平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
平康頼の分骨を埋葬してある双林寺(天台宗)は、
桓武天皇が最澄を開基として創建したと伝え、
八坂神社の東方、円山公園のすぐ南にあります。

昔、双林寺のある辺りは、真葛やすすき・茅などが生い茂る
真葛ヶ原とよばれる和歌の名所で、文人や歌人が隠棲していました。

今は本堂と飛地境内に西行庵(西行堂)を残すのみで見る影もありませんが、

鎌倉時代までは広い境内と多くの子院塔頭を擁する大寺でした。
南北朝の兵乱や応仁の乱で寺は荒廃し、江戸時代には東大谷廟が
境内東方に造営され寺域を削られました。
さらに明治時代の円山公園の設置により寺地の多くを
買い上げられ、その大部分が円山公園になってしまいました。

本堂傍には、この寺の境内に庵を結んだ平康頼の墓や西行、
西行を慕った南北朝時代の歌人頓阿(とんあ)の供養塔が建っています。
康頼の山荘は、現在の双林寺の東、
東大谷廟辺にあったと推定されています。

双林寺(雙林寺)
山号は霊鷲山(りょうじゅざん)正式寺号は沙羅双樹林寺(さらそうじゅりんじ)
この地が中国の沙羅双樹林寺に似ていることから名づけられたと伝えています。

双林寺本堂 本尊木造薬師如来坐像(国重文)

鹿ケ谷の謀議発覚後、事件に加担した俊寛僧都と平判官康頼それに
父成親に連座した丹波少将成経は、
鬼界ヶ島に流されました。
三人のうち康頼と成経は熊野権現の
熱心な信者だったので、
島に着くと熊野三所権現を勧請して、自分たちの帰京を
祈願しましたが、
生来不信心の俊寛はこれに加わることはありませんでした。


この島で康頼は故郷恋しさに千本の卒塔婆に和歌を書いて海に流しました。
恩赦のきっかけは、その卒塔婆の1本が厳島神社に流れ着き、
康頼と知り合いの
僧に拾われたことによるといわれています。
そして中宮徳子の懐妊を機に
流人たちに赦免が下りましたが、
使者が読み上げる赦免状の中に、なぜか俊寛の名前だけありません。
それは自分が目をかけた俊寛が自分を裏切り、
密議の場所まで
提供したことを清盛はどうしても許せなかったからであるとし、
また二人の恩赦を
熱心な熊野信仰によると『平家物語』は語っています。

帰京を許された成経と康頼は途中、成経の父成親が
清盛によって惨殺された備前・備中境(岡山県)の
有木の別所を訪ねて
墓をつくり、七日七夜供養を行い都に戻りました。

康頼は双林寺にあった自分の山荘に落ち着き、
つらかった流罪中のことを思い出し、

♪ふる里の軒の板間に苔むして思ひしより程は洩らぬ月かな
(懐かしい山荘の板間は、留守中にすき間だらけになってしまったが、
軒には苔が生えてふさがっているため、
屋根をもる月の光は思っていたほどではなかった。)と
荒れ果てた山荘を眺めつつ述懐しました。
和歌と説話をおりまぜて仏の教えを説く仏教説話集
『宝物集』の編集執筆にとりくんで時を過ごしたという。


『ふるさと森山』には、「
双林寺には当時、康頼の伯母が
尼となって身を寄せていた。」と書かれています。

やがて思いがけない幸運がおとずれました。かつて尾張に目代として
赴任した時、
尾張野間庄(愛知県知多郡美浜町)にある
源義朝の墓を整備し、水田30町を
寄進したことに感謝した源頼朝によって
阿波国麻殖保(おえほ)の保司(ほじ)に任じられました。

(『吾妻鏡』文治二年(1186)閏七月二十二日条)

麻殖保(現、吉野川市鴨島町字森山付近の荘園)に赴任すると、
職務の傍ら亡き母や後白河法皇、藤原成親、俊寛など鹿ケ谷事件
関係者の
冥福を祈るため、
後白河法皇から賜った
千手観音を本尊とする
玉林寺(現・吉野川市鴨島町山路)や熊野神社などを建立しています。

20年ほど保司を務めて後、康頼はこの職を嫡男清基に譲り、
75歳で没し、遺骨は分骨されて当寺に葬ったとされています。

京都の康頼の歌人としての活動は建久二年(1911)、
正治二年(1200)
石清水八幡宮若宮社において催された「若宮社歌合」
そして建久六年(1195)「民部卿家歌合」などに出詠が知られています。

康頼は平姓を名乗っていますが、『倭歌作者部類』によれば、
父は信濃権守中原頼季(よりすえ)ですから、
康頼は改姓したものと思われます。
平姓をもらったという説もありますが、

家系に関する資料が少ないためその時期や理由は定かではなく、
また平家一門との関係も不詳。
 
双林寺本堂から道路をひとつ隔てた飛地境内の西行庵(西行堂)へ



西行堂はもと洛西双ヶ岡の麓にあった頓阿法師の
蔡華園(さいかおん)を移して再興したものと伝えています。
卒塔婆流し(卒塔婆石・康頼灯篭)   平康頼の塔 (大徳寺)
平康頼出家の地(光市普賢寺)   
大御堂寺境内にある康頼の墓 平康頼の墓(野間大坊大御堂寺 )  
平康頼の赦免状(光慶寺)  平康頼建立の玉林寺・熊野神社  
『アクセス』
「双林寺」京都市東山区鷲尾町 円山公園南 
八坂神社南楼門より徒歩5、6分

『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東・上)駿々堂
 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成
「平家物語」(上)新潮社 
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館 
村井康彦
「平家物語の世界」徳間書店 
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土史研究会 
「国史大辞典」吉川弘文館 「徳島県の地名」平凡社
「ふるさと阿波」(134)阿波郷土史会 

 

 

 

 







コメント ( 127 ) | Trackback (  )


« 卒塔婆流し(... 平康頼の塔(... »
 
コメント
 
 
 
康頼の後半生を読んでほっとしました。 (yukariko)
2007-12-07 19:44:06
流罪を許され成親の菩提を弔って都に帰り山荘に落ち着いた康頼は生きて戻れた事を喜びながらも出家した身とはいえ、行く末を案じたことでしょう。
でも前の記事で苗字は中原とあり、何故平姓なのか分からないとありましたね。
元々の平氏一族ではなく、逆に平氏に弓引いて罪を得たぐらいだから源氏の世になっても
失うものはなかったでしょう。

「阿波国…保司に任ぜられたり歌人としても活動し勅撰集に6首入集。」と
官吏としては充分かは分からなくても、後世に残る勅撰和歌集に載る歌人として認められたのだから、苦労が無駄にはならなかったのでしょうね。
厳島神社に灯篭を寄進したぐらいだから羽振りもそこそこ良かったのでしょう。

読んでいて『良かったね!』と思ってしまいました。
きっと、卒塔婆を作って神仏に祈りつつ流したのが良かったのでしょうか。
 
 
 
コメントありがとうございました。 (sakura)
2007-12-08 14:51:18
藤原成経には舅教盛がいて
鬼界ヶ島から帰京する時には
「私の使者」までつけてくれましたが、

康頼が頼みとする後白河法皇は、
この後清盛によって
鳥羽殿に流され(幽閉)てしまいますから、
しばらくは心細かったでしょう。

その後以仁王の謀叛、頼朝も伊豆で挙兵し
平家一門も滅亡してしまいます。

もともと器用で才知が働くとても信心深い
人物だったようですし、和歌の才能を生かして
何度も歌合せにも参加しています。
立派に生きていったのだと思います。
(1200年までは生存が確認されています。)

「平家物語」や鴨長明の「発心集」に影響を
与えたといわれている晩年作の
「宝物集」の簡単なあらすじがあります。
設定が面白いので次回の記事にします、
また見てくださいね。

コメントに書いていただいた平姓については
康頼は途中まで「中原姓」を
名のっていたようですが、
「康頼がなぜ平姓を名のったかは未詳」
日本古典文学大辞典第4巻(岩波書店)より

厳島神社の「康頼燈篭」は古くて風化が
激しいのですがもとは八角の火袋に六地蔵を刻み
(火袋の六地蔵は神仏分離の時叩き壊された)
棹石に昇龍、隆龍を刻んであったもので
大きい立派な燈籠です。

これを寄進できる経済力が康頼にはあったようです。
 
 
 
続きです。 (sakura)
2007-12-08 14:58:51
また間違ってエンターを押してしまいました。

「神仏に祈りつつ流したのが
良かったのでしょうか。」
良かったのだと思います。

康頼の信心深さが「宝物集」を
書かせたのだと思います
「宝物集」は元禄時代まで版を重ねて
よく読まれた本だそうです。
 
 
 
康頼の「平」姓 (taira)
2009-06-06 06:41:57
平康頼は私の先祖にあたります。康頼の子孫は代々僧として仏道に生き、現在は26代目になります(福井
浄土真宗常照寺が本家)。
康頼の父は信濃権守中原頼季。中原家は代々明法道(法律)の家柄。康頼は十代から平家の有力者、平保盛(やすもり、清盛の甥)の家人となり、十八歳頃、主人から平の姓を名乗る事をゆるされたらしいですよ。
 
 
 
父子異姓 (sakura)
2009-06-07 09:40:58
平康頼について
前略
仁安三年(1168)正月の除目で左兵衛尉になった際、
『兵範記』は中原姓、『山槐記』除目部類は平姓で記す。
父子異姓の理由は定かではない。
(日下力・鈴木彰・出口久徳著・平家物語を知る事典・東京堂出版・2006)
と記されています。

ご子孫には理由が伝えられていたようですね。
情報ありがとうございました。

先月下旬、大御堂寺境内にある平康頼の供養塔にお参りしてきました。
 
 
 
続 康頼の「平」姓 (taira)
2009-06-07 23:43:11
>ご子孫には理由が伝えられていたようですね。


いえいえ、そうではないのですよ。この情報はつい最近インターネット上で知ったまた聞きです。中原家に生まれた彼が何故平姓を名乗ったのか、私にとっても長い間の謎でした。でも、多分この情報は正しいのではないかと思いますよ。保盛と中原家は格別に密接な関係があったようです。1163年、保盛が越前の国司に任ぜられた時、まだ十代の康頼がかの地に赴任しています。また、その3年後、同じく尾張の国司に転任した際、康頼を目代として派遣。この時期に主人の保盛が平の姓を名乗ることを許したようです。康頼は赴任中、この地で義朝(頼朝の父)の荒れた墓を修理し、水田30町歩を寄進、そして盛大な弔いを執り行ったのですね。このことが後白河上皇の知るところとなって近習にとりたてられ、思いもかけず、出世の糸口になります。また、時を経て1186年、将軍頼朝からは父の墓の修理、供養をした礼として阿波国麻植保保司に任ぜられます。康頼はこの地で75歳で亡くなり、現在の麻植郡鴨島町森藤に葬られ、ゆかりの深い双林寺に分骨されたと言い伝えられます。ご存知のようにこの寺の境内にあつた自分の山荘で康頼は宝物集を著します。ここには彼の伯母が尼として暮らしていたとも言われます。
 
 
 
康頼の母宛の遺言状 (taira)
2009-06-10 01:57:23
 康頼の子孫の動向を探索していく過程で、開祖が康頼の曾孫と伝える福井の古いお寺に、われ等の主人公が「鹿ヶ谷事件」で捕まって鬼界ヶ島配流の沙汰を受け、もはや此れまでと、老いた母へしたためた遺言状なるものが存在している事を知りました。お寺のご好意でそのコピーが手に入りましたのでお読み下さい。

(1)六波羅入道
     荒荒敷 (あらあらしく)
       いかり


   法皇を
    鳥羽殿へ
    をし籠愁
      申事

   返返口悔  (かえすがえしくやしき)
    次第候

   今夜数の (?)
     人々は
     皆国々へ
     遠流のよし
       聞え候

        (2)俊寛
            成経
            愚僧
            三人

           薩摩潟
             やらへ
             まかり候
                よし

           池殿 (平保盛のことか)
            より
           つたえられ候

           二度(ふたたび)帰山(京のこ
           とか、双林寺のことか)
            候事
           おもひとと
            まいらせ
            給候へ

          あらなつ
            かしの
            老母や
            これを形見に

 (3)つかはし
     給候へ
     したため
      まいらせ候

  あなかしこ
          平判官
            康頼

  ■■院入道   ■印、不明

 オリジナルは縦書き、2,1,3の順で書かれています。

 ご感想をお聞かせ下さい。


  (3)
 
 
 
遺言状 (sakura)
2009-06-10 09:34:53
大切な資料を私にまでお見せ下さってありがとうございます。

「吾妻鏡」文治2年7月22日の条で水田を寄進したことや平氏家人だったこと
「吾妻鏡」建久元年10月25日の条で上洛の途中、
頼朝が大御堂寺の義朝の墓に詣でたことなどは分かりますが、

没年について手元にある資料
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東・上)駿々堂・昭和55年発行によると平康頼について
『双林寺のほとりの山荘で没したが没年は明らかにしない』となっています。

平家物語を題材にした歌舞伎や能の「俊寛」で名脇役の平康頼は
喜界ヶ島から帰ってからの行いを含めて好意の持てる人物です。

素人がブログの記事を書いているので、手に入る資料は限られていますが、
もう一度調べ直し、コメントに書いて頂いた記事で
裏の取れるものは、
書き加えさせて頂いて記事を充実させたいと思います。
 
 
 
図書館 (sakura)
2009-06-10 15:12:12
新日本古典文学大系「宝物集・閑居友・比良山古人霊託」岩波書店(1993)
に山田昭全「宝物集・解説」に平康頼の略年譜が載せられています。

保元二年(1157・推定12歳)9月、法住寺今様会に出席か。に始まり
正治二年(1200・推定55歳)『石清水社歌合』に沙弥性照出席まで。

これ以降の資料は今のところ発見されていない。
「中原」、「平」姓についても分からない。とあります。

お家の近くに図書館はございませんか?
後白河院の康頼寵愛は、そのすぐれた学才と音楽の才に由来するものとか。
鹿ケ谷事件以前、後白河院近習として活躍していたころ、後白河院の意向を受けて、
康頼が墓の修繕をした可能性は十分考えられる。
頼朝が義朝の墓に詣でたとき仏閣が建ち、僧が読経をしていて
改めて康頼の功績の大きさに感銘した等々面白い本です。
この本は借りることができないので、一部コピーさせてもらいました。

平頼盛の息子保盛について調べました。
確かに越前守・尾張守を歴任していますが、
康頼への「平」賜姓については分かりませんでした。

また大御堂の記事を書くとき、平康頼についても書きたいと思います。
 
 
 
sakura様 (taira)
2009-06-10 21:26:35
 図書館はありますが、康頼に関しての書冊をさがすのは無理です。と言いますのは私の住む此処は遥かスペインの地ですから。
 
 山田教授とは面識があり、爾来ご懇意にさせて頂いておりまして、岩波のご本や、学報に発表された「宝物集」に関する論文、康頼伝記の考察論文などご本人から頂戴致しました。先の康頼の遺書の難解な文字を解読されたのも教授です。

 先生は「宝物集」の権威ある研究者ですから確かと認められた史料のみご考察の資料とされています。
 しかし、私は国文学者でも史学者でもありませんから束縛のない自由な立場でその地に伝わる話しや縁起、また郷土の歴史研究の方々のご意見も大いに参考にさせて頂いています。要は話に辻褄があうか否かという面を大事にしています。
 一級資料が不詳としている康頼の生没年、中原から平姓の名乗り、子孫が越前国に現れた理由、これらの謎が、かつて一族が住んだ現徳島県麻植郡鴨島町の郷土資料に記されていたわけです。詳しくはWikipedia
平康頼の項をお読み下さい。私にとっては非常に現実性があります。
 
 
 
