平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平家一門の権力が増大し、朝廷内で幅を利かせるようになったことを
快く思わない藤原成親・西光・俊寛・平康頼といった後白河院の
近臣たちによる平家打倒の謀議が発覚し、成親と西光は処刑され、
俊寛・康頼らが鬼界ヶ島に流されました。鹿ケ谷事件です。

この事件に関しては、本当に平家打倒のクーデター計画があったのか、
それとも清盛が平家に対して反抗的な院近臣勢力を一掃するために
でっちあげたのかは、定かではありませんが、
河合康・下向井龍彦両氏は、鹿ケ谷事件は清盛の謀略であると、
それぞれの御著書で述べておられます。


事の発端は、
安元2年(1176)に加賀守藤原師高(もろたか)と
その弟で目代の師経(もろつね)が、白山神社領湧泉寺(ゆうせんじ)と
所領問題で対立し、師経が赴任の途中、寺僧に乱暴を働き、
堂舎を焼き払ったことにありました。
白山の訴えを受けた本寺の延暦寺は、朝廷に師高の配流を要求しましたが、
この兄弟の父親が後白河院近臣の西光(もと信西の家人)であるため、
院は承知せず、師経の流罪だけで事態をおさめようとしました。

これに怒った延暦寺側は神輿を担いで京都に押しかけました。
この時、重盛の率いる軍勢の放った流れ矢が
日吉社(ひえしゃ)の神輿に命中し、
延暦寺の大衆にも死傷者が出て大事件に発展しました。
この不祥事に朝廷内にも非難の声があがり、
後白河院は仕方なく加賀守藤原師高の配流を決めました。

西光はこの決定に腹を立て「明雲は加賀国にある
自分の所領を息子の師高に没収されたのを恨み、延暦寺の
大衆をそそのかして強訴を行ない朝廷の一大事を招いた。」と
讒言し天台座主明雲の処分を要求しました。
お気に入りの西光の言葉を信じて激怒した院は、
謀反人として明雲を検非違使に引き渡し、
天台座主の地位を追い、代わって
鳥羽院の第七皇子覚快(かくかい)
法親王(後白河院の弟)が任命されました。
公卿が参内して明雲処分の議定が行われ、多くの公卿が明雲の
流罪に反対しましたが、後白河院はこれを無視して
伊豆への配流を命じ、藤井松枝という俗名を与えました。

都から出せというので、追立の官人が白河の御坊(現、青蓮院)に
やってきて明雲を追い出したので、粟田口のほとりにある一切経の
別院(延暦寺別院・粟田神社の南)に移り、配所へと向いました。
それを当時、まだ僧都であった静憲法印(信西の子)が
名残を惜しんで粟津まで見送りました。
明雲は静憲の情に感じて、長年、心に秘めていた天台の相伝、
「一心三観(いっしんさんかん)」を静憲に授けて別れました。

延暦寺の大衆は再び蜂起し、配流途上の明雲を
「奪い取れ」とばかり
2千人が雲霞のごとく山を馳せ下りました。この勢いに恐れをなし、
護送・警護の者どもは明雲を置いて逃げ去りました。
こうして、近江の瀬田付近で大衆は明雲を取り返し、
比叡山東塔の南谷妙光坊に匿いました。


白河の御坊
東塔の青蓮院(しょうれんいん)の白河にある里坊。
現在の東山区粟田口の青蓮院にあたります。


京都から大津に至る東海道の出口にあたる粟田口。

西光は法皇に「山門大衆の身勝手な強訴は今に始まったことでは
ありませんが、これほどの不法な行為は前代未聞です。
これを咎めないと世の中の秩序が成り立ちません」と申しあげました。
「讒言の臣は国を乱すというが、西光は今に我が身の滅びることに
気づかず、山王の神慮のほども省みないでただ法皇をたきつけ
お心を悩ますようなことばかりいう。」と
『平家物語』は西光を痛烈に批判しています。

こうして法皇側も山門側もひっこみがつかない事態となり、
安元3年(1177)5月28日、法皇は清盛に延暦寺攻撃を命じました。
清盛出家の際、明雲は導師を務めた僧であり、
これまで清盛は明雲や延暦寺と友好的な関係を保ってきましたが、
法皇の命に叛くわけにはいかずしぶしぶ比叡山攻めを
承知させられたものの、内心は山門と事を構えたくありません。

『平家物語』によると、その翌日
の夜更け、
清盛の西八条邸に多田行綱が訪れ平氏打倒の密議があることを告げ、
事態は急転回し、清盛はすぐさま西光を捕らえました。
「明雲を配流し、及び万人を法皇に讒言す」というのがその理由です。
清盛は西光に激しい拷問を加えて、共犯者の名前を白状させ、
これにより院近臣らの平氏打倒の陰謀が暴かれました。
西光は五条朱雀ですぐさま斬殺、
藤原成親は備前国に流され、後日そこで殺され、
俊寛と平康頼は成親の子成経とともに鬼界が島に流されました。
いわゆる鹿ケ谷事件です。
こうして清盛の延暦寺への武力攻撃は、
直前で回避されました。

