平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



一ノ谷合戦で惨敗した平氏は、かつて陣を布いていた屋島へ退いていました。
それを追って義経はわずか150騎ばかりの手勢を率いて
嵐のなかで船を進め、元歴2年(1185)2月18日、阿波勝浦に上陸し、
そこから休む間もなく海岸沿いを走り抜けて
勝浦川の対岸に渡り、平家方の桜間城を突破しました。
ここまでは「義経阿波から屋島へ進軍1~4」で、紹介させていただきました。
義経阿波から屋島へ進軍1  

ここから義経は現在の徳島市を北上し、
吉野川を渡って板野町に入り屋島に迫ります。
通常2日かかるといわれた讃岐への道を徹夜で騎馬を走らせ、
大坂峠を越え翌朝、讃岐牟礼(むれ)
に姿を現しました。
阿讃山脈の最東端に位置する標高270mの
大坂峠(板野郡板野町大坂)は、阿波と讃岐との国境にあり、
阿波から讃岐に最短距離で入るルートですが、
険しいつづら折れの道が続きます。

この峠入口の板野郡は、西光の四男広長が清盛の命を受けた
田口成良に攻殺された時、難を逃れた六男親家(ちかいえ)が
潜伏した地(板野郡臼井)とされ、親家が築いた
板西(ばんざい)城(板野郡板野町)があった所です。
この辺りの地理に詳しい親家の案内があったからこそ、
義経勢は深夜の難路を行軍できたと思われます。



最寄りのJR板野駅

県道122号線と徳島自動車道が交わる少し南に板西城跡600㍍の道標があります。









現在、大坂峠には板野町側に「あせび公園」があり、
瀬戸内海国立公園を眼下に見下ろす展望台が設けられ、
引田(ひけた)までの峠道は遊歩道として整備されています。

『平家物語』には、「その日は阿波の板東、板西(板野郡の東部・西部)を
行き過ぎて、大坂山を越え引田で馬を休め、
丹生野(にうの)、白鳥、古高松うち過ぎうち過ぎ、
屋島内裏の対岸牟礼に騎馬を乗り入れた。」とあり、これらの地名はJR高徳線
「引田」「讃岐白鳥」「丹生」や琴電「古高松」の駅名に残っています。



牟礼の六万寺辺り、横から撮影した屋島



疾風怒濤のように義経が屋島へと駆けたルートの周辺には、
義経にまつわる伝説や説話が数多く残されています。
その中のいくつかをご紹介させていただきます。
◆勝占(かつら)神社 (徳島市勝占町)
『源平盛衰記』によると、「田口成良(しげよし)の子
田内教能(でんないのりよし)を田内成直(しげなお)とし、
その居城を「勝宮」としています。そして
田内成良を大将とする主力軍が河野通信(みちのぶ)を攻めに
伊予に出陣していると親家から知らされた義経は、
わずかに残っていた残留部隊を散々に蹴散らしました。
義経は勝浦の「勝」に勝宮の「勝」どちらも「かつ」とよむという
縁起を担いで士気を鼓舞した
。」と記しています。
勝宮は熊山城に程近い勝占神社であると考えられており、
この社には成直が奉納したという木像の狛犬と義経が奉納したと
伝えられる雁股(かりまた)の矢じりがあるといわれています。


◆伏拝(ふしおがみ)神社(徳島市一宮町)
この地を通りがかった義経が源氏の氏神である八幡神社を見つけ、
社前に下馬して平家追討の祈願を行ったことから
伏拝神社と呼ばれるようになったという。

◆舌洗池(したらいいけ)(徳島市国府町観音寺)
義経が馬に水を飲ませた池との伝承から、
舌洗池と呼ばれるようになったとされます。

◆住吉神社(板野郡藍住町住吉)
社伝によると、阿波勝浦から讃岐に向かう義経一行の行く手を、
増水した吉野川が遮り、途方にくれた義経が住吉神社に
一心に祈願したところ、にわかに白鷺が舞い降りて来て、
浅瀬の位置を教え川を渡ることができました。
屋島合戦後、義経は社殿を造営しその恩に報いたという。