平康頼の家人 (木村)
2009-08-07 03:49:52
平康頼が阿波国麻植保の保司として京から森藤の地に下向して来たときに三人の家人を伴った。そのうち二人は平を名乗り、一人は鶴田を名乗った。詳細は木村姓の中で述べたのですが消去され履歴やノートの中に残っております。当家も平を名乗っていたと言われ、康頼に伴われて当地に来たものだと言い伝えられており、当家には神棚が一つ多くあり代々性照公大明神(康頼)を祀っております。何処から来た平なのかを探しています。平保盛は安頼を目代として尾張に遣わせたが、源平の戦いはその立場を逆にしたのではないでしょうか。平保盛は平家の都落ちには同行せずに出家したとされていますが、その子孫は如何なったのでしょうか。何の根拠もないのですが、康頼が伴った家人の平は平保盛の子孫ではなかったのでしょうか。源義朝の墓の修理も保盛の同意があって康頼はできたものであり、頼朝も反対はしないと思いますが、何か手がかりがあれば教えて下さい。
 
 
 
木村さま (sakura)
2009-08-07 13:09:26
①康頼がなぜ平姓に改姓したかについては分からない。
②平保盛については「福井県史」に年表に、1163年に
平保盛が越前守に任ぜられたという記述があるのみ。
お役に立てなくてすみません。

平康頼が平姓を名乗った理由、康頼の晩年、平保盛について
徳島新聞・徳島県立図書館・福井県立図書館にお尋ねしたところ
それぞれからお返事をいただき、晩年・没年については分かりましたが、
平姓に改姓理由についての資料は見つからなかったようです。

この点については、大阪府立図書館、大阪市立図書館でも
調査しましたが同様でした。

徳島県立図書館から送って頂いた資料
ふるさと阿波(阿波郷土会発行)№177、178、180に
若松和三郎さまが「平康頼考」(上)(下)(補稿)を発表されています。
郷土史を研究されている方のようですから、一度連絡を
お取りになったらいかがでしょうか。
徳島市山城西4-15
  若松和三郎様
 
 
 
木村さま (sakura)
2009-08-07 18:30:03
玉林寺(平康頼が俊寛の霊を慰めるために
建てたという)のご住職小川清山さまも
何かご存知かも知れません。

吉野川市鴨島町山路
 玉林寺 ℡0883-24-5805 
 
 
 
平康頼の家人 (木邑(木村))
2009-08-20 20:17:44
sakura さま
情報ありがとうございました
早速問い合わせてみます

父子異姓については私の知る限り 平康頼Wikipediaに書かれております。
康頼の家人については削除され履歴やノートの中に残っております。
 あいにくと、康頼の建てた建物は戦国時代に長宗我部の兵火で総て焼失し、玉林寺も後に再建されたもので、資料などはほとんど残っておりません。
源平の戦いの後で、二人もの平を家人として伴っているので、何処かに手がかりがあれば教えて下さい。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2009-08-21 15:42:12
平康頼Wikipediaをお書きになった方と連絡する方法はないのでしょうか。

「徳島県は、当時識字率が低かったことや、長曾我部勢の兵火で、
関連文書が少ない地域である。」と徳島新聞からもお聞きしました。
平姓改姓についての文書が残ってないのでしたら、
伝承に頼るしか仕方ありませんね。

以前、紹介させて頂いた若松様が
「平康頼考」(上)の中で康頼の家系について

1・父中原頼季(信濃権守)
2・兄平康清(信濃介)「大日本史」国郡司表五に安元二年(1175)正月任命の
「信濃介平康清」があり、公家九条兼実の日記「玉葉」にもその事実の記載がある。
康清は、頼季の「信濃権守」を継いだものでないかと窺われるところから、
「伝考」は康頼の兄でないかとしているが、その関係を証する史料は聞知しない。と書かれています。


 
 
 
池殿 (木邑)
2009-08-28 01:26:10
>taira さま
鹿ケ谷事件で母に宛てた遺言状に、油殿とあるとのことですが、池殿だと思いますよ。
平頼盛
通称池殿 池大納言 平清盛の異母弟 平保盛の父

なを、平康頼は国司平保盛の目代として尾張に赴任。
 
 
 
木村さま (taira)
2009-08-29 06:51:25
当初、私も「池殿」、即ち頼盛ではないかと思いましたが、1175年(安元元年)、東寺僧正の壇所からの出火が原因で康頼の郎党と頼盛の郎党との間に刃傷行為があり、この事件の故に、康頼と頼盛との関係が好ましいものと判断するのには無理があるように思えました。それが、最近康頼が平保盛の家人であったらしいという情報に接し、この池殿が頼盛ではなく、長子の保盛を指しているのではないかと思うに至りました。保盛は嫡男ですから、祖母や父親同様に居住地を指すところの池殿とも呼ばれていたはずです。
 
 
 
tairaさま (木邑)
2009-08-29 21:46:33
平頼盛は池禅尼を母に持ち、京都六波羅の池殿に住んでいたため、おのおの池大納言、池禅尼と称された。頼盛の子息の平光盛は池三位と称されていたそうです。平保盛については資料が見当たりませんが、頼盛も子息も皆が池殿では誰を指すのか判りません。
ただ、池殿と書かれていれば、平頼盛を指すのではないでしょうか?
 安元元年の火災でも康頼の検非違使としての職務中に起きたことで、御所への延焼防止のため周辺の民家を取り壊しを担当したが、反対する者への威嚇のために抜刀したが、平頼盛の兵が感違いして逮捕したことから起こり、混乱の中で大乱闘になったようですが、どちらも職務熱心のあまりに起こったもので、もとより、私怨はなかった。
保盛も仲裁をしたでしょうし、郎党の起こした事件で、康頼と頼盛との関係が好ましくなくなったとまでは思えませんが。
禁裏子供の
 
 
 
tairaさま (木邑)
2009-08-29 23:09:57
 続き
平清盛の意中を聞ける立場に居たのは、平頼盛ではないでしょうか?清盛が頼盛を差し置いて、保盛に意中を話すことはないのではないかと思われます。
頼盛はなんとかして清盛の怒りを鎮めようとしたが、清盛の怒りは鎮まらなかったのだと思います。

申し遅れましたが、当家も昔、平を名乗っていたと伝わり、性照公大明神(平康頼)を祀っております。
平康頼Wikipediaの麻植保司以降の出典「ふるさと森山」では、平康頼の家人とされ、京より麻植保に三人の三人の家人を伴い、内の二人は平を名乗り、一人は鶴田を名乗ったとされ、後に、家人の平の一人が木村(木邑)の祖となり、他の平の一人は田村(田室)の祖となるとされています。鶴田氏は康頼神社を祀り代々祭司を務め、祭礼には鶴田一族の子供達だけが神輿を担ぐ習わしがあり、鶴田本家では、主が冠、ちわやで正装し、しゃくを持って神輿渡御の先導を勤め、戦前まで続いていたとされる。

 
 
 
木村さま (taira)
2009-08-31 06:31:23
Wikipediaによりますと、保盛は別名「池殿」と呼ばれていたとあります。私見の域を出ませんが、ここは康頼が主人の保盛から鬼界ヶ島へ配流らしいと伝えられたとするのが妥当だと思います。ともあれ、康頼Wikipediaの出典「ふるさと森山」の保盛と康頼の主従関係はまさに私にとって青天の霹靂でした。彼が母に宛てた遺言状の不明箇所「X殿」はサンズイに「由」と読めるのですが、実際は「也」と記されているとするのがただしいのでしょう。「由」も「也」も書きかたによってはかなり似た文字です。
 
 
 
木村さま (taira)
2009-08-31 07:03:14
続。「池殿」と読める可能性はあると思いながらも、頼盛と康頼が結びつく確証がなく、明言することは避けていましたが、池殿が保盛だとすれば説得力は大となります。又、この書状は母への形見として手渡して欲しいと「XX院」宛てとなっていますが、この人物が誰なのか。当時双林寺に住んでいたという尼の伯母に宛てたものなのか、興味が尽きません。
私の本家は、「ふるさと森山」によれば、康頼の嫡男清基の弟康利が一族を率いてかつて父康頼が保盛の目代として派遣されていた越前にすみ移ったことから始まっています。
 
 
 
城福寺(平家一門の菩提寺) (木邑)
2009-09-02 14:52:33
私も康頼の家人の平につき、何処から来た平なのかを知りたいと思い調べていますが、その過程で解かったことですが、源平の戦いで平家一門がことごとく西海に没したときに、池大納言頼盛一族だけが残ったのは、平治の乱に際し、池の禅尼が平家に捕らえられた源頼朝の命乞いをしたためで、頼朝はその後この恩に報いるために頼盛一族を厚遇したために他なりません。
頼朝の計らいで頼盛は官職に復し、文治元年剃髪して法名を重蓮と称し、保盛も出家して城福寺を建立したそうです。
「ふるさと森山」では明らかにしておりませんが、康利が頼った越前国足羽郡の縁者とは城福寺のことではなかったでしょうか?この分野は tairaさまの方がお詳しいとは思いますが?

城福寺 浄土真宗寺院
    越前市五分市町11-26
 
 
 
木邑さま (taira)
2009-09-03 05:52:56
保盛が城福寺の開基であったとは、まさに寝耳に水のでした。幾つかの点が線となって結ばれ始めてきた様に感じます。貴重な情報を寄せて頂き有難う御座いました。
康頼の子孫が何故越前の地に現れたのか、大きな謎でした。幾つかの資料には康頼がかつて北国七ヶ国の探題としてこの地に赴任していた、或いは流刑から帰洛後に大島(現福井市大島地区)を賜った、あるいは康頼の一子康利が検非違使としてこの地に勤めていた、等と記されていますが真偽のほどは分からずじまいでした。
 
 
 
木邑さま (taira)
2009-09-03 06:20:20
続。驚く事に城福寺はわが本家の常照寺(福井市)と同じ浄土真宗の出雲路派(いずもじは)に属しているのです。越前国は念仏王国と呼ばれ、真宗十派のうち四派がこの地に集まっています。この派は末寺が一万を超えるだろう東西本願寺とは異なり、その数は少なく全国で60寺程です。ですから、当然、城福寺の池ご住職は私の本家の従兄をよくご存知でしょうし、私の父や兄も同派の僧職にありましたから本山の講やら宗門の会議で接していたことでしょう。保盛と康頼の時代から八百年、ふたりの子孫はまだ歴史を仲良く歩み続けて行くようです。
 
 
 
遺言書の宛先 (木邑)
2009-09-04 21:41:16
康頼が母に宛てた遺言書の宛先ですが、○○院とは寺の名称ではないでしょうか?法然院と言う法然上人の寺がありますが、鹿ケ谷の近くであり、法然上人とも親交があったのではないでしょうか?また、近くには知恩院もあります。また青蓮院は三千院、妙法院とともに天台宗の三門跡寺とされ、皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院であり、康頼が後白河上皇の近習として親交があったのではないでしょうか?なんで不明であるのか、虫食いであればしかたがないですが、達筆すぎて読めないのであれば、上記のどれかに読めないでしょうか?
 
 
 
平康頼の家人 (木邑)
2009-09-09 03:11:11
>sakuraさま
平康頼は阿波国麻植保の保司として三人の家人を伴い、内の二人は平を名乗り、一人は鶴田を名乗った。
源平の戦いで生き残ったのは平頼盛の一族だけである。
家人の平としては源頼朝の異存のない者であること。これらのことから家人の平として考えられるのは、頼盛の子の保盛又は兄弟、又はその子供達ではないかと思われます。
平康頼は身内を家族としては伴ったと思われますが、身内を家人とする事はないと思われます。
かっては、康頼は国司保盛の家人でしたが、源平の戦いで立場が反転し、頼盛の身内が家人として伴われて来たのではないでしょうか。
頼盛は一門の都落ちに同行しながら一門を見捨てた脱落者としての印象が強く、事実が伏せられて来たのか、記録もあまり見当たらず、当家にも家人の平の誰であったとまでは伝わっておりません。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2009-09-09 16:17:25
木邑様のお家には、ご先祖が平康頼に伴われて、
京から森藤に来たという伝承がおありになり
神棚には、性照公大明神をお祀りになっていらっしゃるとか、
代々高い誇りを懐いて生きていらっしゃるのだと思います。
もとの「平」姓についてあれこれ思いを馳せていらっしゃるようですが、
ご先祖が、康頼と共に森藤に来られて以来、
今日までその地でお暮らしになり、康頼を神棚にお祀りになってらっしゃることだけでも
素晴しいことのように思えます。
お返事にはなりませんが…
 
 
 
平康頼の家人 (木邑)
2009-09-11 22:47:05
旧、森山村山路寺谷には康頼の勧請した熊野権現と慈眼山玉林寺があり、熊野権現の脇に祖神として木村大明神が祀られ、200m程離れた処に田村大明神が祀られていて、寺谷はこの二家がほとんどを占めます。
これは康頼が伴った家人の二人の平らに屋敷を構えさせ、寺谷の土地を与えたことに依るものです。西に隣接する森藤には保司庁がおかれ、康頼神社があります。また、もう一人の家人の鶴田氏には知行地が与えられた。南の前山は四国山脈で鬼界山補陀洛寺及び子院十二坊が建てられていたが、戦国時代に長宗我部の兵火ですべて消失しました。玉林寺だけは後に再建されました。京から森藤に下向した康頼の晩年は不明とされていた様に、二人の家人の平も京では不明とされているのかもしれません。何か情報があれば教えて下さい。
 
 
 
平康頼の家人 (木邑)
2009-09-19 00:44:51
徳島県の中央を西から東に流れる一級河川、四国三郎吉野川はあばれ川と呼ばれ、堤防の無かった時代には毎年洪水で流れが変わり、ポンプの無かった時代には水を利用する術が無く、米が作れるのは谷川の水を利用した水田に限られていた。康頼の家人の二人の平に与えられた土地はこの米の作れる、当時としては一等地を与えられたのでしょう。熊野権現の脇を流れる権現谷の小さな滝の水を樋で受けて、谷に沿い何百メートルものいでが掘られ水田に導かれ、水田にはしめ縄が張り巡らされ、熊野権現への献上米が作られていたが、戦中の供出制度で中止された。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2009-09-20 18:14:44
Wikipedia「平康頼」「木村氏」は、木邑さまがお書きになったのですね。

平康頼、西光に関する資料「麻植郡郷土誌」「阿波誌」「徳島県史」のコピーを
徳島県立図書館より送って頂きましたが、
その資料にも保盛と平康頼の関係については何も書かれていませんし、
保盛について京都市の資料館、中央図書館で調べましたが、
詳しくは分からず、とても平康頼の家人についてまでは分かりません。
 
 
 
保盛と康頼 (taira)
2009-09-20 23:35:54
Sakuraさまが仰られるように、確かに一級資料には保盛と康頼が主従の関係にあったことは記されはいないようです。木邑さまよりの情報は私にとって青天の霹靂でした。康頼が平姓を名乗ったわけ、そして彼が保盛の家人であったらしいことー。分からなかったことが一遍にに氷解し、暗くて長かった穴からやっと這い出した気分になりました。
1.康頼が母にあてた形見の遺言状にみえる「池殿」とは大納言の頼盛ではなく、もっと康頼にとっては身近な人物、即ち主人の保盛を指している可能性が強い。
2.官人であった康頼が尾張へ出向いたは、何かの動機によってかの地への赴任を余儀なくされたものだとおもうのが妥当。保盛の尾張国司任官期間と康頼による義朝の墓の修理時が合致するのは、とりもなおさずこの二人の主従関係の存在を示していると思われます。
3.康頼が尾張国知多郡野間庄の頼朝の父義朝の荒れ果てた墳墓を修理し、盛大な弔いを執り行ったのは、彼個人の発想であったとしても、もっと身分の高い人物の協力や同意が必要であったと考えるのが妥当です。あるいはこれは主人の保盛の命令を目代の康頼が実行に移しただけなのかもしれません。
4.康頼は墓を整備し、小堂を建て、水田三十町を寄せ、六口の僧を置き不段念仏を修めしめたといいます。特にこの水田三十町うんぬんはこの地の国司、目代の職権がなければ自由に寄進できたとは思えません。
 
 
 