比叡山攻めを実施せざるを得ないところまで追い詰められていた
清盛にとって行綱の密告はあまりにタイミングが良すぎると
これを平家物語の虚構とする見解があります。
平氏打倒計画の情報を清盛は早くに得ていて、この機会にそれを利用し、
密告者を仕立てあげて、トラブルの原因を作った西光を葬り去り、
延暦寺との対決を避けたという解釈です。

河合康氏は『平家物語を読む』の中で、行綱が密告者であるならば、
これ以降は後白河院のもとでの行綱の活動は見られないはずであるが、
以後も行綱は京武者として活動し、法住寺合戦では、
子息とともに後白河院方として木曽義仲と戦っている。とし、
多田行綱の密告は虚構であると指摘されています。

下向井龍彦氏は、清盛は延暦寺攻撃を承諾したものの、
延暦寺を敵に回したくないため、延暦寺攻撃を回避しつつ、
平氏に反抗的な院近臣を一掃するために謀略を仕組んだのである。
鹿ケ谷の陰謀はなかったと述べておられます。(『武士の成長と院政』)
 

ただ、4度も天台座主を務めた慈円の『愚管抄』には、
鹿ケ谷の山荘に後白河院がお出でになった時、成親・俊寛・西光などが
集まって会議をしたという噂があったと記されていることから、
密議は存在したとも考えられますし、
平家物語の作者はこの世評をもとに、興味深い
鹿ケ谷事件を記し、物語を構築していったと思われます。

追立の官人
流人を京都から追い立てる使者で、ふつう検非違使が任じられます。
平安時代西国に配流の時は七条朱雀の辺まで、東国・北国の時は
粟田口辺まで送り、その先は領送使が護衛します。

西光の子供らのその後
清盛は先に尾張国に配流されていた加賀守藤原師高や目代師経を
殺害した上、阿波にいた西光の子供らを襲わせましたが、
近藤六(近藤七とも)親家が難を逃れ、源義経が屋島を攻めるため、
阿波に上陸した時、親家が道案内し義経は屋島に向けて出陣したという。
(『吾妻鏡』文治元年(1185)2月18日条)

『アクセス』
「青蓮院」京都市東山区粟田口三条坊町
「粟田口の碑」白川小学校前 京都市東山区三条通東入3丁目夷町175-2 
市営地下鉄東西線「東山駅」下車東へ5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社 
川合康「平家物語を読む」吉川弘文館 下向井龍彦「日本の歴史07武士の成長と院政」講談社 
上杉和彦「平清盛」山川出版社 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 
松尾美恵子「異形の平家物語」和泉書院 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
「京都市の地名」平凡社 
「京都大事典」淡交社

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
小さく見える事件でも裏には幾つもの伏線がつきものですが… (yukariko)
2012-09-11 12:35:08
私たちが話やお芝居で知っている鹿ケ谷事件では、平氏打倒の共同謀議の俊寛と平康頼と成経がともに鬼界が島に流され、後に許された時、俊寛だけは恩赦がなかったというその前後の悲劇が有名ですが、そこに至るまでには法皇側と山門側一通りではない幾つもの事件があったとは!

学者の方々は800年以上のちの今も事件の真相を追及されているのですね。

確かにこの時の清盛の怒りが凄まじかったのは、裏の諍いと比叡山焼き討ちをチャラにすべく、謀叛の謀議に対して重い刑罰を科し、重盛と妻の姻戚関係、身内さえも処分する必要があった…ありそうな話です。

裏の事情を全く知らないから、清盛というのは「瞬間湯沸かしポット?」なのかなと…すぐに熱くなり沸騰する(笑)



 
 
 
歴史学の面白さとでもいうのでしょうか。 (sakura)
2012-09-12 16:43:41
さまざまな史料の再検討がなされ、誰もが信じていた歴史像に疑問が呈せられ、
これまで史実とされていたことが、時に揺らぐことがあります。
行綱の密告を平家物語のでっちあげと見るか、平家物語の記述を肯定するのか。
残された史料と状況証拠から研究者たちが疑問点を突き詰めて下さって、新史実の発見となるのでしょうか?これからの研究が待たれます。

平氏との姻戚関係が深い成親
藤原成親は野心家だったため平治の乱では反乱軍に加わり、その後も解官や流罪に処せられ、最期は清盛のリンチで哀れな末路をたどります。
次回、成親が先のとがった武器を地中に埋め立てた上に崖の上から突き落とされた。という吉備をたずねます。

 
 
 
私の見解について (川合康)
2022-03-15 09:59:55
本ブログで、「この事件に関しては、本当に平家打倒のクーデター計画があったのか、それとも清盛が平家に対して反抗的な院近臣勢力を一掃するためにでっちあげたのかは、定かではありませんが、河合康・下向井龍彦両氏は、鹿ケ谷事件は清盛の謀略であると、それぞれの御著書で述べておられます」とお書きになっておられます。この「河合康」が私のことであるならば、私はそのようなことを述べておりません。安元三年の政変は、のちに語られるような「鹿ケ谷事件」ではなかったことを論じました。ご確認下さい。
 
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