◆四国霊場3番札所金泉寺 (板野郡板野町)

『源平盛衰記』によると、義経が金泉(こんせん)寺を通りかかると、
寺では近くの住民が集まり、折しも盛大な観音講が催され
宴会が始まろうとしていました。
しかし一行の軍馬の音に驚いて村人は逃げてしまい、
義経らが酒肴を食べて峠越えの腹ごしらえをしたという
話が載っています。義経が弁慶に力試しに持ち上げさせたという
「弁慶の力石」が方丈前の池の畔にあります。

◆鎧橋 大坂峠に向かう道筋に架かる鎧橋は、
一行が休憩のために鎧を脱ぎ
木にかけたと伝えられています。

◆馬宿(うまやど)
阿波から大阪峠を越えて、讃岐に入って
最初の駅家(うまや)があったところです。
義経軍もここで馬を休めたといわれています。
屋島古戦場を歩く(屋島寺)  
『アクセス』
「板西城跡」
徳島県板野郡板野町古城 JR高徳線・板野駅から徒歩約30分
「大坂峠登り口」JR高徳線阿波大宮駅北へ約1,5K
板野町商工会  http://www.itano.biz/
『参考資料』
「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 
角田文衛「平家後抄 落日後の平家」(上)講談社学術文庫、2001年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 「平家物語図典」小学館、2010年



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
やはり義経は頼朝が恐れるほどに運が強いですね。 (yukariko)
2016-02-04 23:39:02
通常2日かかるといわれた讃岐への道を徹夜で騎馬を走らせ、阿波から讃岐への最短ルートを通り、
辺りの地理に詳しい親家の案内で深夜の難路を行軍。

また親家の情報で田内成良以下の主力軍が出払った後の残留部隊を散々に蹴散らし、勝ち戦で勢いを付けて、屋島まで駆け抜けたという事。
その動いた後には長い年月を経た後でも伝説が一杯残っているとはやはり義経はカリスマですね。


 
 
 
そうですね。 (sakura)
2016-02-05 09:23:06
頼朝も強運のもち主ですが、義経も兄に劣ることなく運が強いです。
強風の中、渡辺の津から阿波まで驚くほど短時間で辿りつき、
平氏方の桜間良遠の城を落としています。この時、落ち延びた
良遠が屋島の平氏に「義経が近づいている」と知らせたら状況は変わったでしょう。
のち頼朝に追われ大物浦から西海に船出した義経は、
嵐で遭難しています。完全に運に見放されてしまいました。

伝説・伝承の中には荒唐無稽なものや後世のかこつけもありますが、
義経が辿ったとみられるルートをうかがうことができます。

 
 
 
屋島に登りました。 (ひろ庵)
2016-02-06 12:10:43
四国八十八ヶ所第84番屋島寺には麓から歩いて登り頂上の屋島寺に着きました。昼食後に参拝しました。
源平合戦での血を洗った血の池もあり、なかなか眺望の良いところでした。
そして急な坂を下り第85番八栗寺へ向かう途中に讃岐33番観音第2番洲崎寺へより、源平合戦の情景を表わした庭園を拝見。このあたりはいろんな源平合戦の遺蹟らしいのが残っていますね。
 
 
 
すごいですね! (sakura)
2016-02-06 16:11:11
あの急坂を歩いて上られたのですね。
私が屋島寺へ始めて行ったのは、平成14年の春のことです。
お遍路さんのバスツァーにもぐりこみ、
白峯寺・善通寺・屋島寺などを参拝しました。
その時は屋島寺へは観光バスで、今回もむろんバスで上りました。
この前、金泉寺・源平志度合戦の志度寺などを拝見させていただきました。
先ほど改めて屋島寺・洲崎寺・白峯寺やその麓の天皇寺などを
見せていただき、長尾寺に静御前の剃髪塚があるのを知りました。
ひろ庵さまのサイトも源平屋島合戦史跡の宝庫です。
また訪問させていただきます。
YahooのIDを持ってないので、コメントできないのが残念です。

 
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