平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




都を追われ九州に逃れた平家はやがてここも追われ、一門の新たな拠点が屋島でした。
屋島の内裏ができるまで六萬寺を安徳天皇の御所としていました。



都落ちした平家は8月末に九州に辿りつき、
肥後国(熊本県)の豪族菊池隆直の案内で大宰府に入ります。
都を出たのが7月25日ですから1ヵ月以上かかったことになり、
それまでは船上で日を送っていたものと思われます。

日宋貿易の重要な拠点でもあった大宰府を清盛次いで異母弟の頼盛が
大宰大弐(大宰府長官)となって管理していた頃から、
九州は平家の地盤であると平家の人々は思っています。

ところが清盛が亡くなる前後から平家の没落を察して
全国で叛乱が激化、九州でも菊池隆直が謀反を起こします。
九州鎮圧のために派遣された平貞能がようやく乱を平定して都へ帰り、
続いて源行綱謀反の報に淀川河口に出陣しますが、
誤報と分かり戻る途中、
都落ちの一門に遭遇し棟梁の宗盛に西国の情勢を説明、
都での決戦を進言したことは「平家一門都落ち(鵜殿)」で述べました。

当時、大宰府の現地官僚の最高責任者大宰小弐を務めていたのが
平氏家人の原田種直でした。
安徳天皇は原田種直の館(福岡の南)に入り、当面ここを行宮にします。
一門の人々の住まいは野の中、田の中にあり、歌に詠まれた
大和国の十市の里そのままのひなびた風情です。

平家は大宰府に都をつくり内裏を造営しようとしますが、
その動きを抑えにかかったのが後白河法皇です。
法皇が側近の豊後国(大分県)国司藤原頼輔(よりすけ)に
平氏を追放するよう命じると、頼輔は息子頼経を豊後国に差向けます。
頼経は同国の有力武士緒方三郎惟義に平家一門を
決して豊後国に入れてはならぬこと、
院宣に従って平家を追討するよう指示します。

緒方三郎は九州・壱岐・対馬の武士にこの院宣を伝えたので、
これらの国の主な武士達は、緒方三郎に付き従います。
都からお供をしていた菊池隆直も肥後国に帰り、
そのまま自分の城に籠もって戻っては来ません。

緒方三郎はもと重盛(清盛の嫡男)の家人だったので、
重盛の次男資盛が緒方三郎を説得する使者に選ばれ、
五百騎を従えて資盛の家人で、九州の事情に詳しい
平貞能(さだよし)とともに豊後国に出向きます。
重盛の嫡男は維盛ですが、
富士川合戦・倶利伽羅合戦で惨敗して勢力を弱め、
法皇と親密な関係にあった資盛や重盛の腹心であった貞能が
適任と緒方との折衝に派遣されました。

しかし緒方三郎は説得に応じる様子は全くなく資盛らを追返します。
さらに息子を大宰府に遣わして平家に退去を迫ります。
この時、時忠(時子の弟)は緒方らの忘恩をなじります。
その報告を聞いた緒方三郎は立腹し
「こはいかに、昔はむかし、今は今」と大宰府に大軍を差向けたので、
取るものもとりあえず逃げ出します。激しい雨の中建礼門院はじめ
女房たちまでが、かちはだしで海岸沿いを東へ。
迎えられて遠賀川河口に近い山鹿秀遠の居城に籠もりますが、
ここも敵が攻めて来るというので柳ヶ浦へ渡ります。
さらにここも追われて、漁の小船に乗り海上に出ます。
長門国(山口県)の目代紀伊道資は平家が小船に乗ったと聞き
大船百余艘調達して献上します。
これらの船に乗り込み再び瀬戸内海に出て、東へと漕ぎ出します。