続・保盛と康頼 (taira)
2009-09-21 04:00:39
先のメールでは日本語の使い方にいろいろミスがありました。四十年以上異国に住んでいますと母国語の使い方がいい加減になってしまします。どうかご容赦を。さて、続けます。
1.よく分かりませんが、常識で考えても康頼あたりの身分で水田三十町も寄進できる財力があつたとは考えにくいのですが。如何ですか。
2.頼盛が康頼の主人かなとも一時期考えましたが、安元元年の火災の時、康頼と頼盛一行が衝突していたことを想起すると、両者が親密であったとは言い難い。
3.時が去り、頼朝から与えられた麻殖保も様々な理由をもと幕府に没収され、一族は零落の道を辿りますが、康頼の一子康利は一族をまとめ、かって父康頼が赴任していた越前国足羽の縁者を頼ってかの地にむかう。
4.康利は僧になって「探嶺院」に入り,その子康綱も僧をついで、探嶺院を真宗心光山常照寺と改め、開祖となつた。その子孫は代々僧を世襲してきた。現在住職は27代目であり、当然平姓を名乗っている。
5.又、福井市の三門徒派本山専修寺の開祖如道上人は康頼の曾孫に当たり、現法主は27代目、平姓である。
6.福井市大島地区の八王子神社は康頼の勧請したと縁起に有り、彼の足跡が明らかに越前に残されてる。7.最後に、福井市五分市の真宗城福寺は保盛の開基によるものだという。康利一族が足羽郡の縁者を頼ったというのは保盛のことであったのか、それとも保盛が後からかっての家人康頼の一族を頼ってきたのかはあきらかではないが、このふたつの寺は浄土真宗の出雲路派という親鸞聖人の息善鸞上人を師とする派で全国で六十余の末寺だけの極めて小さな法門である。私にはこれが全くの偶然だとは思われない。鎌倉初期、当然に保盛と康利の親密な交流はあったはずである。城福寺のご住職は「池」の姓をついでおられる。この寺と常照寺は「出雲路派三ヶ寺」のニ山で同派でもっとも古い由緒のあるお寺である。        
 
 
 
tairaさま (sakura)
2009-09-21 13:13:01
大御堂寺のある野間庄は長講堂領で、長講堂領は後白河法皇から多くの寺領の寄進をうけ、
その所領は180ヶ所以上あったといわれています。
野間庄はその中の一つだったのでしょう。

長講堂とは、後白河法皇が六条坊門西洞院(現在の五条西洞院)にあった
六条殿内に持仏堂を建立したもの。現在は六条河原近く蓮光寺の隣にあります。

康頼が義朝の墓を修理したことについて
山田昭全先生は「宝物集解説」の中で
「鹿ケ谷事件以前、後白河院近習として活躍していたころ、
後白河院の意向を受けて、康頼が墓の修繕をした可能性は十分考えられる。」
と推定されています。

「平安時代史事典・平保盛」
(前略)平保盛は、建暦元年(1211)出家し、
嘉禄元年(1225)には、
藤原定家の一条京極第の隣に住んでいたことが知られる。とあります。
参考史料として藤原定家の日記「明月記」嘉禄元年10月28日の条
 
 
 
sakura さま (木邑)
2009-09-22 19:39:16
インターネット歴が浅く、木村姓についてどの様に記述されているのかを調べたところ、あまりにもでたらめな記述がされていたので、木村姓の記述をしたいと思ったのですが、木村姓を記述するには平康頼の記述から始める必要がありました。三月、四月頃に木村氏について投稿しましたが、不慣れなために出典が示されていないとしてほとんど削除されました。過去の履歴、ノートの中には残っております。さらに、近江の木村氏が付け加えられておりますが、これには私は疑問を持っております。
 
 
 
sakuraさま (木邑)
2009-09-22 21:55:41
「ふるさと森山」の本を二冊持っております。
sakuraさまは康頼について研究をされていらっしゃる
方のようにお見受けいたします。
送り先を知らせて頂ければ、一冊差し上げます。
FAX 0883-24-4661
 
 
 
sakuraさま (taira)
2009-09-22 23:50:48
山田先生のご高察は大いに尊重しますが、この件に関してはは先生のご推察であると解釈しています。
保盛が定家の隣人として1225年頃すんでいたようですが、その後、越前に移った可能性も否定できませんね。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2009-09-24 16:38:12
平康頼の研究者ではありません。
ブログの記事をお読みいただければすぐ分かります。
暇つぶし等というと木邑さまには失礼かも知れませんが、
それに近いものです。

「ふるさと森山」は大切になさっているご本でしょうに…
興味本位で申し訳ないのですが、
読んでみたいのでお言葉に甘えさせていただきます。
 
 
 
tairaさま (sakura)
2009-09-24 16:49:06
保盛(生没年不詳)は、長寛元年(1163)正月24日に越前守に任命され
仁安元年12月20日に解任されていますが、
越前守に任命された時、保盛は何歳だったのでしょう。
1225年に定家の隣に住んでいた時の保盛はかなり高齢のはずです。

平康頼の終焉地を「昭和京都名所図会」(洛東・上)により
双林寺近くの山荘と思っていましたが、
遠い異国から届けられた一通のメールのお陰で康頼の後半生が分かり、
続いて徳島の木邑さまからも連絡を頂き、物語の中に登場する
一人の人物にすぎなかった平康頼が、少し身近に感じられるようになりました。

9月21日に頂いたメールの内容について、少しお尋ねしたいような気もしますが、
八百有余年、平康頼の伝承を語りついでこられた人達が
お暮らしになる周辺には、その遺跡がありゆったりとした時間が流れているようです。
折にふれその情景がふっと浮かびます。

無理に伝承と史実の接点を求めたり、史料の有無を詮議したりせず
そっとしておきたい気がします。
 
 
 
木村さま (sakura)
2009-09-27 11:03:57
昨日は失礼しました。
送っていただいた「ふるさと森山」は、とても分かりやすく書いてあり
一気に読むことができました。
ところで「ふるさと阿波」はもうご覧になりましたか。
まだのようでしたら、コピーして送らせていただきます。
 
 
 
木邑さま (taira)
2009-09-28 05:50:26
「ふるさと森山」を是非とも入手したいと思いますが、どちらへ問い合わせすれば宜しいのでしょうか、住所並びに電話番号ご存知でしたらお知らせ頂けますか。また、同好会誌何号と指摘すれば宜しいのでしょうか、重ねてお尋ね致します。
 
 
 
平康頼の家人 (木邑)
2009-09-28 22:57:01
sakuraさま
「ふるさと阿波」はまだ読んでおりません、コピーを送って頂ければ幸いです。

tairaさま
「ふるさと森山」は平成2年の発行で、まだ在庫が有るのかどうかを尋ねてみます。

 
 
 
tairaさま (木邑)
2009-09-29 21:57:53
尋ねてみましたが「ふるさと森山」は地域限定の非売品だそうで、2000冊しか作られておらず何処にも無いとのことです。コピーを差し上げますので9月22日に記載のファックス番号で知らせて下さい。
 
 
 
tairaさま (木邑)
2009-09-30 19:01:47
「ふるさと森山」図書館に余分の本があり入手しました。なを、公民館にも十数冊程あるそうです。
森山公民館 TEL.FAX 0883-22-3655
本の値段は1500円です。
 
 
 
木邑さま ()
2009-10-01 06:11:37
お手数を煩わし、恐懼に絶えません。
折角入手されたのですから、ご迷惑でなければ公民館からではなく貴方様にお願いしたいと思います。唯、小生スペインに在住の身ですので、私に代わって久保田という姪から連絡をしてもらいます。本は彼女宛てに送って頂き、代金も彼女から支払いする様に申し付けます。以上、何か不都合が御座いますればお知らせ下さい。
 
 
 
sakuraさま (木邑)
2009-10-02 22:24:32
色々の資料を送って頂き、有難うございました。
大変参考になりました。
 
 
 
木村さま (sakura)
2009-10-03 11:26:11
こちらこそありがとうございました。
「ふるさと森山」を読み直し勉強させてもらっています。

水原一編「延慶本平家物語考証一」新典社を読んでいましたら
平康頼の家系についてこんな記事がありました。一部若松氏の資料と重なると思います。

ページ121
硫黄島に流された平康頼の子息基康が登場する章段
「基康ガ清水寺ニ籠事付康頼ガ夢ノ事」
基康は流刑の地に赴く父を追って摂津国狛林まで来たが、出家した父に説得されて都に帰る。
狛林から戻った基康は硫黄島に流された父の帰洛を祈念し清水寺に百ケ日参籠して信解品を読誦する。(後略)

同じくページ136(注)13
長門本、源平盛衰記では「基康」ではなく「やすもと」「康基」とし、名前自体にも揺れがある。
また「吾妻鏡」元仁元年(1224)十月二八日条には、康頼伝来の阿波国麻殖保についての争論が載り、
「左衛門尉清基」とその「伯父左衛門尉仲康」の記事がある。
橘純孝氏は、清基を「康基」の子息と考え「平康頼伝考」『大谷学報12-1 昭6・1』
山田昭全氏は慎重に康頼と「同じ血筋のもの」としている。
(「平康頼伝記研究(その二)鹿ケ谷事件・帰洛・麻殖保司 「豊山教学大会紀要」3 昭50)(後略)

 
 
 
康頼の子孫 (taira)
2009-10-06 21:13:45
大和郡山の瑞巌山「光慶寺」は康頼の長子清基の末男千代寿が出家し、光慶と号して住職となった。この寺には入道相国の花押、治承二年七月二十六日の日付で成経、康頼あての赦免状が保蔵されていると言います。機会があれば是非拝観させて頂いたら如何ですか。
 
 
 
tairaさま (sakura)
2009-10-08 10:54:38
機会があれば拝観させていただきます。

何らかの事情があったのでしょうが、
康頼の子や孫の名前が資料によって違います。

 
 
 
tairaさま (木邑)
2009-10-11 23:23:29
今日は道造りがありました、25日の秋祭りの為です。かって、森藤には神輿、小神輿、おうど、だんじり、やたい、など康頼神社の神輿も加わり六台程が集まり、獅子舞、傘踊りなどがあって見ごたえのあるものでしたが、少子高齢化のため、やたいやだんじりに乗る子供が少なくなり、担ぐ大人も高齢化し少なくなり、神輿を車に乗っけるなどして伝統を守ろうと苦労をしている様です。
 久保田さまより本の代金を送って頂きました。
 
 
 
木邑様 (taira)
2009-10-14 04:14:05
伝統を守り続けると言う事は難しいものですね。ご苦労、お察しします。

木邑様のご先祖に関して、何ら情報を提供できないのがとても残念です。お宅は木邑氏の宗家ですか。田邑家や鶴田家の宗家との交流は現在も継続されているのでしょうか。彼の家々にご先祖の消息を窺わせる過去帳のようなものは無いのでしょうか。三家の菩提寺に足跡はございませんか。
 
 
 
tairaさま (sakura)
2009-10-14 15:30:11
先日、光慶寺を拝観させていただき、ご住職からもお話を伺うことができましたので報告させていただきます。
①平清盛自筆の赦免状は、奈良国立博物館に先代が預けたと聞いている。
②当寺は、観光寺院ではないので駒札や説明板は立てていない。
③檀家に配布されたという「瑞巌山光慶寺縁起略記」をいただきました。
その中に「平清盛自筆の赦免状」の文面があります。
全文は次の通り
「重科者遠流に免ず早く帰洛の思ひを成るべし、今度中宮御産の御祈によって
非常の赦行の間、鬼界ヶ島の流人、少将成恒、康頼法師赦免の状如件」
 治承二年(1178)七月廿六日
     入道相国
       花押
        少将成恒
        康頼法師
 
  情報ありがとうございました。

 
 
 
清盛自筆の赦免状 (taira)
2009-10-15 04:17:25
Sakura様

ご苦労様でした。貴重な収穫でしたね。「平家物語」の一場面がそこにも存在したのですね。ご報告、感謝します。
 
 
 
康頼の家人 (木邑)
2009-10-19 01:23:11
熊野権現の傍に古屋敷があり木村家では一番古いとされています。屋号をやま(へ)茂と云い、やまも山持ちと言われ峠に至るまで他所の山を踏まずに登れたとの言い伝えがあります。
康頼の時代には前山の峠近くに鬼界山補陀洛寺が建てられ峠に至る道に子院十二坊が配置されていましたが、戦国時代に長宗我部の兵火で総て焼失し、寺を管理していた木村家に山だけが残されたことに寄るものでしょう。
私は戦前生まれですが子供の頃、古いボロボロの幅広の掛け軸があったのを覚えています。一面に木々が描かれ、所々に寺らしき建物がえがかれ脇に名称が書き添えられていましたが、前山を描いたものだったのでしょうが、今は見当たりません。
木村家は古くは木邑を名乗っていましたが、邑の字は正確には口に巴とは少し異なり、巴の内の縦棒、下の横棒は人の字となり、正確な活字はありません。回りに城壁を巡らせた村を意味する字のようですが、何処から持ってきた字なのかは解かりません。
田村氏は古くは田室を名乗っていたそうで、本家は隣町の名西郡石井町に移転しましたが、祖神と古屋敷は木村家の祖神と二百メートル程離れて別々に在ります。
鶴田本家は山路に隣接する森藤にあり祭りなどで一緒になることがあります。
 
 
 
鹿ケ谷事件 (sakura)
2009-10-20 15:48:16
『玉葉』安元三年(=治承元年1178)九月十三日の条に「解官の人四人・権大納言成親、左少将尾張守盛頼、右少将丹波守成経、越後守親実」とあります。

右少将丹波守成経の腹違いの弟越後守親実は、六歳で越後守となっています。父親である成親の力です。左少将尾張守盛頼は成親の弟です。
保盛が越前守に任官された年齢が分かるといのですが…

1177年6月1日に鹿ケ谷の謀議が多田行綱の密告により発覚すると、清盛は直ちに成親、西光を逮捕しその日のうちに西光の首をはね、
二日後には早くも成親を難波経遠(清盛の私的な家来)に護送させて、備前に流しのち経遠に殺させています。
右少将丹波守成経は解官の上、鬼界島に流され翌年(1178)赦され、1183年右少将に還任。

成親の正式な解官は、流罪の一週間後と逆になっている。正式な流罪ならば、検非違使や役人に護送させるはず。
成経・康頼の赦免状も清盛が勝手に行ったこと。

 
 
 
木邑様 (taira)
2009-10-20 21:36:35
興味深いお話ですね。康頼が建立した数々の寺塔も戦火によって灰燼と化し、ご先祖の手がかりも消失してしまったわけで、残念至極に思います。八百年の隔たりの壁は容易に我々を近ずけさせてくれません。

ご存知の様に越前もまた有史以来、戦乱に明け暮れた国でした。勝家が庇護した三門徒派の中心寺院であつた常照寺も圧倒的な本願寺派門徒の攻撃の為に転退を余儀なくされました。ただ開基から先代住職までの院号名、寂年が過去帳に坊守(妻)の名、出自と共に記されて現在まで受け継がれてきた事は幸いのひとことに尽きます。但し、分からない部分もあります。常照寺は1297年、権大僧都法印浄盛上人開基とありますが、この「浄盛」は号で彼の俗名が分かりません。彼は1249年に生まれ、90歳の高齢で亡くなっていますが、かれが康頼の孫か曾孫か、特定はできません。
 
 
 
権大僧都 (木邑)
2009-10-23 20:46:35
「ふるさと森山」に書かれているところでは、48ページに、康利の子の康綱も出家して父のあとを継ぎ、探嶺院を浄土真宗心光山常照寺と改め、権大僧都となり、同寺の開祖となった。暦応二年(1339)正月十二日、九十歳という高齢で没している。 と書かれています。
 
 
 
平姓 (sakura)
2009-10-25 20:59:26
平康頼について、愛知県図書館に照会していました調査結果が届きました。

平康頼が中原頼季の子であるという記録について『古代氏族系譜集成 中巻』宝賀寿男編著(古代氏族研究会1986)の中に
①天孫系氏族概説第三節物部氏族23中原朝臣の系譜で頼季の子となっており、
②注釈に「姓氏分脈」では頼季をあげ、その子に鹿ケ谷事件の平判官康頼を記す。
③同じく注釈に鈴木真年『史略名称訓義』から
高倉天皇条で平康頼に「平将軍貞盛曾孫駿河守貞季文章生満季孫信濃守頼季男」
とあります。

