平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



慈眼山(じげんざん)玉林寺(臨済宗妙心寺派)は、阿波国麻殖(おえ)
保司(ほじ)となった平康頼が創建したと伝えられています。
寺はもと、鴨島町山路(さんじ)字東寺谷にありましたが、兵火にかかり、
江戸時代、現在地(吉野川市同町山路寺谷)に再興されました。

かつて康頼が目代として尾張に赴任していた時、
知多半島の野間庄(現、愛知県知多郡美浜町野間)に
ある
荒れ果てた源義朝の墓を弔い、小堂(大御堂寺の塔頭か)を建て、
6人の僧に義朝と鎌田正清・その妻の霊を供養させました。
その上、
水田30町を寄進して、堂を維持管理するよう計らったことがありました。

その恩に報いるため、源頼朝は平氏滅亡後の文治2年(1186)閏7月、康頼を
阿波国麻殖(おえ)保の保司(ほじ)に任命したと『吾妻鏡』は伝えています。
康頼が鬼界ヶ島から帰京して七年目、41歳の時のことです。

麻殖保とは、吉野川市鴨島町字森山付近の荘園の名です。
吉野川市は徳島県東部に位置する吉野川沿いの地で、
対岸北側には西光の故郷柿原があります。

天下を平定した源頼朝は父義朝の廟所に詣でています。
それを『吾妻鏡』建久元年(1190)10月25日条は、
次のように記しています。
「頼朝は康頼が義朝の墓を整備したのは昔のことであるから、
墳墓は荒れ果て供養は途絶えているだろうと、
日頃気にかけていました。
上洛の途次、尾張国の御家人・須細治部大夫爲基の案内で野間庄に立ち寄り、
義朝の廟所に詣でると、廟堂が荘厳で立派に飾られている光景が目に映り、
僧侶の読経の声に満ちていました。墓がしっかり守られている様子に感激し、
康頼の篤い志に改めて感謝しました。」
 

最寄りのJR徳島線鴨島(かもじまえき)駅

石灯籠の傍にある熊野神社南へ150米、→玉林寺と記された道標。


⇐玉林寺入口と記された道標






麻殖保司(荘園の長官)に着任した康頼は、職務のかたわらで、
まず、保司庁を建て、次いで後白河法皇から賜った一寸八分(約6㎝)の
千手観音を本尊とする玉林寺と補陀落寺(ふだらくじ)の二寺を建立しました。

天正年間(1573~92)、この二寺は土佐の長曾我部の戦火で焼失し、
両寺を合併して一寺として堂宇を建立し曹洞宗としましたが、
再び荒廃し江戸時代に僧宗本が玉林寺として再興し臨済宗に改めました。

玉林寺門前に大きく枝を広げ葉を茂らせるモッコク





「昭和七年三月 史跡平康頼隠棲之趾」の標柱


大悲殿



本堂

康頼が鬼界ヶ島から帰京できたのは、熊野権現に毎日赦免を祈願した
お陰だとしてこの地に熊野神社を勧請したとされています。

 うっそうと木々が茂る山道を上っていきます。

「熊野神社 山路西寺谷 山路寺谷にあり旧村社である。
祭神は伊弉諾(いざなぎ)神、伊弉冉(いざなみ)神、
熊野権現である。
平康頼が文治年間(1185~1190)に紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。
康頼が京都の鹿ヶ谷における平家追討計画が発覚し、鬼界ヶ島へ流されたとき、
熊野権現に祈って許されたためと伝えられている。
また、境内南西隅に経塚跡があり、神木「ナギ」がある。」(現地説明板)

玉垣に寄進者の名と寄進額が刻まれています。

拝殿

本殿



玉林寺、熊野神社のある寺谷集落。

建久2年(1191)3月、正治2年(1200)に石清水八幡宮若宮社において
催された奉納歌合に
康頼は「沙弥性照(康頼入道)」として和歌を作り、
また建久6年(1195)1月の「民部卿家歌合」にも参加していることから、
康頼は60歳を過ぎると保司職を嫡男清基に譲り、
引退後は阿波と京都を往来して過ごしたものと思われます。
玉林寺から北西に700メートルほど進むと、山麓に壇(だん)とよばれる地があります。
康頼は75歳で亡くなると、遺骨はその北麓に埋葬されました。
現在、墓所には後に建てられた康頼神社があります。
遺骨は分骨され、京都市の双林寺にも葬ったとされています。
 平康頼の墓(双林寺)  
『アクセス』
「玉林寺」 徳島県吉野川市鴨島町山路寺谷
麻植塚駅 から徒歩約30分  鴨島駅 から徒歩約35分
「熊野神社」徳島県吉野川市鴨島町山路字西寺谷150
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡(5)」吉川弘文館、2009年
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会、平成2年
「郷土資料事典 徳島県」(株)ゼンリン、1998年
  「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年

「徳島県の地名」平凡社、2000年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
人は変われるものなのですね。 (yukariko)
2018-08-25 16:45:50
保司として役人の職務も果たし、玉林寺と補陀落寺を建立して後援をし、歌人としての付き合いもしながら20年ほどを送り、後を息子に譲って隠棲したというのを読んで、宮廷で院の近臣として暮らした時代と、罪に落ちて流罪、許されて出家し、僧として隠棲した前半生と後半生が見事なほど違うのは、人間とはかくも変われるのだなあと思わされるお話ですね。
でも尾張の目代の頃、頼朝の墓とお堂を立て、寄進して後世を弔ったのは若い時でしょうから、元々気配りもあったのでしょうね。
 
 
 
ドラマチックな人生でしたね  (sakura)
2018-08-26 17:13:37
後白河院は「梁塵秘抄口伝集」の中で、康頼の今様を絶賛していますから、
その才が院近臣として下級官人に過ぎなかった康頼の身を立てたようです。

尾張に赴任し義朝の墓を整備したのは、康頼の若いころのことでしたが、
六人の僧をおいて丁寧に義朝の霊を供養させています。
源氏が滅び平家全盛の時代、このような気配りは中々できることではありませんね。
康頼にとって寺領寄進は経済的に大きな負担だったと思われることから、
「康頼はもともとそうした寄付を行う要素をもっていた」と
山田昭全氏は「平家物語の人びと」の中で述べておられます。

また才能豊かな人だったようで、「千載集」に4首、「玉葉和歌集」
「新続古今和歌集」に各1首が入集するような風流人である一方、
「愚管抄」には猿楽狂い「平家物語」には物真似の名手としての康頼が描かれています。

康頼が流された鬼界ヶ島は、滅多に船も通わない島で、
土着する僅かな住民は着物もまとわず、話しかけても言葉も通じません。
島の中心には、硫黄岳(704㍍)があり硫黄を噴出し、
都の生活に慣れた者にとって異次元の絶海の孤島だったと思われます。
 
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