平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




元暦2年(1185)2月17日、義経は屋島にこもる平家を討つため、
僅か150余騎で荒れくるう雨風を押して渡辺の津を船出し、
3日かかるところをわずか6時間で阿波の勝浦に渡ったといいます。

上陸すると海岸には平家の赤旗が翻り、百騎ほどがひかえていましたが、
義経勢に蹴散らされ、大将の近藤六親家(ちかいえ)は捕えられました。
親家からこの地の名が勝浦(現在の小松島市)であると聞くと、
義経は縁起のいい名に喜び勇みます。

近くに平家方の田口成良(重能)の弟、桜間良遠(よしとお)の
拠点があることを聞きだし直ちにその城を攻め落とし、
さらに成良の嫡男の田内教能(でんないのりよし)が源氏方の
河野通信を討つため三千騎を率いて伊予に出陣しているので、
屋島は手薄であると教えられます。
これをチャンスとみた義経は、休む間もなく夜通し駆け屋島の
背後に着きました。(『平家物語・巻11・勝浦合戦の事』)

物語は上陸地の名も屋島を守る軍勢の人数も
義経が知らなかったとしていますが、
義経の阿波上陸は、平家に深い恨みをもつ親家との
密接な連携のもと、平氏勢力の田口氏の本拠を討ち、
屋島を背後から攻めようという意図があったと思われますし、
田内教能が伊予に出陣中で
、屋島に残っている軍勢が少ないという
情報も手に入れ、周到な準備をしていたと考えられます。
義経の迅速な行動を支えたのは、親家の協力があったからです。

屋島へ義経を道案内した近藤六親家は、
西光(藤原師光)の子とされています。
西光はもとは阿波の在庁官人でしたが、後白河院側近の
信西の家来となってから頭角を現し、
平治の乱で信西が殺された後、後白河院の近臣に転じ、
きり者とうたわれ権勢を誇っていました。
治承元年(1177)、平氏に対する反感が次第に高まり、
後白河院近臣による鹿ケ谷事件が起こります。
この謀議に加わり捕われた西光は斬殺されました。

それでも清盛はおさまらず、西光の子ら(師高・師経・師平)を処刑し、
田口成良に命じて阿波郡柿原(現・阿波市吉野町柿原)にいた
四男の広長まで攻め自害させました。この時、
六男の親家も柿原にいましたが、難を逃れ板西城に潜みました。

親家も阿波の在庁官人ですが、「治承三年(1179)の政変」で
清盛が軍勢を率いて後白河院を鳥羽離宮に幽閉し
京都を制圧、院政を停止させて以後、阿波国在庁は
平家方の田口一族が掌握し、近藤氏は逼塞していました。


義経が阿波勝浦から一気に北上して讃岐の屋島に攻め寄せた道は、
義経街道と呼ばれています。

中でも小松島市田野町の勢合(せいごう)を起点として、
小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルは
「義経ドリームロード」と称され、案内板や道標が設置され、
ハイキングコースになっています。


義経軍が阿波に上陸後、あちこちに吹き寄せられた軍船を集めて
兵たちが勢ぞろいした場所にたつ勢合の石碑。

近くには義経橋や弁慶橋などの伝説地が点在しています。
義経が屋島へ進軍したという義経ドリームロードを少し外れ、
寄り道して義経橋を渡りましょう。

勢合の碑から義経ドリームロードを進み、
水路に沿って義経橋を目ざします。

平成七年に架けられた義経橋



渡辺の津(義経屋島へ出撃) 
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード) 
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成
17
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 五味文彦「源義経」岩波新書、2004
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 県史36「徳島県の歴史」山川出版社、2007



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
義経ドリームロードとはすごい名前ですね。 (Yukariko)
2016-01-13 20:29:56
義経が屋島に進軍し打ち破ったとしか知りません。
屋島にあった内裏や平家に従った武士達を攻め、
また海に追いやったとだけ思っていましたが、
実際はそこで色々な戦があったのでしょうね。
これから義経一行の詳しい足取りを読ませて
いただけると思うとワクワクU+1F603U+1F495します。
 
 
 
あまり知られていませんが… (sakura)
2016-01-14 07:32:51
義経は小松島市にたくさんの足跡を残しています。
市では義経が駆け抜けた道、史実と伝説が交錯する歴史街道を
義経ドリームロードと名づけ、地元を歩いた歴史の英雄を語り継いでいます。
 
 
 
2月17日について (自閑)
2016-01-17 14:30:17
元暦2年(1185)2月17日の事をずっと考えております。
ユリウス暦3月21日ですので、春嵐の代表格の春一番には少し遅く、風向きが逆になります。
やはり、花冷えの寒気団の南下と寒冷前線の通過時に渡辺津から出港したのかも。
月齢が17月ですから、明石海峡を潮の流れに沿って行くためには、自ずと出港時間が限られて来ます。
瀬戸内海は、潮の流れが複雑ですから、汐待に時間が掛かるが、義経は一気に潮に乗ったから直ぐ着いたのでは?と素人ながら思う次第です。
今度、海上保安庁のHPでも調べてみます。800年前と潮の流れは同じですから。
 
 
 
渡辺津から阿波へ (sakura)
2016-01-18 17:13:27
幸運な潮流にのって一気に阿波に着いたという
自閑さまのご意見ありがとうございます。

「平家物語」によると、暴風雨の中、義経は渡辺津から
150騎を5艘の船に分乗させて阿波勝浦に渡ったと語っています。
現地で調達した船で阿波に向かおうとしましたが、
その矢先、暴風雨が起こり多くの船が破損し、出航は一時延期となりました。
この間に梶原景時と義経の口争いがあったとされています。
阿波行の船は手勢のほか、馬、漕ぎ手、若干の従者を加えると、
1艘の船に50人近く運べる規模であったと思われます。

大風が吹けば波が高くなり櫓は使えないので、
帆を張って風の力で航行したということになりますが、
当時はムシロ帆ですから、暴雨の中では水分を含んで
重くなり転覆の恐れがあります。
5艘の船の漕ぎ手はそうとう熟練したプロ集団だったのでしょう。
通常3日かかるところを追い風に乗って、
およそ6時間で阿波の海岸に到着したのでした。

これについて私の考えは次のようです。あくまで素人の勝手な推測ですが…

平家物語はいわゆる歴史書ではなく、歴史に題材をとった物語です。
琵琶法師たちはこの物語に登場する敗者の哀れを語り、
人々に受け入れられました。
聞き手である民衆は、勝者でなく敗者に心を寄せます。

後に兄頼朝に疎まれ、悲劇的な最期を遂げた義経に
寄せてさまざまな思いがつけ加えられました。
義経がいかに迅速に屋島を落としたか、
軍事の天才であったのかということを強調するために、
猛烈な速さで渡辺の津から阿波に渡り、
ちょうど手薄になった屋島に到着した。と語っています。

また海上保安庁のHPでお調べになったら、結果を教えてください。
 
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