鈴木真年『史略名称訓義』は、近辺の図書館では確認できませんでした。
京都資料館で、「系図纂要」(第七冊・八冊)名著出版から「平将軍貞盛曾孫駿河守貞季文章生満季孫頼季」まで
たどることができましたが、康頼には至らず桓武平氏の頼季が康頼の父かどうか確かめることができませんでした。

鈴木真年『史略名称訓義』については、インターネットで検索してみてください。以上ご報告まで

 
 
 
 (sakura)
2009-11-01 08:13:41
十市部首春宗(従五下・美濃介・史博士)→ 有象 (従四下・治部大輔・明経博士・算博士・出雲守・遠江介斎宮頭・宿祢改め朝臣姓を賜う中原朝臣。
十市部宿祢とも、十市部宿祢ともあり)     
 → 致時(伊勢守・信濃守・斎宮権頭・従四上・明経博士)→貞清(穀倉院別当・主殿頭・正五下) →頼成(淡路守)→頼季(信濃守)
→康頼(平判官入道・検非違使・改姓・配流喜界島後帰洛)
→康基(康頼子・左衛門尉)仲康(康頼子・左衛門尉)神子(康頼子・禅師入唐)
→清基(康基子・左衛門尉)俊基(康基子・平内左衛門尉俊基 硫黄島配流)
『古代氏族系譜集成 中巻』(註3)P1178『姓氏文脈』では頼季を頼成の子とするのはやや年代が合わない。恐らくは孫世代に属するのではなかろうか。
 
参考                     
『古代氏族系譜集成 中巻』天孫系氏族概説第三節物部氏族23中原朝臣の系譜P1174~1175 
宝賀寿男編著(古代氏族研究会1986)
『姓氏家系大辞典』中原姓P4252~4253(太田亮著・角川書店 昭和49年5版)
 
 
 
氏神縁起 (taira)
2009-11-01 20:27:26
八王子権現氏神 諏訪大明神 鎮守

縁起云。右諏訪大明神垂跡は平判官康頼。云々。中略。成経康頼鬼界島より帰路の後、成経は豊前国若島を下給、康頼は越前国大島を下し給う、北国七ヶ国の探題として則大島に居住有。一代康頼、二代康利、三代康綱、四代康元。この康元三十四歳の時帰洛有。則先祖康頼の像を残置給是也。御下屋敷大町御能跡。

越前国名跡考より。著者井上翼章 文化12(1815)著者は福井藩右筆を務めた学者。
 
 
 
続・縁起 (taira)
2009-11-02 00:09:36
八王子権現は福井市大島地区(かつての大島村)にあります。新しく建立されてからそれほど時は経っていません。康頼とその子孫が住んだという大町はこの神社の近くにあります。北陸街道と美濃街道が交差する地の大町は康頼の玄孫と伝える如道が最初の専照寺を建てた処ですが、現在は彼とその一族の墓地となっています。インターネット「福井 大町墓地」で見て下さい。

成経と康頼が鬼界島から帰洛の後、両者がそれぞれ領地を賜った(院からか)とありますが、これを裏付する史料を知りません。ただ、  何等かの形で(流刑前か、後か)康頼が越前と繋がりがあったのではないかと言う事は推測されます。
帰洛後、解官の身にあった康頼が復官したとは聞きません。記録にも前廷尉、康頼入道とあり、再び院に仕えるという事は無かったのではないかと思われます。未だ30代後半で幼い子供たちを抱えていた彼としてはそれなりの収入の道が必要であったろう事は昔も今も変わりはない筈です。「ふるさと森山」は康頼の越前の遺領六百貫云々を伝えているようですが、これは
康頼が賜わり管理していた大島・大町の遺産をさしているように思われます。
 
 
 
続・続 縁起 (taira)
2009-11-02 03:32:40
二代目康利の名は「吾妻鏡」のような一級資料には現れませんが、「八王子権現縁起」「ふるさと森山」「専照寺寺伝」にその名があり、実在性を疑う余地はありません。「ふるさと森山」では三代目の康綱が心光山・常照寺の開基とありますが、彼は1249年生まれで、康頼の孫とするにはやや年代に無理があるのではなかろうかと愚考しますが、ありえないことでも有りません。前にも申しましたが、常照寺の寺伝では康綱の俗名は記されておらず法名が浄盛となっています。彼は生涯独身で寺の二代目は養子(親鸞孫・本願寺三世覚如の一子)の康正が継ぎました。縁起にある
四代目康元とは誰か、今の処、分かりません。ただ、想像を逞しくすれば「三十四歳の時、帰洛あり」とあるので後述する康敏の事ではなかろうかとも考えます。この場合、この人物は四代目ではなく三代目康綱の兄弟である可能性があります。

手許にある「真宗三門徒派本山・専照寺」の寺伝では、開祖如導は平康頼の玄孫で康敏(別名俊職)の子、京都五条に生まれたーと、あります。即ち、康頼と同じく鬼界島に配流となったと「吾妻鏡」にも記されている俊職とは康利の孫であると記されています。
よってこの寺伝に依れば、sakura様の探索された「俊基」は俊職・康敏と同一人物であると思われ、又、彼は清基の子ではなく、康利の一子であると思われます。
 
 
 
木邑様 (taira)
2009-11-07 02:46:43
「ふるさと森山」康頼の関連部分、読ませていただきました。十年程前から不充分な状況の中で康頼考察を試みてきましたものの、分からない部分が多くお手上げの態でありましたが、「ふるさと森山」は大きな示唆を与えてくれました。殊に康頼の「中原姓」が「平姓」に変わった理由と思われる保盛との主従関係は説得力があります。康頼の遺言状の「池殿」、康頼の子孫は幕府の平家残党狩りの対象とならず「平姓」を名乗り続ける事のできたのは池家の家人であったからではないか。出家した保盛開基の城福寺と康頼の孫(または曾孫)開基の常照寺が同じ越前の出雲路派の由緒ある「三ヶ寺」として、八百年の交わりを保ち続けている理由の一つに往古の康頼と保盛の関係が存在したからではないか、そう思います。

康利の血脈(長子に限れば)は常照寺開基の孫、又は曾孫に子が無かった為にここで絶えますが、親鸞の玄孫が寺を継ぎ、子孫が平成の世まで栄えてきました。
康頼の兄、清基も三代俊職(としとも)、四代如導から現在まで存続してきました。

わたしは「ふるさと森山」での康頼伝の全てを裏付けする資料は有りませんが、充分、信頼に値する研究考察だと確信します。
 
 
 
訂正 (taira)
2009-11-07 08:08:43
俊職は「としもと」と読みます。即ち、「俊基」です。彼は別名、「康敏」とも名乗っていたようです。
この場合、「敏」は「俊」です。
 
 
 
八王子権現 (sakura)
2009-11-27 10:44:55
井上翼章著「新訂越前国名蹟考」松見文庫『八王子権現』ー前略ー成経には豊前の国若島、康頼には越前国大島を下され、北陸七ヵ国の探題として大島に居住していた。
一代康頼、二代康利、三代康綱、四代康元。四代目康元のとき京都に帰った。云々とあり二代目康利の存在を確認することができました。
 
 
 
邑の字の意味 (木邑)
2009-12-28 00:33:40
当家の先祖は平姓から木邑姓に改姓し明治頃まで使われていた。邑の字は正確には口に巴ではなく、口に巴の字の中の縦棒と下の横棒は人の字となっている。
その邑の字の意味を城壁を備えた むら を意味するものだと思っていた。
よく調べてみると 口(くにがまえ、領域)+ 巴(屈服した人を服従させ その地に止めるの意)とあった。
先祖はその字の意味を解かっていて苗字の字に用いたのでしょう。

はや、今年も暮れようとしています。
tairaさま、sakuraさま 良き新年をお迎え下さるよう祈念いたします。康頼神社にも御参りして ご子孫がご活躍されていることを報告させていただきます。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2009-12-28 18:08:51
漢字は仮名と違って音だけでなく意味も表しているので様々なことが想像できて面白いですね。平から木邑へとご先祖が改姓されたとのことですが、木邑の「邑」にはそのような意味があったのですか。
随分前になりますが、コメント欄に書いて下さった「平保盛とその子達」について「野間(3)平康頼」にも書きましたが、少し補足させていただきます。保盛の長子頼清は従三位兵部卿、三男光雅は延暦寺の僧になっています。保盛が1211年に出家したので承久元年(1219)年正月の実朝の拝賀の儀には光盛(1172~1229)が参列しています。
保盛、光盛一家は鎌倉家に親近感を抱いていましたが、頼朝の死後、頼朝の子孫が北条家の手で次々に消されていくのを見て、同じ桓武平氏の流れを汲む北条家(北条『平』時政・義時・政子)の陰謀に気づきます。光盛は討幕の議には深入りしませんでしたが、もともと討幕論者だった保教(保盛の次男)は妻が葉室家(藤原北家)の権中納言藤原宗行の養女であったため、後鳥羽上皇の廷臣の一人であった宗行に誘われるまま討幕の密議に深入りしていったようです。承久の乱後、宗行も斬られています。池大納言家領は半数近くを相続した光盛から娘まんさい御前を通じて内大臣・久我通基に相続されています。久我通基の母は北条義時につながる女性です。
保盛・光盛以外の頼盛の子を見てみると平保業の子孫は鎌倉に下向して幕府滅亡に至るまで歴代の将軍に仕えています。仲盛は佐渡守、禅林寺(永観堂)の静遍は学徳の高い僧として権大僧都に任じられています。
今年は木邑さまやTairaさまに教えていただいたり「ふるさと森山」を頂戴して平康頼の後半生を知ることができました。ありがとうございました。お二人ともいいお正月をお迎えください。
 
 
 
康頼と親鸞 (1) (taira)
2010-01-05 06:36:39
 遅ればせながら、謹んで年頭のご祝辞を申し上げます。
 昨年は皆様のお蔭で足踏み状態にあった先祖探訪も大きく前進致しました。誠に有難う御座いました。
 さて、越前国足羽郡三十八社村に常照寺を建立した康頼の孫(または曾孫)法名浄盛(ジョウショウ)は生涯独身であったため、本願寺三世覚如の孫(「ふるさと森山」には子とありますが、同寺四世善如の弟とありますから孫でありましょう)を養子に迎えて寺を継がせます。即ち、康頼の血は前述の浄盛で途絶え、爾来七百年親鸞の血脈が我が平家に受け継がれることになります。何故、親鸞の曾孫が康頼の「家」を継いだのか、もう暫くお付き合い下さい。
 越前常照寺は開基より十五代まで門跡寺院青蓮院より上人号とともに権大僧都法印の高位高官を与えられ、紫衣着用を赦されます。後白河の近臣であったとはいえ、一地下人の康頼の子孫が何故かくの如き高僧に列せられたのか今ひとつ合点がいきませんでしたが、その原因が二代目を継いだ康正上人にあったのではなかろうかと過去帳を調べていくうちに分かりかけてきたような気がします。続。
 
 
 
康頼と親鸞(2) (taira)
2010-01-06 00:45:27
 親鸞の孫・覚如は本願寺第三世を継ぐ以前は、祖父の墓守り、即ち大谷廟堂の留守職第三代でその日の糧にも事欠く貧乏暮らし、東国の親鸞のかつての高弟たちからの施しで細々と暮らしていました。覚如は坂東の親鸞直弟子が主張する法脈(血脈)重視に対抗して親鸞血統の正当性を唱え、大谷廟堂の寺院化、つまり本願寺の成立を目指すのですが、東国の親鸞面授の弟子たちの力は強大で覚如は彼らに頭が上がらなかったのです。
 当時、越前国は念仏王国で(現在でも浄土真宗十派のうち四派が福井県に有ります)、ことに大町専照寺の如道は大きな勢力を築いていました。
 応長元年(1311)、覚如は息子の存覚を同道し、越前に下向し二十日間その地に滞在して如道や周辺の高僧たちに親鸞の「教行信証」を講述します。
覚如の狙いは越前に強大な影響力を持つ如道を自分のプロジェクトの為に取り込みたい意図があったのでしょう。両者間には覚如が望んだ信頼関係が生まれ、後年覚如の京都で執り行われた葬式にも老齢の如道が参席しています。尚、この如道は康頼の孫・俊職の一子とつたえられています。
 この覚如親子の滞在中、常照寺の開基浄盛も大いに
彼らと気脈を通じます。浄盛の師は覚如の叔父・善鸞
(親鸞の長男)であったことも養子の話が支障なく進んだ原因でしょう。つまり、浄盛は生涯独身であったために寺を継ぐ後継者が必要であり、話し合いの上、覚如の孫、後の本願寺四世善如の弟が常照寺に入寺したのです。今も常照寺の入り口には「覚如上人布教の場」と刻まれた旧い石碑が建っています。続。
 
 
 
tairaさま (sakura)
2010-01-07 15:27:05
ご丁寧な年始のご挨拶をいただきましてありがとうございました。
以前、浄盛の俗名が分からないとお書きでしたが、その後お分かりになりましたか。「福井市寺院名簿」福井市仏教会編 1968)『常照寺』に「建長二年、平判官康頼公の長子 盛信十二才にて親「鸞?」聖人の弟子となり法名を浄盛と賜り、永和四年当地に懸錫す。その後覚如上人正応年間に宗祖遺跡巡拝の時 一宇を建立して、心光山常照寺と号せられる。云々第二十六世 浄月記」と書かれています。
 
 
 
城福寺 (sakura)
2010-01-08 01:24:45
「武生市史 史料編7」(1987)真柄山城福寺
「由緒 開基は池大納言頼盛の令子如成にして兄は禅林寺大納言僧都静遍なり。建久年中(1190~9)釈門に入り越前国今立郡宮畠(真柄)にて平家一門の菩提を弔ひ居りしが、宗祖親鸞聖人左遷の砌り其の教化を蒙り弟子となり、一宇を建立して浄土真宗の宗風を弘通せり。第四世浄信の代、歴応年中(1338~42)毫摂寺善智上人在国の砌り数多の門葉を隋伴して其の門に入る。第八世浄融の代、永正元年(1504)寺基を現地五分市に移す。云々」
参考『越前国名蹟考』往昔池大納言の令子親鸞上人に帰依し如浄法師と名付。云々『越藩拾遺録』池大納言の令子、建久の頃出家し如浄と号し。云々『寺院明細帳』当寺開基の義は、人王50代桓武天皇の後胤池之大納言の令子、云々

 
 
 
盛信(1) (taira)
2010-01-09 00:57:17
 sakura様とシャーロックホームスにでもなった積りで謎解きに挑戦しなければなりませんね。
 「盛信」のことは以前から知っていました。十数年前、従兄のS氏が「未だ中学生の頃、祖母から本家より一時借用したという掛軸になった系図を見せて貰った事があり、そこには康頼子息盛実(モリザネだったと本人は記憶している)父の菩提を弔うために出家云々」と記されていた、という話をしてくれました。お恥ずかしい話ですが、私の中には康頼の名は記憶に有りませんでした。慌てて英治の「新・平家物語」全巻を姉に送ってもらい、我が先祖らしい康頼の存在を知り、私の康頼探訪が始まったのです。
 本家の系図には康頼長子盛実(或いは盛信)の名が有りますが、信頼性という面では些かこころもと無いのです。康頼の長子としての盛信の名はどの文献にも見当たりません。盛信が浄盛だとすれば、彼は1339年、九十歳の高齢で没していますから逆算して1250年生まれとなり、1220年頃没した(「ふるさと森山」)とされる康頼の子であるとは当然考えられません。当然、浄盛は康頼の曾孫又は玄孫にあたるのではなかろうかと考えられます。
 
 
 
