しています。


最寄りのJR徳島線鴨島(かもじまえき)駅

阿波高校の近くに二条バス停がありますが、
バスは1日に数本しかありません。

徳島県立阿波高校

正門前に関係者以外立ち入り禁止の看板がたっています。
ちょうどグラウンドでは野球部の練習中、
コーチにお願いして敷地内に入れていただきました。



「史跡 西光屋敷 吉野町建之」と彫られています。
この学校の敷地は、
西光が子の広永に治めさせていた柿原政庁跡と伝えています。


西光(藤原師光)は、柿原(現、阿波市吉野町柿原)を本拠地とした在庁官人です。
師光は近藤氏の一族で本姓は近藤氏、一族郎党を従えて
巨大な武士団をつくりあげ、在庁官人として台頭したといわれています。

平安中期になると、国司に任命されても任国には赴かないのが普通となり、
現地には
目代を派遣して在庁官人とよばれる下級役人を指揮させました。
在庁官人は多くは地元の豪族が取り立てられて世襲したので、
次第にその勢力を増し武士化する者が多くなっていきました。


師光は上洛して院近臣の信西に仕え、小才のきくことから
左衛門尉に推挙されました。

一説に師光は信西の乳母子だった縁で京に出仕したともいう。
『尊卑文脈』によると、勅命によって鳥羽院近臣の家成卿の
養子となり藤原氏に改めました。従って、
家成の子の藤原成親(なりちか)とは、義兄弟の間柄になります。

平治の乱では、信西に最後まで随行して宇治田原に逃れ、
その死に際して出家し、左衛門入道西光と呼ばれました。
出家後も法皇庁の御倉預りを務め、
後白河法皇の信頼を得て「第1の近臣」として活躍します。

安元3年(1177)5月、反平家の急先鋒となり、院の近臣藤原成親・
俊寛・平康頼らと鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平家打倒の謀議を行いました。
これが清盛の知るところとなり、西光は首謀者の一人として
西八条第の中庭に引き立てられ、清盛に履物のまま顔を踏みつけられ、
「いやしい出自でありながら、父子ともに身分不相応な行動をし、
あげくに平家討伐に与したのか」と共謀者の名前を白状するよう迫られます。

子の身分不相応な行動とは、少し前に西光の息子
(加賀守師高と師経)のせいで、何の罪もない清盛と親しい延暦寺の
座主明雲が罷免されるという事件があったことをいっています。

西光はもとより不敵の剛の者、少しも動じることなく、
かつて京童に「高平太(たかへいだ)」と呼ばれた清盛の成上りを
徹底的に暴き嘲ったのでますます清盛の怒りを買い、
すさまじい拷問を受けて口を裂かれたうえ、
五条西朱雀で惨殺されました。

清盛は十代の頃、まともな宮仕いもせずに当時、院の近臣として
羽振りを利かせていた藤原家成の邸に柿渋染の粗末な直垂(ひたたれ)に
縄の緒の高足駄(僧や庶民の履物)を履いて出入りし、
京の口さがない若者たちに「下駄ばきの平家の総領息子」と
笑われたことが『源平盛衰記』にみえます。

処刑は通常、六条河原や北山の葬場辺りで行われましたが、
西光は清盛にとっては腹に据えかねた相手だったため、重犯人として
五条と朱雀の交差点の西側、つまり都の中央で死刑が行われたのです。

この鹿ケ谷事件の影響は柿原にもおよび、阿波国で留守を守っていた
師光の4男広永(ひろなが)は、平家の命を受けた田口成良(しげよし)に
柿原庁を追われ、土成(どなり)町宮川内(みやがわうち)で
自害したと伝えられています。阿波高校付近の
「ヒロナカ」という地名も、広永の名に由来するという。
田口成良(重能・成能とも)は、当時阿波の平家方として
最大の勢力を誇っていた桜間(現、徳島県名西郡石井町)の豪族です。
案内神社

案内神社は阿波高校からそう遠くない所にあります。







当社のある柿原は、藤原師光(西光)の所領地で『阿波誌』は、
「藤原師光庁 柿原広永里にある」としています。
祭神は猿田彦命。藤原師光・近藤親家(ちかいえ)父子を
併記しているといわれています。

鹿ケ谷事件後、阿波の平家方の田口成良に柿原庁は襲われ、
4男と5男は討死し、6男の親家は板野町板西(ばんざい)に逃れ、
その後、文治元年(1185)には、阿波国勝浦に上陸した
源義経を屋島へと案内し、義経の勝利に貢献しました。

社名の案内神社は、猿田彦命が天孫降臨に際して、その道案内を務めたこと、
藤原師光が平家打倒の
先導役を果たし、その子親家が
義経の屋島進攻の道案内をしたことにちなんだものとされています。

境内の大クス(樹齢約600年)は、昭和33年(1958)に
県の天然記念物に指定されました。

鹿ケ谷俊寛僧都山荘址   
鹿ケ谷山荘での平家打倒の密議は史実それとも
院側近を一掃するために清盛がでっちあげたのでしょうか?

鹿ケ谷の陰謀は史実か  
『アクセス』
「西光屋敷の碑」(阿波高校) 阿波市吉野町柿原字ヒロナカ180
JR徳島線鴨島駅下車 タクシーで約10分。徒歩だと約50分。  

またはJR徳島線鴨島駅から徳島バス、
JR高徳線・牟岐線徳島駅から徳島バス「二条」停下車 徒歩約6分
バスはどちらも1日に数本しかありません。ご注意ください。

「案内神社」阿波市吉野町柿原字シノ原
徳島バス「二条」停から徒歩約14分 バス停「二条中」から徒歩約10分
『参考資料』
「徳島県の地名」平凡社、2000年 「徳島県百科事典」徳島新聞社、昭和56年
 「郷土百科事典 徳島高知県」(株)ゼンリン、1998年 「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 完訳「源平盛衰記(1)」勉誠出版、2005年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
歴史の大きな転換点にかかわった一族なのですね。 (yukariko)
2018-07-23 21:10:56
藤原師光が平家打倒の先導役を果たし、その子親家が
義経の屋島進攻の道案内をしたとは、凄い歴史の巡り会わせの転換点に立ち会った一族ですね。
わが世の春の平氏が鹿ケ谷の事件をきっかけに崩壊し始め、逼塞していたはずの源氏が台頭してこの後、全国が源氏一色になってゆくのですから。

 
 
 
そのようですね (sakura)
2018-07-26 10:13:34
父親を清盛に惨殺された近藤六親家は、時の流れで
平家に従いながらも
深く清盛を恨んでいたと思われます。

親家は義経に早くから通じ、四国の情勢を事あるごとに報告し、
平家の主力部隊が伊予に出陣していて、今屋島が手薄であると知らせたので、
義経は悪天候にもかかわらず、阿波へと船出したのでしょう。
親家は地元の武士ですから、阿波勝浦から屋島への道や引き潮の時には、
屋島へ馬で渡れる事などすべて知り尽くしていたはずです。
源氏は正面の瀬戸内海から攻めてくるものと思い込んでいた平家は、
海からの攻撃に備え、舟を入江に停めていたのですが、
陸地からの義経の奇襲攻撃に一たまりもありませんでしたね。

お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
 
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