この時、平貞能は出家して九州に留まり、
重盛の三男清経は前途を悲観して柳ヶ浦で入水します。
清経は「都を源氏に追い出され、九州を緒方三郎に攻め落とされ、
まるで網にかかった魚のようだ。
どこに行っても逃げ切れないであろう。」と静かに経をよみ、
念仏を唱え海に身を投げたとされる。
なお柳ヶ浦の地をめぐっては、伝承地が二ヶ所あります。
一つは北九州市門司の海岸、もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。

こうして九州各地を追われた平家は
四国の水軍・阿波民部成能(しげよし)の計らいで屋島へ逃れます。
成能は味方する四国の者の力を借りて、内裏や御所を造らせます。
平家はこの地を本拠地と決め、やっと落ち着くことになりました。
都を出てから3ヶ月目の頃のことです。

成能は阿波国の豪族で、早くより平家重臣の一人となり、
平重衡が南都の大衆を攻め、焼討を行なった際には先陣を務め、
また清盛が大輪田泊の造営を行なった時、
成能は奉行を命じられこの難工事を完成させます。







六萬寺(真言宗)
六萬寺は五剣山(八栗山)の中腹、源平屋島古戦場の東にあります。
寺伝によると天平年間に悪疫が流行し、聖武天皇の命により、
行基が創建して祈願したところ疫病は終息したという。
その後、大いに隆盛して七堂伽藍が備わった寺院となり、
薬師如来六万体を安置して六萬寺と呼ばれ、
牟礼・大町一帯に多くの支院をもち寺域も広大であったという。
源平合戦では、屋島内裏造営の間、安徳天皇の行在所とされましたが、
長宗我部元親の兵乱により鐘楼一宇を残して伽藍は焼失、
江戸時代に高松藩主松平頼重が伽藍を再興したと伝えられています。

境内の一角には、「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。




平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
 『アクセス』
「六萬寺」高松市牟礼町牟礼田井 
琴電「六万寺」駅下車 
北へ坂道を1kmほど団地の方向に上ります。
徒歩約20分。安徳天皇慰霊祭は例年5
月第4日曜日に行われます。

 『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 高橋昌明「平家の群像」岩波新書 
 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
「香川県の地名」平凡社
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店  「謡曲集」(中)新潮社 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 「検証・日本史の舞台」東京堂出版

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
西国は平氏の拠点と思っていましたが… (yukariko)
2013-03-14 23:52:46
どうして九州にまで下って天皇を柱に拠点を定めなかったのだろうと思っていたのですが、法皇方の攻勢でそうさせてもらえなかったのですね。

平氏でなければ人でないと思い上がっていたのに、都から付き従っていた家人にまで「昔は昔、今は今」といわれ、追われて徒裸足で海の上に逃げざるを得なかったとは悲惨すぎて、堂上の公達育ちの若者にとっては自殺もしたくなりますね。
屋島の六万寺の堂塔伽藍は行在所としては立派でもそれまでの漂白で一族もお互いを疑い、先を思ってくたびれ果てていた事でしょう。
 
 
 
清経の入水について (sakura)
2013-03-17 10:36:47
平家物語には、清経は日頃から思いつめる性格であったと記されています。
小松殿の公達は、武門の家に生まれながら和歌や管弦の道にいそしむ
優雅な生活をしていたと思われます。
清経も名目上の大将にかつがれて園城寺攻めや東国攻めに加わっていますが、
大した働きはしていません。戦場や都落ち後の定まらない生活は
彼にとって大変辛いものだったと思われます。

平治の乱後、頼朝の助命を池禅尼が清盛に嘆願した時、
重盛の口ぞえもあったため頼朝は池禅尼の子・頼盛や重盛には
好感をもっていたと云われています。頼盛が都落ちの途中から
都に戻ったことはご存知だと思いますが、
小松殿の公達も主流派の時子や宗盛たちから疑惑の目を向けられています。
こういった疑惑を払拭する意味でも、何としても緒方を説得したかったのではないでしょうか。
やはり緒方との交渉が上手くいかなかったことが、重盛の腹心・貞能の立場を悪くし、
小松殿の公達にとって精神的な重圧になったのではないでしょうか。
 
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