盛信(2) (taira)
2010-01-09 23:21:21
 「福井市寺院名簿」に見られる建長2年は浄盛が生また年です。彼の俗名といわれる「盛信」とは幼名でしょうか。この時代の諱は元服後、通字として親の一字をつけるのが習慣だったようですが、例外も多々みられますし、幼くして出家したので異なる名を用いていたのかもしれません。私の個人的な意見としては浄盛は康利の孫だと思います。ただ、彼が康利の嫡男の子であったのか否かは分かりません。
 「寺院名簿」では浄盛は十二歳で出家し親鸞に師事したとありますが、そうしますと出家したのは1262年で親鸞の没年と同じですからこの説は成り立ちません。「越前国名跡考」では親鸞長男の善鸞に師事したとあります。詳細な説明は避けますが、福井県の浄土真宗四本山はみなその起源に「秘事法門」を唱え、親鸞から義絶された善鸞とふかい関係にありますので
浄盛の師は後者とみるのが適当ではないかと思います。
 
 
 
盛信(3) (taira)
2010-01-11 00:22:00
 「永和四年当地に懸錫す」の箇所で、「永和四年」は「永仁四年」の間違いですね。「懸錫す」とは正確には如何なる意味なのでしょうか、手許の辞書では分かりません。永仁四年、即ち1297年浄盛が47歳の時に常照寺を建立したといいます。覚如上人が宗祖遺跡巡拝の正応年間に建立したとありますが、正応は1288年より1293年までで小さな食い違いが有ります。「云々第二十六世 浄月記」の箇所では冒頭の「云々」にきわめて関心がありますが、これは判明できるものでしょうか。尚、これを記したという第26代は現住職で弦月氏といい「浄月」ではありません。但し、記された時期に浄月と名乗っていたのかは伺っておりません。
 
 
 
常照寺 (sakura)
2010-01-11 15:31:02
ご親戚のS氏が中学生の頃御覧になったという系図は、後世作られたものかも知れませんね。康頼の子孫については福井の資料にも混乱が見られます。早速ですがご質問にお答えします。
①福井市寺院名簿には「永和四年」となっています。但し「近江・若狭・越前寺院神社大事典」平凡社(1997)には「平判官康頼の子出家し浄盛と号し、永仁四年三十八社に一宇を建立し(以下略)」とあります。「福井県の地名」(平凡社)『越藩拾遺録』にも「平判官康頼の子出家し浄盛と号し、永仁四年三十八社に一宇を建立し(以下略)」とあると書かれています。
②「懸錫す」は「懸錫す」となっています。「正応年間」も「正応年間」となっています。「懸錫」は仏教用語だと思いますが、手許の辞書にも載ってないので正確な意味は分かりませんが、「留錫」が行脚している僧がある寺にとどまること。とあり「懸錫」も同様の意味と私は理解しています。
③心光山「常照寺」真宗出雲路派住職第二十六世平浄月となっています。別の資料『福井市宗教法人名簿』福井県総務部平成九年3月現在、常照寺代表役員平弓月となっています。
④以来三百有余年連綿として相承せしも、天正の頃織田氏の兵火に遭い堂宇を破滅せり。天明七年旧地に戻り、由あって出雲路派第十二世(善?)照上人の代に本山の客流となれり、依て代々連綿す。昭和九年七月本堂再建し二十六世の現(住?在とは読めません)に及べり。二十六世浄月記 以上
前回の文中に「法名を浄盛と賜り」と書いていますが原文は「法キを浄盛と賜り」となっていますが「キ」は漢和辞典には載っていますが、PCの文字変換では出てこずやむなく法名としています。Tairaさまには資料の存在をお知らせするだけで申し訳ないのですが資料の検討まではしていません どうぞご了解ください。その他の資料「麻生津村誌」(1979)では平判官康頼入道性照の息平浄盛四十七才出家し親鸞長男の善鸞について修行し(以下略)とあります。お手許になくご興味をお持ちになった資料がございましたら遠慮なさらず仰ってください。
 
 
 
探嶺院 (taira)
2010-01-11 21:25:10
 貴重な情報有難う御座います。お言葉に甘えますが、「ふるさと森山」に記載されてい越前へ一門を従えて移った康利が出家して入った「探嶺院」についてなにか資料があればと思いますが。
 
 
 
常照寺 (sakura)
2010-01-12 16:41:50
ご希望に添える資料かどうか分かりませんが 「麻生津村誌」(1979)P・219~221 常照寺 三十八社村 平判官康頼入道性照の息平浄盛四(十)七才出家し親鸞の子善鸞について修行し行運僧都の請に応じ開基となる。心光山常照寺と号す。もと深(『探』ではない)嶺院と称す、と云う。縁起によれば承元元年(1207)の春、親鸞越後の国へ流さる際この寺に滞在法話されしことあり、その縁により六字の名号と和歌を残し旅立たれた。その後応長元年(1311)覚如上人親鸞の遺跡を訪ねて諸国巡錫されし時立寄られしことあり。 これより先浄盛は宗祖の真影安置を志し大谷本廟に詣て(『で』ではない)覚如上人に謁し其の旨願出親鸞上人木像を自ら刻み二幅の絵像を添え賜る、これに依り近郷より参詣する者日々其の数を増し末寺七十ヶ寺門徒三千数百に及ぶ。領主朝倉家境内七反七畝十六歩寄進ありて隆盛を極めしが後、織田信長の兵火にかかり堂宇灰燼に帰す、以後威勢全く地に落ち、止むなく一時吉田郡轟村に移住するに至る。天正八年(1580)戻りて徳尾村に小庵を結びて伝灯せり。 其の後いつの頃元の三十八社村に戻りしかは明かならざるも安永三年(1774)午四月安保村報恩寺に宛てたる文書に徳尾村常照寺とあり越えて文化十四年(1818)今村増田治郎左エ門香尊帳に八社常照寺とあり。 この寺五分市村毫摂寺善照上人の請により宝物の内、鏡の御影、六字名号、名体不離の尊像光明品等を譲った縁により同家と法類のよしみを結び以後一派の本山格式を以って遇されることになった。隔年毎に七月二十五日宝物虫干の際同寺に至り通称あかずの門より参進、錠を開きて其の有無を検する習わしとなっている。又寺の住職たるべき者得度の時一派本山の格式に於いて行われ毫摂寺の免許なくしてこれをなすことが出来ることになっていると言う。又寺の先代住職の脇掛を御代前に掛置くことが出来るのも本山の格式による為である。つづく
 
 
 
常照寺由緒(1) (taira)
2010-01-14 00:55:25
sakuraさま、「麻生津村誌」の内容は常照寺に関しての私の長年の疑問に応えるに充分な資料でした。誠に有難う御座いました。もう十年前になりますが、私は曾祖父、祖父の生まれ育ったこの常照寺を訪ねました。福井市の外れ、北陸街道から少しそれた田圃の傍にあったその寺は私の想像に反してまことに以ってこじんまりとした造りのものであり、恰も裏山に生い茂った笹林に覆われてしまいそうな小寺でした。越前藩主松平春嶽の直筆の額、橋本左内の見事な書の掛け軸、桐箱に納められた後陽成天皇の御文等を拝見しましたが、並々ならぬ歴史の重みを背に歩んできた想いがしました。しかし、反面檀家数も僅かで住職が兼地方公務員である寺でもあったのです。この寺がかつて自国他国に七十余の末寺と三千七百余りの門徒を抱えて隆盛していたとは想像し難いことであり、寺に何が起きていたのか、興味は尽きませんでしたが、その凡その答えがこの度の情報に有りました。次回に詳しく検証してみたいと思います。平康頼のテーマとは些かかけ離れてしまう気がしますが、いま少しお付き合いをお願い致します。
 
 
 
常照寺 (sakura)
2010-01-14 14:56:10
宝物として覚如上人自作の親鸞上人木像 親鸞自作の聖徳太子像 行基菩薩作の十一面観音像 桃園天皇御筆の和歌一首 泰澄大師作来迎阿弥陀如来像 宣旨二通 天正年間一揆兵乱の際門徒東鳥羽村野尻四郎兵衛なる者危険を感じ堂内安置の仏像を背負いて逃れ難を免るという。後に其の功を賞し遇するに永代檀家総代たるの地位を以てせりと言う。 本堂入口に額あり「心光山」明治壬午一月応嘱。福井県令従五位石黒務の書、壬午は明治十五年なり、県令は今の知事なり。下荒井村広場伝十郎氏今の主人務氏の祖父の労に依るものなり。本堂に入りて額あり「真宗精舎」春岳の書なり。松平慶永第十六代福井藩主春岳と号す。 境内入口門柱あり。福井大橋係柴田公創設以半杠半矼、明治己酉改築旧橋石柱永久為記念。と刻す。寄進人福井市吉田順之助、大正八年建之。明治己酉は明治四十二年に当る。吉田順之助氏は浅水二日町吉田茂兵衛の出なり。以上   「近江・若狭・越前寺院神社大事典」平凡社(1997)・日本地名大系18「福井県の地名」(1987)平凡社によると「常照寺」「心光山と号し、真宗出雲路派。本尊阿弥陀如来。越藩拾遺録に『平判官康頼の子出家し浄盛と号し、永仁四年三十八社に一宇を建立し、三千七百の門徒七十ヶ寺の末寺ありて、十三世に至りて大僧都なるに天正十八年の兵乱に退転し、当村(徳尾村)に草庵を結びて今は常照寺と号す。』とある。平康頼は大町専修寺(現福井市)の開基如導の先祖ともされ、近隣の中野にあった専照寺は如導の弟子浄一を開基とするので、当寺は専照寺末であったと思われる。寺伝によると天正二年(1574)の一向一揆蜂起によって三十八社村を退転し、吉田郡轟(どめき)村(現福井県永平寺町)に居住していたが同一八年徳尾村に寺を再興し、慶長元年(1596)頃出雲路派に帰し、天明七年(1787)現地に再移転したという。」と書かれています。※「杠」コウ・はたさお 「矼」コウ・とびいし  異国でのご先祖の調査、ご苦労お察しします。少しでもお役にたてれば嬉しいです。
 
 
 
常照寺由緒(2) (taira)
2010-01-15 00:39:00
寺宝の目録が記されていたとは再度のお年玉を頂いたようなものです。親鸞聖人自作の聖徳太子像とは驚きました。私は浄盛と覚如との初見は、後者が息男存覚を同道して越前へ下向し大町専照寺如道等に親鸞著「教行信証」を講述した応長元年(1311)だとばかり思っていましたが、「麻生津村誌」によれば、それ以前に上洛した浄盛は大谷本廟の覚如に謁し、その際に覚如自作の親鸞聖人木像と二幅の絵像を下賜されたのですね。浄盛は善鸞に師事したようですが、覚如にとって善鸞は叔父であり、本来ならば本願寺第ニ世を継ぐ人物でしたが、父親鸞の怒りに触れて破門され、覚如は自分が第三世となる為にこの善鸞の長男如信を第ニ世に据えたのです。浄盛の従兄と思われる大町如道の裏方(本山門主の妻)は玉垂姫といって善鸞の娘と言い伝えられています。というわけで浄盛の訪問を覚如は喜んで受け入れた筈です。浄盛の跡取りに覚如の孫を入寺させるとことも話しあったのかも知れません。さて、常照寺は覚如から賜った数々の絵像や木像を一目拝まんと近在からの参詣人はひきもきらず、やがて自国他国併せて七十余りの末寺三千数百余りの門徒を抱える大寺院と隆盛したのです。思うに門徒の布施や末寺の負担金、数々の催し事の収入の一部は当時未だ清貧の暮らしに甘んじていた覚如一家に浄財として送られていたのではないかとと思えます。ともかく、覚如から下給された宝物が常照寺を恰も中本山の如き寺院に変身させたという事は私の疑問を氷解させるに余りありました。常照寺の代々の住職が上人号、権大僧都法印の位階を与えられ、青蓮院より紫衣を赦されていたことは、覚如との交際が如何に絶大であったかを物語っています。
 
 
 
懸・杠・矼 (sakura)
2010-01-15 16:26:10
「懸」つりさげる、ひっかける 「杠」はたさお、小橋 「矼」石橋または水中の飛び石  
 
 
 
常照寺由緒(3) (taira)
2010-01-23 07:03:57
「麻生津村誌」にあるように、毫摂寺には通称「タイラの間」或いは「開けずの間」(開かずに非ず)と呼ばれる一室があり、常照寺の寺宝が保蔵され、ニ年に一度その部屋を開いて本山門主と常照寺住職が経をあげ、常照寺檀家総代が現在でも裃を着用して臨むらしいとかつて本山を参詣した姉から聞いた事が有ります。私はその当時からそれらの宝が現在でも本山に保管されている理由が分かりませんでした。信長や一向一揆の兵火から逃れた際にそれらを毫摂寺に預けたのではないかとも考えましたが、そうであるならば、とうの昔に返却されているべきものではないかと、理解に苦しみまし。が、この謎は「麻生津村誌」が見事に解いてくれました。つまり、宝は常照寺がその昔、本山へ譲り渡したものだと記しています。その見返りとして、本山の客流として別格に遇されているわけですね。あの小さな寺が、平保盛が開基と伝える城福寺と確か越前の名門瓜生氏の浄教寺だったと思いますが、本山を除いて「出雲路派三ヶ寺」の一山として待遇されている理由が分かりました。それにしても、宝のひとつに親鸞聖人自作の聖徳太子像があったとは驚嘆しました。もし、それら諸々の宝が常照寺に返されていたならば、この寺は往時の繁栄を取り戻していたに違い有りません。私としては残念至極に思います。1月12日付けのsakura様の文中、「行運僧都」の名がでてまいりますが、彼が如何なる人物であるのかお分かりなりますか。また、「麻生津村誌」に常照寺の関係記事がまだ記載されているようでしたら、ご迷惑ですがお報せ願えますか。
 
 
 
麻生津村誌 (sakura)
2010-01-23 18:28:48
「行運僧都」については地元か近隣の図書館で調べてきます。少しお時間をいただけないでしょうか。「麻生津村誌」については、福井県立図書館に問い合わせてみます。(回答をいただくのにかなりの日数がかかると思います)他に福井県立図書館に依頼なさりたい件はございませんか?   ご先祖が本山に寺宝をお譲りになったことを残念に思われるお気持ちは分かります。当時常照寺が寺宝を譲らないといけない事情が何かあったのでしょうか。手許にある素人向けの「仏教百科」にも毫摂寺は出雲路派本山として大きく掲載されています。お姉さまがこの寺に参詣されたことがあるそうですが、きっと現在も力のある大寺なのでしょうね。
 
 
 
sakuraさま (taira)
2010-01-24 04:40:19
越前国の歴史は、また幾多の血腥い争乱のそれでもありました。南北朝、信長と朝倉、一揆、勝家と秀吉の戦い等々、その被害者はいつの世も貧しい百姓たちでした。その地獄から逃れるにはただ一心に念仏を唱えることだけが、彼らに与えられた救いの道でした。越前が真宗十派のうち、四派が集まる念仏王国となっていった背景には、この百姓たちの苦悩があったと思われます。この四本山はかつてそれぞれ強大な勢力を誇っていたものの、一揆に依って多くの末寺が本願寺派に転派した為に衰微の一途を辿ります。往時は何百と数えた末寺も現在では30から多くても60余りの寺を抱えるのみとなりました。その中でも五分市の毫摂寺は巨大な伽藍を今日も残しています。本山の法主は「お上」(おかみ)と呼ばれ,夫人は「お裏方」、跡取りは「ご新門」とか「ご門跡」で娘たちは「何々姫」と「姫」をつけて呼ぶのです。平成の世にも拘らず、中世の貴族の生活がそこにはあります。私がまだ幼い頃、本山門主が実家に来られる事があったそうですが、われわれ子供たちは紫の袴を着けてお迎えしたのだそうです。姉から聞きましたが私は覚えておりません。
 
 
 
行運僧都 (sakura)
2010-01-25 15:01:14
大阪に出たついでに府立図書館に寄って「行運僧都」を調べていただきました。この図書館には府内二ヶ所にある府立図書館の蔵書内容の全ての文字を読み取るコンピューターがあるので係員に検索をお願いしましたが「行運僧都」「行運」という文字は見つかりませんでした。「麻生津村誌」の常照寺の関係記事とともに「行運僧都」を、先程福井県立図書館に調査依頼しました。今しばらくお待ちください。
 
