平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、
土佐国介良(現、高知県高知市介良)に流され、
介良(けら)冠者(土佐冠者とも)と呼ばれれた
源希義の周辺も急に慌ただしくなりました。

『吾妻鏡』寿永元年(1182)9月25日条によると、
平家は希義が頼朝に呼応するのではないかと疑い、
平重盛の家人、土佐の住人・蓮池(はすいけ)家綱と
平田俊遠(としとお)に希義を討つように命じました。
 蓮池と平田の動向を察知した希義は、以前からの約束により、
夜須荘(現、香南市夜須町)の夜須行家(のち行宗)を頼り、
介良を出ましたが、行宗と合流する前に力およばず
年越(としごえ)山(現、JR後免駅北側の山麓)の辺りで、
討ち取られてしまいました。

希義は現在の鳶(えん)ヶ池中学校の校門辺で息絶えたと伝えられ、
校内には「源希義戦死伝承之地」の石碑が建っています。
また、校門の西側には希義が愛馬の鞍を置いたという
鞍掛けの岩も残されています。

南国市立鳶ヶ池中学校校門

校門の西側



希義の鞍掛けの岩

平治の乱(一一五九年)で源家棟梁源義朝は武運つたなく
平家棟梁平清盛の前に屈し頼朝(当時十三才)は伊豆蛭ヶ小島へ、
義経(当時一才)は鞍馬へ押し込められます。
当時三才の源希義は高知市介良の地へ配流され
平家方監視の下、二十数年間の隠忍自重の暮らしを強いられます。

寿永元年(一一八二年)九月二十五日希義ニ十五才の頃
兄頼朝の旗上げに呼応するも初戦に破れ
土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家を、
ひいては鎌倉の兄頼朝を目指し東走するも途中馬をのりつぶし
遂にこの地で平家方追捕の手にかかる。
この岩は希義が愛馬の鞍をおいたとの伝承がある。

希義はこの「鞍掛けの岩」の東側鳶ヶ池中学校正門附近で首討たれますが、
平家威光を恐れ遺体は放置されていましたが僧琳猷は遺髪をとり
遺体を荼毘に付し手厚く葬ります。源希義公を顕彰する会(説明板)

鳶ヶ池中学校校内に建つ「源希義戦死伝承之地」の石碑
下の画像左手は石碑の背面です。

古活字本『平治物語』(頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事)によると、
「配所において21年を過ごした頼朝が文覚の勧めによって治承4年に
兵を挙げたの知らせに、平家は蓮池次郎権守家光に希義を討てと命じました。
平家方によって包囲された希義は、父義朝のために日課にしている
法華経を読むため持仏堂に入り、お経2巻を読み終えてから自害したという。」
仏ヶ崎から海上を逃れ鎌倉へ馳せ参じた夜須行宗  
頼朝の同母弟源希義(源頼朝の墓)  
『アクセス』
「希義の鞍掛けの岩」鳶ヶ池中学校(高知県南国市東崎530)校門の西側
土佐くろしお鉄道「後免駅」下車徒歩約15分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
県史39「高知県の歴史」山川出版社、昭和52年

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )


« 頼朝の弟源希... 源希義の庇護... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。