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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




鶴岡八幡宮の東鳥居を出て東に向かうと、清泉(せいせん)小学校が見えてきます。
この辺一帯は、治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って建てた邸跡で、
最初の幕府が置かれた大蔵幕府の跡です。
頼朝の墓はその一番奥まった一角、小高い丘の上にあります。
この丘の上は法華堂の跡地として知られ、
頼朝が邸内に持仏堂をたて、法華経講読をした場所です。
(清泉小学校角に建つ大蔵幕府跡の碑の所に頼朝の墓への道標が出ています。)




頼朝こそわが先祖と称する薩摩藩主
島津重豪(しげひで)が江戸時代に
改修整備した墓。

十数年前にはじめて頼朝の墓を参拝した時、
頼朝に同母弟がいたということを知りました。

平治元年(1159)に起こった平治の乱で、平清盛に源義朝は敗れて
一族は離散、義朝は東国へ敗走の途上に尾張国(現、愛知県)で
家人に裏切られ 謀殺されました。
父義朝に連座して頼朝は伊豆国蛭ヶ小島(現、静岡県伊豆の国市)に、
頼朝の同母弟希義(まれよし)は、土佐国(現、高知県)に流罪となりました。

源希義(土佐冠者とも)の母は、
熱田大宮司藤原季範(のすえのり)の娘由良御前です。

平治の乱後、希義は乳人に連れられ義朝の本拠地、東国めざし落ちていく途中、
駿河国香貫(現、静岡県沼津市香貫町)で追手に捕らえられ、
土佐国介良(けら)庄(現、高知市介良)に流されて
そこで成人しました。
治承4年(1180)伊豆で、
頼朝が平氏追討の挙兵をすると、希義もこれに応じて立ち上がりました。
土佐国の土豪夜須行宗(行家)との以前からの約諾により、希義は行宗を頼って
夜須荘(現、香南市夜須町)へ向いましたが、平家方の追撃を受け、
年越(としごえ)山(現、高知県南国市)で最期を遂げたという。

頼朝の弟源希義の墓 源希義神社  
『アクセス』
「頼朝の墓」(法華堂跡)神奈川県鎌倉市西御門2丁目5番地
案内板があるので迷うことはありません。「鎌倉駅東口」下車徒歩約20分
『参考資料』
「平安時代史事典」角川書店、平成6年 「図説高知県の歴史」河出書房、1991年
「郷土資料事典(高知県)」ゼンリン、1998年 「源希義の墓の現地説明板」
「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年


コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
源氏の悲劇 (ren)
2018-10-12 13:31:17
後の頼朝の兄弟たちを考えると、同母弟とはいえ北条方の策略などによって早晩滅ぼされた可能性が高いと言えると思います。希義の器量を推し量るだけの時間が欲しかったところです。
 
 
 
Re: 源氏の悲劇 (sakura)
2018-10-13 13:54:03
renさま そうでしょうね。

鎌倉時代は源氏が将軍であった時代は30年ほどで、
全期間の8割は北条氏の時代でしたね。

北条氏は自分の氏族が生き残るため、ライバルを次々に滅ぼしていきます。
梶原景時、比企能員、畠山重忠父子、和田義盛など
有力御家人が北条氏の手にかかり倒されていきました。
三浦一族も幕府軍の攻撃を受け、最後に頼朝の墓所法華堂に立てこもり一族は自害して果てました。

希義も生きていたとしても、いつかは北条氏の毒爪にかかったでしょう。

 
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