 
 
常照寺(1) (sakura)
2010-03-01 16:19:31
長い間お待たせしました。福井県立図書館より本日資料の複写が届きました。 「麻生津村誌」には常照寺関連の記事、行運についての記述はほかにないとのことです。また寺院関係資料、麻生津地区関係の資料を中心に調べていただいきましたが、「行運」の名が出てくる資料は見つからなかったそうです。 国立資料館蔵『足羽郡寺院明細帳』(福井県立図書館では紙焼き資料を所蔵)この寺院明細帳は政府の寺院管理用の台帳だそうです。これに常照寺の由緒などが記載されているとの連絡をいただき複写をお願いしていました。 真宗出雲路派 常照寺 福井県管下越前国足羽郡三十八社村第九号二十二番地字上屋敷 越前國今立郡清水頭村本山毫摂寺末 一 本尊 阿弥陀如来
一 由緒当寺ハ泰澄大師ノ直弟子歯子主ノ開基ニシテ天平年中ノ建立ナリ 始メ深嶺院ト号スノチ住職行運代承元元年丁(丁は小文字)西ノ(ノは小文字)春見真大師直弟平判官康頼ノ嫡男平盛信出家シ淨盛ト号シ即チ当寺ノ後住トナリ改宗シテ常照寺ト号シ

 
 
 
常照寺(2) (sakura)
2010-03-02 15:33:43
正応年中覚如法主 見真大師三代目なり 大師の旧跡を巡回の際当寺に数日在留ありて大師の木像を自刻し加ふるに伝 絵二幅其外霊宝種々淨盛に付与し大に真宗の教示を施し道俗これに帰依し末七十余ヶ寺檀家三千七百余に至る 此に於て一派を興立し西京青蓮院に依て得度す其後朝倉義景より境内七反七畝十六歩の朱印地を寄附し法務弥盛なり 然る処天正年中の國乱に逢ひ兵火の為に堂宇等悉く焼失然れとも仏像及ひ霊宝等は今に存在す 其時に当り檀末悉く所々に転派す依て其際当國吉田郡轟村に移住し一宇を建立す七ヶ年を経 再ひ当郡徳尾村に堂宇を移したり 然る後ち今立郡清水頭村毫摂寺在住善照の依頼により 当寺宝物の内鏡等五種を該寺の依頼たるや専ら自流を弘通せんと欲して也 以来隔年七月二十五日を例規とし該品を調査す 依之毫摂寺に於て当寺昇降往来為に別に不明の門を建築し万端饗応他寺と其例を異にす 今に其典例欠闕することなし天明七年の秋 現今地え堂宇移転
一 堂宇間数 前口七間 奥行七間半  一庫裏間数前口三間 奥行二間 一 鐘楼間数 前口九尺 奥行九尺  一 水小屋間数前口一間 奥行一間 一 境内坪数並地種 四百十六坪 民有地第一種  以上

『足羽郡寺院明細帳』は手書きの上、旧字体で書かれています。お読みいただいて分かりにくいところがあれば遠慮なく仰ってください。(平かな部分は資料では全てカタカナ書きになっています。)
 
 
 
寺院明細帳(1) (taira)
2010-03-04 00:04:06
貴重な情報、有り難く拝読させて頂きました。手書き、旧字体、カナ等大変でしたね。ご苦労様でした。この資料の内容は知らなかった事も多く、とても参考になりました。
1.常照寺は三十八社村に創建されたわけですが、この地名はいかにも神道的な響きがあり気になっていました。三十八社という言葉のいわれを調べてみますと「多くの神が集まるところ」という意味があるのですね。そこで知ったのが白山信仰の祖、泰澄大師の生誕地が三十八社村であり、大師を祀った泰澄寺と常照寺は二丁と離れない近距離にあることで、常照寺の前身深嶺院は白山信仰の一寺院で山岳信仰者や修験僧が集まり、天台宗の密教のような信仰の場であったのではないでしょうか。ともかくこの深嶺院は天平年間に建てられたものということにも肝を潰しました。白山にはかつて三十八社六千坊が谷を埋め、山伏姿の修験者が六千坊の館にいたわけです。一坊に三人ずつとして一万八千。おそろしい数の山岳信仰者が山奥にいたわけです。深嶺院という名そのものが山岳信仰のそれを指しています。続。
 
 
 
常照寺は古い歴史のあるお寺だったのですね! (sakura)
2010-03-04 14:50:21
三十五社村のいわれとか、白山にはかつて三十八社六千坊が谷を埋め、山伏姿の修験者が六千坊の館にいたわけです。一坊に三人ずつとして一万八千。おそろしい数の山岳信仰者が山奥にいたわけです。など知らないことばかりです。
白山を神体山とする白山社は鹿ケ谷事件の発端ともなった社です。後白河の寵臣西光の子息加賀守藤原師高とその弟目代師経が白山中宮鵜川涌泉寺で乱暴を働き、白山社と日吉大社が神輿を担いで朝廷に強訴します。 その時白山の僧兵が担いできた神輿を祀ったといわれる白山神社が京都市役所の近くにあります。
西光法師はこの事件で息子が流罪になったのは平家のせいだと恨んでいました。 また木曽義仲は倶利伽羅・篠原合戦後、白山社に多くの荘園、神馬を奉納しています。 昨年の秋、泰澄が開山したという白山比神社や金劔宮 など白山を仰ぎながら歩いてきました。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2010-03-05 00:08:19
sakura様は平家物語や義経に関しての史跡を訪ねられるのを楽しみにしていられるのですね。私は北海道旭川の生まれですが、子供の頃、「義経台」と呼ばれている小高い丘の桜の名所の地まで遠足で出かけたことが有ります。義経が腰を下ろして休んだという石があるだけの処でした。のちに高木彬光の「成吉思汗の秘密」を読み意外な結末に義経伝説のロマンを感じたものでした。

さて、「寺院明細帳」の考察に移ります。
(そのニ)「ふるさと森山」によれば、康頼の一子康利は一族を率い、かつて父が赴任していた越前国足羽郡に縁者を頼って移住します。そこで康利は一族の不運に無常観を感じたのか、はたまた父の菩提を弔う為か出家を決意して「深嶺院」に入ります。「ふるさと森山」のみではなく、その外の複数の史料にも越前に住んだ康頼の子孫の二代目に康利の名がみられます。深嶺院はおそらく真言や天台の密教の寺院であったと思われます。後年、浄盛が浄土真宗に改宗して常照寺としたとありますから、深嶺院は真宗ではなかったはずです。真言宗や天台宗の僧侶は当時妻帯できませんから、康利には出家以前に子息等がいたことになります。康利が独身の身で僧籍に入ったとすれば康頼の血脈はここで途切れたことになりますね。尤も養子という手段もありますが。
(その三)ノチ住職運行代承元元年丁西云々。此処は良く分かりません。承元元年は1207年でなんの意味があるのでしょうか。丁酉は1297年にあたり、浄盛が四十七歳で常照寺を開いたことも他の資料と合致します。ただ、浄盛こと盛信が康頼の嫡男であるという記述は年代的に無理があります。浄盛は康利の孫か曾孫あたりの人物だと考えるのが妥当だと思います。浄盛の生年は1250年ですから、1200年代初期に死去したと思われる康頼とは3,4代の開きがあるはずですね。ただ、他の部分で極めて真実性の高い常照寺伝でなぜこのあたりが正しく伝えられてこなかったのか極めて不思議であり不審な気がします。常照寺の歴史のなかで不明な箇所が二つ有りますが、そのひとつがこれです。続。
 
 
 
失礼しました (taira)
2010-03-05 00:12:38
前の書き込みをタイトルなしで投稿してしまいました。失礼をお詫びします。「寺院明細帳」(2)のタイトルです。
 
 
 
寺院明細帳 (sakura)
2010-03-05 17:42:32
①「承元元年丁西」について 資料が毛筆書きなので書道三体字典で西と酉のページを開いて資料に書かれている文字と見比べていますが、西は酉とは読めません。(書かれている文字「西」は高さの低い横長の文字です。) 丁は小文字で元年の「年」に寄り添う感じで右よりに書かれ、西は大文字です。ノは右よりの小文字。普通に読むと承元元年丁 西ノ春です。 承元元年(1207)丁(1207年の「7」のことではありませんか?) ②「浄盛と号し即ち当寺の後住となり(少しスペースあり)改宗して常照寺と号し」浄盛の代に常照寺と号したとも、そうでないとも読めます。
 
 
 
寺院明細帳(3) (taira)
2010-03-06 06:06:52
(その三)承元元年(1207)は「承元の法難」と呼ばれて法然や親鸞の流刑が執行された年ではありましたが、後に続く文と係わりがみられません。「丁酉ノ春」とすれば二千年紀にして1297年、即ち永仁四年で浄盛が常照寺を開いた年号と合致しますが。
(その四)浄盛は見真大師(親鸞)の直弟子とありますが、これは確定できません。聖人が九十歳の高齢で遷化された時、浄盛は十二歳です。彼は幼年時代を師のもと京都で過ごしたのでしょうか。他の資料には浄盛の師は善鸞(親鸞の長男)とあります。親鸞のあとに善鸞との師弟関係が生まれたのかも不明です。ただ、西京青蓮院で得度をしたとありますから、前述の親鸞・善鸞と極めて密接な関係にあった事は明らかです。本願寺は親鸞の時代から青蓮院の末寺であり、親鸞自身も含めて本願寺歴代門主が得度を執り行ってきました。その格式高い門跡寺院で浄盛が得度したと伝えるのですから後に青蓮院より大権大僧都の僧官位と上人号を授与されたことも肯けます。尚、この「寺院明細帳」は明治になってから記述されたものであることが、親鸞を見真大師と呼んでいることから分かりました。
 
 
 
情報ありがとうございました (sakura)
2010-04-07 16:15:52
大徳寺の境内勅旨門脇に康頼塔がありますが、この塔について「竹村俊則『京のお地蔵さん』に延慶本『平家物語』には帰洛後、まず紫野に隠棲中の老母のもとを訪ねたが、すでに亡くなったと聞いて慨嘆し、その後はもっぱら念仏聖として余生をすごしたようにしるされている。『宝物集』は三国古今の説話を述べ、仏法が唯一無二の宝であることを説いた鎌倉初期の説話集であるが、極楽往生を勧める啓蒙書として念仏僧によって大いに利用された。中でも紫野の雲林院は多くの念仏僧の集まるところであったから、紫野に康頼の供養塔が像立される原因となったのではなかろうか。」と書かれています。
船岡山の東方一帯にあったと思われる雲林院の寺地が大徳寺に施入されたという経緯や、教えていただいた「双林寺誌」の記事からも康頼塔が大徳寺の境内に安置されていることに納得できました。
 
 
 
木邑さま、sakuraさま (taira)
2010-04-10 06:21:00
木邑様
康頼の母についての情報、とても貴重ですね。有難うございました。

sakura様
恐れ入りますが、もしお差支えなければ下記の二件につき調査ご協力頂けませんでしょうか。
1.資料(寺の過去帳を含めて)常照寺の二世住職は本願寺覚如の子とあります。本願寺系図には子として存覚、従覚の名があるだけです。二代目康正が覚如の子だとすれば、前述の二人の異母兄弟であった可能性があります。長男の存覚は父の乱れた女性関係についてしばしば意見したと記録にあります。もう一方の資料では次男従覚の子・善如(本願寺四世)の弟という記録もみられますが、系図に善如以外の人物の形跡はありません。より詳しい本願寺系図が存在し、この康正が誰であるのか分かる資料がありますでしょうか。因みに彼の院号・僧位、僧官は 「無生々院康正上人権大僧都法印」で応安二年(1369年)二月五日入寂。竜谷大、大谷大図書館になにか手掛かりがあるかもしれません。

2.康頼の母親宛ての遺言状について先に情報を差し上げたことがありますが、この書状は福井市みのり町二丁目37、福井本山専照寺に寺宝として保管されております。私はコピーを見せて頂いたのですが不明な点、殊にに鬼界ヶ島に配流の件を「X殿」から伝えられたとあり、このXが誰であるのか、はっきり文字が読めません。また、この母に宛てた別れの手紙をある人物に託すのですが、XXX院と読解困難です。先代住職が現代文に訳されて実物に添えてあると伺いました。福井県図書館などにそれが明らかになる資料があるものでしょうか。直接専照寺に尋ねることも可能かも知れません(私は数年前トライしてみましたが答えはありませんでした)。お忙しい中、恐縮ですが宜しくお願いいたします。
 
 
 
tairaさま (sakura)
2010-04-12 09:59:35
1・について
大学の図書館は、社会人は利用できないと思います。
大学が主催する公開講座の受講生であれば、特典として図書館への入館を許可している所もありますが、あいにく両大学が主催する講座を受講していません。
2・については昨日、福井県立図書館に調査をお願いしました。
「京都府寺誌稿、双林寺誌」の複写を京都府立資料館にお願いしたときに、双林寺誌には、首をかしげる箇所があると資料係の方に伺いました。古い資料ですから「寺院明細帳」についても同じではないのでしょうか。

 
 
 
反りのない刀 (木邑)
2010-04-12 11:12:34
昭和の初期の娯楽の少なかった時代に、寺院や神社では紋日には市が立ち輪抜けや大きな鏡餅を乗せた三方を持ち上げて運ぶ力持ち(力餅)や餅投げ等の催しが開かれて田舎の子供達の楽しみであった。其の一つに山の苔を集めて人や動物の人形や背景を嗜好を凝らして造るだしと呼ばれた物があった。後の時代には山の苔を集めるのは大変なので、代わりに菊の花で動物や人の人形を造る菊人形へと変わって行ったものと思われます。
そのだしの人形に鎧兜を着せ槍や刀を持たせるのですが、当家に伝わっていた鎧兜や槍や刀や弓矢が使われることが有りました。その他に火縄銃や銃口の八角形の大型の火縄銃や抱え砲まであり世間にその所有は知られる処となり、その一つに反りのない刀があった。
母の話では、和久田と云う殺生人(銃で鳥や獣の狩りをする人)が居て、見せたい人が居るのでちょっと貸してくれと言って持ち出し、お金なら幾らでも払うからと言って刀は帰ってこなかった。余程、価値の解る人に渡ったようであり、大切に所持されているものと思える。人を信じるにも程があり、人が好いのも馬鹿の内と言えるでしょう。
和久田と云う殺生人は大阪方面に行ったといわれ、こちら徳島には娘さんが居たのではないかと云うことです。存命の程はわかりませんが、木邑家のルーツが解るかもしれない、駄目元で誰に見せたものなのか所在の程でも突き止めたいと思い情報を収集中です。
県博物館の話では反りのない刀は古墳時代に遡り、古墳から錆びた刀は出てくることがあるが、錆びていない刀は例がないそうです。
当家は平康頼の家人として元は平らを名乗っていたと云われ、平家に伝わる刀を家人として持って来たものなのか、はたまた源平の戦いでは三種の神器の宝剣は行方不明になっている。
近くの山々にも落人の伝説は多く残っているが、平家の落人が宝剣を持ち出したとしても、落人の里で朽ち果てさせるに忍びず、源氏方に渡す訳にも行かず、落人ではその宝剣の処遇に困ったことであろう。
元は同じ平一族の平頼盛や保盛は既に出家していて遠くに在り、落人ではないが元は同じの平を名乗る者が二人も家人として麻植保に来たことは彼らにも伝わっていた事であろうし、彼らにとっても少しは気の休まる事で有ったであろう。
宝剣の処遇を落人ではない平に託したとも考えられなくもない。
ここまで想像を逞しくすれば、荒唐無稽な話と云われそうだが、勿論、万に一つの話をしている訳である。
田舎のだしで多くの人が目にしている事は確かであり、反りのない刀は一体何であったのであろう。
突き止めたいとの衝動に駆られている。それが可能なのも私の代迄であろう。
何時の時代か、ひよっこりと、謎の古代刀として世に出て来るのかもしれない。
 
 
 
反りのない刀 (sakura)
2010-04-13 14:43:43
堺には仁徳天皇陵をはじめとして、古墳時代のさまざまな古墳が多くあります。堺市博物館で大王墓の展覧会が開催されたことがあり、その時に買ってきた図録を開いてみると、古墳から出土された鉄刀は、確かに反りがなく錆びて所々朽ちています。反りのある刀が登場するのはいつの時代かと、  朝日新聞「歴史を読みなおす」(8)を見てみると 「平安時代中期(10C後~11C前半)頃、反りのある太刀が生まれてくる。文献にもこの頃から太刀と刀のはたらきについて、区別が現われてくる。しかし、この時期の遺品は皆無であり、確実な遺品は平安末期まで下る。」とし  太刀と刀の違いについて「長さが60センチ以上のものを太刀・刀、30センチ未満を小刀・脇差とよび、刀を下にして腰にはく様式を『太刀』、刃を上にして腰に差す様式を『刀』と平安時代以降、使いわけられたようだ。」としています。
お家に代々伝えられていた宝剣が「太刀」か「刀」だったのかわかりませんが、どちらにしても大変古い刀で、貴重な品だったことが「歴史を読みなおす」の記事からも分かります。
 
 
 
平康頼の母 (木邑)
2010-04-27 00:36:16
前のURLは間違いのようです、失礼致しました。出来れば削除願いたいのですが。

tairaさま
美濃局の記述によりますと、母ヲ紫野雲林院ニ托シタリとあることから、平康頼の遺言の宛先は 雲林院入道 となるのではないでしょうか?
また、これを形見につかはし給候へ で、つかわす(遣わす)の意味は 目上の人が目下の者にあたえる
と言う意味のようですので、文章のつながりとしては少し変な気がします、素人判断ではありますが。
遺言が元の順序(2)(1)(3)だとすると、今夜数の(三人の)人々は と言う意味ではないでしょうか? また、皆国々へ遠流のよし で国々となっていることから、最初は皆、別々の異なる島に流されたとする「ふるさと森山」の記述と一致します。皆同じ島に流されたのであれば、国々とは書かれなかったでしょう。遠流のよし つかはし給候へ(遠流になると 伝えてください)の意味になるのではないでしょうか?
 
 
 
平康頼の母 (木邑)
2010-04-28 16:25:31
平成22年4月7日投稿
京都府総合資料館蔵「京都府寺誌稿、双林寺誌」に次の記事がある。
寺伝ニ曰ク、康頼流罪ノトキ、母ヲ紫野雲林院ニ、伯母ヲ双林寺ニ托シタリシガ、帰郷ノ時、母ノ巳ニ死スルヲ聴、慟哭死セント欲ス。人ノ止ムル所ト為リ、僧ト為リシガ、其時伯母ニ贈リシ文、本寺に有セリ。其伯母ハ時ノ双林寺宮綾雲尼ニ任ヘシ尼也ト。綾雲尼公ハ鳥羽天皇ノ皇女ニテ、文治元年本寺ニ於テ得度セラルト云フ。

歌人伝・太皇太后官小侍従(待宵小侍従)
四章 異母姉・美濃局
 
 
 
木邑さま (sakura)
2010-04-28 16:32:18
申し訳ございませんが、コメントの一部削除はできないようです。4月7日に投稿してくださったコメントを全部削除して、あらためて木邑さまの名前で先ほど投稿させていただきました。

 
 
 
tairaさま (sakura)
2010-04-28 16:55:27
おたずねの遺言状に関する件ですが、これまで調べていただいた以外に、平康頼に関する資料はないとの回答を福井県立図書館からいただきました。ご了承くださいますようお願いします。

 
 
 
平康頼の母 (木邑)
2010-04-28 18:49:02
tairaさま
雲林院の呼び名は 紫野院→雲林亭→雲林院 へと変わって行ったようです。
鹿ケ谷事件の頃に何と呼ばれていたのかは解りません。
康頼の遺言のあて先は 紫野院入道 又は 雲林院入道 ではなかったでしょうか?
 
 
 
菊のご紋の付いたお地蔵さま (木邑)
2010-04-28 19:53:22
保司庁のあった場所の近くに、一つのお地蔵さまがあった。堂が無かった時期もあったようで、相当に風化がはげしく、お顔がとけてしまっている。
戦時中に堂を修理したときに、何故か、紋が裏返しに取り付けられていたので、紋を表に直して取り付けた。
後で警察の目にとまり、こんなお地蔵さまに菊のご紋を付けるとは不敬罪だとして、表に直した人は警察に引っ張られたと云うことである。
平康頼は前山に補陀洛寺を建て、子院十二坊を建て後白河院をはじめ親交のあった人を弔っていたと云うことであるが、お地蔵様であるので、安徳帝か誰かを身近で弔っていたのかもしれない。
菊のご紋が付けられていたのは何かの由緒があったのであろうが、記録はない。

 
 
 
sakura様 (taira)
2010-04-28 23:17:28
色々とお手数を煩わし申し訳御座いませんでした。
 
 
 
康頼の遺言状 (木邑様)
2010-04-28 23:28:26
康頼の遺言状の内容について専照寺の寺務所にお問い合わせを試みたら如何でしょうか。返事が頂けるかも知れません。
 
 
 
康頼の遺言状 (taira)
2010-04-28 23:32:31
木邑様、前回の投稿人名欄に迂闊にも自分の名をいれてしまいましたのでお詫びいたします。
 
 
 
遺言状の解釈(1) (taira)
2010-04-29 06:57:51
「XX院入道」部分のXXが木邑様ご指摘のニ通りの人名に読めるものか難しいところです。ご指摘の文字より字画が多いようにも見えますが。小生が入手したのは遺言状の写真であり、アップしても文字の輪郭がはっきり見えない極めて劣性なコピーです。(2)(1)(3)という読み方の順序は勿論当書状に記されているのではなく、康頼著「宝物集」研究の権威であられる山田昭全教授が同僚の方と極度に崩された草書体文字を読解し、読み方の順番をこうであろうと小生に示されたものです。今夜数の人々ーの箇所の「数」の部分は不透明で教授は読みに自信が無いと申されています。ただこの部分は、今夜捕われた者たちはそれぞれ異なる国へ流されるようだと言っており、俊寛、成経、康頼ら三人は薩摩潟に配流されるらしいと書いてあり、木邑様の謂わんとされることが些か分かりかねます。(3)の部分は(1)の続きではなく、矢張り(2)につながるものだと思います。
 
 
 
木邑家の家紋 (taira)
2010-04-30 01:00:13
お地蔵様のご紋でふと思ったのですが、木邑様のお宅の家紋は何ですか、お差し支えなければお教え下さい。我が家のそれと関連があるかもしれません。
 
 
 
菊のご紋の付けられていたお地蔵さま (木邑)
2010-04-30 01:25:22
菊のご紋はその事件の時に警察に没収されてしまったようで、今は付いていない。その様な事件が有った事を知る者も少なくなり、菊のご紋の付いていたことも忘れ去られ、ただのお地蔵さまになってしまうのであろう。台座か何処かに手がかりがあるのかも知れないが、今は調べられない。
 
 
 
康頼の妻子 (taira)
2010-05-01 00:36:40
「中野物語」より抜粋
 如道は平判官康頼の子と申伝候江戸も、治承元年流罪被致、妻子一条紫野の辺蟄居化候間、康頼子共越前玉世ノ橋守りに罷けり、其の子也とも承候

「中野物語」は越前中野にあった三門徒派本山専照寺を離れて本願寺派へ転派した寺の僧が書いたもので、17世紀ごろのもの、全般に如道を誹謗した内容になっているが、康頼の妻子が紫野に住んでいたように記されているのは興味深い。
 
 
 
菊の御紋を没収されたお地蔵様 (木邑)
2010-05-08 16:43:27
皇室の菊の御紋の起源は、後鳥羽上皇がことのほか菊花を好み制作させた太刀などに自らの印として愛用されたのが始まりとされる。
平康頼が麻植保の保司として下向するに際し、後鳥羽上皇に誰か他の者を代わりに行かせて都に留まるようにと引き留められたと云うことであるが、
当時としては都から遠く離れた土佐や阿波などは遠流の地として考えられていた処であり、康頼など都人には鬼界島に比べれば好い所であろうが余程の
決心があって麻植保に下向したものと思える。また、家人の平にしても、我が世と思っていた都は、最早源氏の世となってしまい、都に留まるよりは
新天地を求めて康頼の家人として共に下向したものであろう。
さらに後には、承久の変で父の後鳥羽上皇を隠岐に弟の順徳上皇を佐渡に遠流になったことから、土御門上皇は自ら土佐に遠流になり、後に、少しでも
都に近い処へと云う事で阿波市の御所と云う処に移された、阿波市は吉野川を隔てた麻植保の対北岸にななります。
寺社で使用されていた菊紋は明治の太政官布告で禁止されていたようであるが、菊の御紋の起源に係わるものであるかもしれないし、由緒があって元々から付いていたものであるので返されてよいものであろう。警察は大事に保管しているものか、そうでなければ自らを不敬罪として問う必要になり、早く返されなければ天罰は必定であろう。お地蔵様は何も気にも留めていない様子であるが、何処か寂しげなお顔をされている。早くお返ししてあげて、




 
 
 
家紋 (taira)
2010-05-12 05:10:49
お地蔵さまの菊の御紋、一体どのような由来があるのでしょうね。興味が尽きません。
さて、我が家の紋は「五七桐」で寺紋は西本願字系の「下り藤」です。ご存知のようにパスポートの紋章に使われている五七桐は菊紋の替紋です。皇室に対して功績があった者に対して天皇が桐紋を下賜されることは度々あったといいますね。承久の乱の際、後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕の志士たちに賜ったといいますから、どうなのでしょうか、ひょっとすると康頼の嫡男清基に皇室から下賜されたものかも・・・しかしこれは何の根拠もありません。
 
 
 
木邑家及び田室家の家紋 (木邑)
2010-05-13 18:35:14
五七の桐は皇室の副紋として織田信長や豊臣秀吉など多くの人に下賜され、日本の総理大臣の紋章でもあり、鳳凰が桐の木に止まり鳴き竹の実を食べる、と言う大変にお目出度い木だそうです。

鴨島町の木村家及び田村家の多くは丸に抱き茗荷の家紋を用いております、ずいぶん変な家紋と思われるかもしれませんが、茗荷を冥加の字に当てたものだと言われております。冥加は冥加金などの言葉があるように神仏のご加護を願うものです。
家人の鶴田氏は保司庁の近くに居住し主に文官としての職責を果たしたのではないかと思います。一方、家人の平の二家は保司庁から少し離れた所にあり、屋敷の近くには矢竹が植えられるなど主に武官としての職責を果たしていたのではないかと思います。麻植保に下向して早々に地頭の野三刑部丞成綱と下地中分の問題が起こるなど、麻植保を守り職責を果たして行くのは大変だったと思われ十分な武力を持っていなかったので、保を守るのは正に神頼み仏頼みではなかったでしょうか?尚、家紋の少数派として丸に違鷹羽や五三の桐を用いている家もあります。五三の桐は広く一般に使用を認められていたようです。
 
 
 
土御門上皇の御所 (木邑)
2010-07-06 21:52:47
この日曜日に自治会の旅行で御所温泉に行ってきました。吉野川に懸かる中央橋を渡ってマイクロバスで二十分位の所です。私も小泉元首相と同年配でそろそろ老人の仲間入りの樣です。
御所と名の付くように、ここは土御門上皇の御所のあった所です。
後鳥羽上皇は穏和な性格の土御門天皇が幕府との関係上心許ないと見て退位をを迫り、異母弟の順徳天皇に譲位した。土御門天皇は争いを好まず、承久の変には積極的には加わらず、お咎めなしとの事であったが、後鳥羽上皇と順徳上皇の父や兄弟が流刑される中で、一人都にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐に流された。後に幕府により、少しでも都に近い方へ、という配慮で阿波へ移され、没するまですごす事になる。幕府も後鳥羽上皇や順徳上皇とは、まったく扱いを変え、守護に対して現地に御所を造営させるなどの流人とは思えない待遇で接しています。
 鎌倉幕府で頼朝が亡くなり、頼家も暗殺され、三代将軍実朝の外戚・執権として、北条氏の幕府と化していた。幕府と緊張関係になりつつあった後鳥羽上皇は、穏やかな性格の土御門天皇を「ぬるい!」として、自分と同じく気性の激しい三番目の息子の守成親王に皇位を譲るよう土御門天皇に迫り、弟に皇位を譲り順徳天皇が即位する。
父・後鳥羽上皇が「ぬるい!」と言った土御門天皇の性格は「冷静」という表現が適切かもしれない。土御門天皇は、父に「今は、その時期ではありません!」と、いさめています。結果論ですが土御門天皇が一番冷静に状況を把握していたのかもしれません。しかし、当然ながら、後鳥羽上皇は土御門天皇の意見など一蹴して、幕府に反旗をひるがえし、見事、大敗を喫してしまいます。
土御門上皇には十男九女の子供に恵まれている。八十七代・四条天皇がわずか十二歳で亡くなり、その後継者に乱に加わった順徳天皇の系統を据える事をヨシとしなかった幕府の意向によって、乱とは関係のなかった土御門天皇の皇子に白羽の矢が立ち、後嵯峨天皇の即位となり、この後、ず~っと後嵯峨天皇の血筋が天皇を引き継ぐことになる。
ちなみに、日蓮宗の開祖・日蓮が、この土御門天皇のご落胤という話もあるが、日蓮本人は「名もなき漁民の子」と言って、その名を明かしてはいないので、定かではない。
温泉から歩いて行ける所に遺跡があるのであればと聞いてみたが、4㎞あるとのことで、日を改めて行ってみようと思っています。
 
 
 
土御門上皇 (sakura)
2010-07-08 14:49:56
承久の変で、平康頼の嫡男清基が佐々木経高・高重父子に従い後鳥羽上皇方として参陣したとして、領地を没収され一族は没落していったのでしたね。頼朝が亡くなった後、北条一族によって鎌倉家だけでなく多くの有力御家人が抹殺されています。その後の承久の変での幕府との対決は後鳥羽上皇自身の悲願でもあったのですが、味方の武力を過信した上、兵は思うように集まらず大負けしてしまいます。土御門上皇は承久の変の犠牲者でしょうね。土御門上皇の御所近くの温泉に行かれたそうですが、団体からはずれて御所趾まで歩かれるのは、ご無理だったようですね。土御門天皇が阿波で火葬の後、安置された土御門天皇金原陵が妹の嫁ぎ先(長岡京市)のすぐ近くにあります。御陵は山手の新興住宅地のはずれにありますが、天皇陵とは名ばかりの小さな御陵です。
 
 
 
再・反りのない刀 (木邑)
2010-10-29 15:11:15
反りのない刀
先日、10月26日の朝日新聞に、消えた宝刀 大仏の足元に と言う見出しで、奈良・東大寺の大仏の足元から明治期に出土し「東大寺金堂鎮壇具」として国宝に指定された金銀荘大刀2振りが、約1250年にわたって行方が分からなかった正倉院宝物の大刀「陽宝剣」「陰宝剣」だったことが、元興寺文化財研究所(奈良市)の調査でわかり、研究所と東大寺が25日、発表した。また、28日の 天声人語 でも詳しく述べられている

写真で見る大刀2振りは土中に埋められていたためどちらも錆びてしまっているが、どちらも立派な刀であったであろう事は想像出来る。また、この時代の刀には反りのない事が確認出来る。
木邑家にも反りのない刀が伝わっていたがこれらの刀と同様のものであったのであろう。行方を追跡したいと思っているが進展はしておりません。益々思いは募ります。

刀に関する別の話題として、明治の時代に武士は丁髷を落とし刀を差すのを止め洋服を着て皮靴を履くようになり、いわゆる文明開化の鹿鳴館時代に腰には剣を下げていたようです。木邑家にも綺麗な飾りのある剣があり、刃が止められていたので子供で在った私にも触らせてくれ遊んだのを覚えています。
また、古い写真が出てきた、天皇(?)の子供の頃の写真であった。この事を森山村役場に届けると、天皇家には無い写真であったので天皇家から貰い受けに来たという話である。この時代には簡単には写真や複写は出来なかったであろうから、ある程度の親交を得ていたのか、もしかしたら坂本竜馬などとも顔見知りでは無かったのかなどと勝手な想像をする。
 
 
 
私も気になっていたニュースです (saura)
2010-10-30 12:19:41
新聞記事を読み、以前お聞きしたそりのない刀を思い出していました。この刀は光明皇后が聖武天皇の49日法要に合わせて献納された刀だったそうですね。反りのない刀、直刀は上代に大陸から伝えられ、古墳時代の図録を開くと大和だけでなく香川県・群馬県・千葉県等々の古墳から出土した刀は全て直刀です。直刀は日本独自の発展を遂げて馬上での片手打ちのために平安時代中期頃から反りのある刀が生まれてきたようです。現在、私達が美術品として鑑賞する日本刀は反りのある刀です。
回転ドアを発明されて特許をお取りになっているのですね。ビックリしました。充分賢い人ですよ。

 
 
 
木邑姓の出所 (木邑)
2011-01-28 15:52:13
木邑姓の出所
木邑家の始祖は平康頼の伴った三人の家人の一人で同じ平姓を称していたと言われるが、康頼の二代目清基が承久の変で上皇方へ参加したとして、幕府から保司を解任され、三代目で絶家した。平家に対する世間の目は一層つめたく、森藤村にも居づらくなって来た。一族をまとめて森藤を引き払い、越前国足羽郡の縁者を頼って彼の地へ移って行った。
 世間の風は家人達にも冷たくなり、最早や平を名乗るのさえ気が引ける時世であった。木邑家の始祖の家人の平も改姓する事にした。平姓を捨てる事への無念さと意地があったようだ。平姓に引けを取らない、いや、平姓よりも良い姓をと考えたのであろう。木邑姓の木邑の出所を探していたのだが日本書紀から採用した様だ。
日本書紀巻第三の一に「初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。」

日本書紀から抜粋
初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki7.htm
(岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。)より抜粋
今度は、孔舎衞坂より生駒山を越えるルートを選択する。生駒山の西側の饒速日の所縁の地を押さえており、一気に饒速日山を攻略し、鳥見に迫ろうとしたのであろう。長髓彦は、知り尽くした地形であり、山を越え、孔舎衞坂において、手当り次第集めた兵を幾重にもずらりと並べ、上から順次、一斉に矢を射かけさせた。これが、五瀬命の肱と脛に当る。最初の戦闘は皇師側としては、手も足も出ぬものとなった。神霊のもつすぐれた力が、はげしい勢いであらわれる五瀬命が傷を負うたことは、守護神同志の戦いでもある世界では不吉な前兆でもあった。
天皇(すめらみこと)、之を憂へ、乃ち策を冲衿に於て運めて曰はく。「今、我、是れ日の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也。若じ。退き還へり弱を示す。祇を禮び祭ひて、背に日之威を負ひ、影の隨に壓ひ躡みなむ。此の如く、則ち曾て刃に血らずして、虜必らずや自から敗れなむ。」僉曰す。「然り。」是に於て、軍中に令して曰まふ。「且は停まれ。須(すべから)ず復たな進きそ。」乃ち軍を引きて還へる。虜亦敢へて逼めず。却りて草香之津に至り、盾を植てて雄誥を爲さむ。【雄誥 此云烏多鶏縻】因りて改めて其の津を號けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛れる也。初め孔舎衞之戰に、人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がるるを得、仍りて其の樹を指して曰はく。「恩、母の如し。」 時人、因りて其の地を號けて、母木邑(おものきのむら)と曰ふ。今、飫悶廼奇と云ふは訛れる也。
 
 
 
神武東征伝説からでしたか。 (sakura)
2011-01-29 15:51:48
木邑姓の「邑」がめずらしく何かいわれがおありになるのだと思っていました。
河内平野は二千年くらい前、今と違い地形は生駒山麓にまで及ぶ河内潟湖と呼ばれる入り江であり、湖水が大阪湾に流れ入る湖口でした。湖水をスムーズに流れ出すために「難波堀江」が開削され、神武天皇の船は「難波堀江」を抜けて河内潟湖に入り、東に進み生駒山麓に至ります。ここで一気に険しい生駒山を越えようとしますが、あたりを支配していた長髄彦が率いる地元軍と戦いになり、神武天皇の兄が矢にあたるなど撃退されてしまいます。東征軍は再び河内潟に戻り大阪湾をまわって熊野に上陸、大和を目指して進軍することになります。
そこで「母木邑」という地名はどの辺りを指すのかと、近鉄奈良線石切駅周辺のハイキングマップを広げてみますと、石切駅周辺に日下町という町名があります。ここが日下江(草香江)であり、蓼津ともいう船着場があったといわれています。また石切駅と生駒駅の間には旧生駒トンネルがありますが、その辺にはかって近鉄奈良線の駅があり、マップには「孔舎衛坂(くさかえざか)駅跡」と記されています。長髄彦と戦った孔舎衛坂が近くにあったため名づけられた駅名で、あたりには「母木邑」の由来となった大樹が茂っていたのでしょうか?
 
 
 
木邑本家母屋の棟札の不思議 (木邑)
2011-04-23 19:56:07
木邑本家母屋の棟札の不思議
木邑家母屋は草や葺き平屋の家であったが、現在は廃家となっている。台風で天辺の伏せ瓦が飛ばされ、棟札だけでも取って置きたかったのだが見つからなかった。台風で棟木から抜け落ち下に落ちていたのを気が付くのが少し遅かった。風雨に打たれて読み難くなっていたので、県の博物館で紫外線読み取り装置で読んで貰った。棟札は二枚重ねて取り付けられていた。
一枚目の棟札の表面には
 基業鞏固 火盗潜消
奉造營家厨一宇 天保三壬辰天仲春十七鳥 上浦村 大工伊三郎
 家門繁榮 福壽延長
  (裏面には) 四代目 茂兵衛伜  勘兵衛代
天保3年=1832年
二枚目の棟札の表面 (判読できず)
  (裏面には)    享保十乙巳歳
  上棟 能伏灾風火普門照世間 慈眼視衆生 是故應頂禮
十一月吉祥日 福聚海無量
享保10年=1725年

この天保に建てた棟札によると建てたのは五代目勘兵衛と云う事になり、八百年続くと云われる木邑家の本家としては計算が合わない。木邑本家の屋敷は平康頼の勧請した熊野権現の脇にあり木邑本家の屋敷では在った様だ。周りは木村と田村ばかりだが、本家よりも古い木村家があるのに、何故当家が本家なのか?
其の辺りの謎を解く鍵は羽柴秀吉の四国攻めに在るのではないか?
ただ武力によるだけの四国攻めではなく、懐柔出来る者は懐柔した。木邑を名乗っていたが平である事には変わりなく、朝廷に拝謁するには平でなければ出来ない。羽柴秀吉は木邑家を味方に付けて置きたかったのではないか?
木邑姓の木邑の出所を探していて思いがけないものに出会った。
それは天保8年(1837)2月19日早朝に起こった大塩の乱である。
大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。
 この大塩平八郎の乱の首謀者の一人に木村司馬之助が居た。
『東成郡誌』につぎのような記述がある。
 彼は本町木村権右衛門の分家にして、天保の頃は猪飼野の庄屋を勤め、大塩宅に往来せり。或時一室に呼ばれ、連判状に血判を迫られ、且本家を誘うべき命を受けて之を通ぜしが、本家は事の大なるを以て、逡巡決せず、交渉中騒動勃発し、遂に軍資金として分家は百両を出金し、司馬之助之に赴き、本家は加入を拒否せる代償として五百両を出せり。乱平ぎて後司馬之輔は己罪を負ひ本家を免れしめて捕へられ牢死す。死体は大塩の名前のとおり塩漬にされ、大塩氏の罪定まるや塩漬の死体は市中引廻しの上磔せられたり。

天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3)
(註3) 後述のように、これら無縁墓碑が悉く失われた現在、再び実物を見ることができないので、後考のため、この墓碑の正面の文字を一応書き留めておく。

なんでも、大坂夏の陣で討死をした「木村長門守重成」の姉婿である
「猪飼野左馬助(さまのすけ)」の子孫と伝えられ、
「生駒の山すそまで他人の土地を踏まずに歩いて行ける」という伝説があったとか。

御幸森(みゆきのもり)天神宮 (猪飼野村の氏神。古名、天王天神社または御幸宮(ごこうのみや)、天神宮)
 境内の東の端に遥拝所があり、石組みの基壇の上に大きな自然石(伝・仁徳天皇腰掛石)が据えられている。その基壇の側面に、大正三年九月にこれを奉納した〃宮座中(みやざじゅう)〃の二十一人の氏名が刻まれており、木村姓が十七軒、島田・沢田・村川・高野姓が各一軒となっている。宮座の組織は悪くいえば極めて因襲的なもので、村の草分けの旧家のみによって構成され、それ以外の村人の加入を許さなかった。
 木村権右衛門家は一時期庄屋まで勤めているにもかかわらず、これで見る限り宮座の一員には入っていない。
 当家は家伝によれば、木村重成の姉婿・猪飼左馬之助の息、木村権右衛門重則(幼名・左馬次郎)を家祖としている。また私は以前、土地の古老から「権右衛門さんの先祖は他所から来た人や」という話を聞いた記憶があり、この家が宮座の一員でないのは、その辺に理由がありそうな気がする。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/ajiro1.htm
同じ木邑姓を名乗る者が居てしかも十八代だと云う、本家の四代とは比べものにならない。この事が意味するものは元本家は本家を誰かに譲って他所に行ったという事であろうか。元本家の家を継いだのが当家であろうか、木邑本家としては認められており、木邑家発祥の地ではあったようだ。
当家の歴史を解き明かそうとするが、益々深みに入って行くばかりだ。

本題を外れているとは思いますが、御助勢お願いします。
 
 
 
木村権右衛門の木村家 (sakura)
2011-05-01 14:37:19
お返事が遅くなりすみませんでした。

木邑さまは木村権右衛門の木村家の出自がお知りになりたいのでしょうか?
 
 
 
元々の木邑本家とは (木邑)
2011-05-03 01:27:54
元々の木邑本家とは
熊野権現や慈眼山玉林寺のある山路寺谷は昔は多くの家が建て込んでいたと云う。
元々の木村本家や多くの木村が何処かへ行った様で、元々の木村本家が持っていたであろう峠に至る迄の山や広い田畑を当家が引き継いでいた様だ。また残された多くの古墓もまつっていた。元々の木村本家が行っていたであろう熊野権現への献上米は当家の田でしめ縄を張り巡らせて戦前まで作られていた。
文化年中に先代古墓が改墓され平康頼の勧請した熊野権現の傍らに木村(木邑)大明神として祀られた。文化年中には本家を名乗る者は居なかった様で、話し合いで当家が木邑本家になったと云う。
長宗我部による四国征服、羽柴秀吉の四国攻め、元々の木邑本家はどう生き抜いたのか、木邑家の血涙史、人間万事塞翁が馬、知らない方が良いのかも知れないが、何が在ったのか事実を知っておきたいと思います。
木邑権右衛門さんとは同じ木邑を名乗り符合する所が多いので、出来れば出自を知りたいと思います。
 
 
 
木村権右衛門家 (sakura)
2011-05-04 10:17:23
木村権右衛門家は大阪夏の陣で討死した木村重成の姉婿猪飼野左馬助の子孫と伝えられる。木村重成の姉お照が猪飼野左馬助に嫁いで生んだ子が木村重則(初代木村権右衛門)である。
木村権右衛門の家祖について、木村重成の子孫が作家の沢田ふじ子さんに送った文書(木村重成が姉に送った文書)があり、「読売新聞」平成6年7月24日掲載の同氏の随筆の内容から荒木傳氏は木村権右衛門の初代の父猪飼野左馬之助は地侍であったであろう。と想定されています。『大塩研究 第44号 耕文社』また荒木氏は木村権右衛門第二十一代木村商事社長(芦屋在住)に連絡を取り「木村権右衛門に関する資料を見せてほしい」と過去三回お願いしたが断られたと述べられています。
木村権右衛門(重則)の母方の血筋をたどると木村重成は木村常陸介の子と(紀伊の地侍出身とも)いわれ、幼少より豊臣秀頼に仕え長門守と称し、対徳川強硬派の一人であったといわれ、大坂冬の陣では奮戦したが、夏の陣で井伊直孝と若江(東大阪市)で戦って戦死した。木村常陸介は近江佐々木源氏の出身、豊臣秀吉に仕えて活躍、山城淀城を与えられるが、関白秀次事件に連座し大門寺(茨木市)で自害。
明治43年、「大阪毎日新聞」が当時大阪の富豪であった木村権右衛門と鴻池善右衛門を取り上げた連載が『大塩研究 第60号 耕文社』に掲載されています。
連載されたのは十七代木村権右衛門の全盛期で木村銀行を経営し貴族院議員互選、多額納税者の一人となり、生駒の山裾まで他人の土地を踏まずに歩いていけるとの伝説があった頃です。木村権右衛門家が一時期庄屋まで勤めているにもかかわらず、宮座の一員に入れなかった理由と思われる記事があります。
大阪きっての豪農木村権右衛門の家系から大塩平八郎の門下生である本家の木村熊次郎、分家の木村司馬之助をだしたことについて
5月6日付「司馬之助を出し熊次郎を出せる猪飼野木村の一族は、勢の自然として郷党に対してひがみを生じ、郷党もまた法律に触れて牢死の人を出せる家として、目を側めて之を見、共同社会の中に加ふるを忌むの情ありしや察するに難からず。」「権右衛門の家は庄屋名主を務むる身分にありながら郷党に敬遠せられたり。これ富みながら歓待せられず、家郷にありながら世間の温かき交誼を得ざりしもの、普通の人情として誰か郷党に反感を抱かざるべき。人心の鬼は、多く斯様の場合に胎る。」と書かれています。
5月10日付の記事には十六代が婿養子であったことが記されています。「十五代権右衛門となり、此に男子無かりし為女の婿養子となったのが十七代権右衛門の父である。」

 
 
 
三十町歩と不断念仏 (木邑)
2011-06-09 15:26:29
たくさんお調べ頂いているのでお礼を言わなければなりませんが、云い伝えには伝えたいと云う気持ちが働かなければ伝わって行かないものもあるようです。平康頼に付いても伝えたくない事も多いようです。三代目俊職の件も多くは伝わって居りません。「ふるさと森山」では毒矢とまでは書かれておりません。「ウィキペディア」平康頼でどこかで記事を見たので書いてしまったが気になっていた。吾妻鏡に四日にも亘って書かれており、かなり大きな事件であったようです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
吾妻鏡
1258年 (正嘉2年 戊午)
8月16日 壬辰 雨降る
 将軍家鶴岡宮寺に御参り。馬場の流鏑馬以下の儀例の如し。事終わり還御す。相州禅室御桟敷より還らしめ給うの後、秉燭の期に及び、伊具四郎入道山内の宅に帰るの処、建長寺前に於いて射殺されをはんぬ。蓑笠を着け騎馬せしむの人、下部一人を相具し、伊具の左方を馳せ過ぐ。田舎より鎌倉に参るの人かの由、伊具の所従等これを存ず。落馬の後矢に中たるの旨を知ると。毒をその鏃に塗ると。
8月17日 癸巳 天晴
 伊具殺害の嫌疑に依って、諏方刑部左衛門入道を虜え、対馬の前司氏信に召し預けらるる所なり。また平内左衛門の尉俊職(平判官康頼入道の孫)・牧左衛門入道等の同意露顕せしむと。これ昨日件の両人の人数諏方に会合し、終日数盃を傾け閑談を凝らす。而るに諏方伊具帰宅の期を伺い知り、白地に当座を起ち路次に馳せ出る。射殺するの後、また元の如く酒宴に及ぶと。今日相尋ねらるるの処、昨日の会衆を差し、證人として子細を論じ申すに依って、また両人に問わる。各々一旦承伏すと。この殺害の事、人の推察覃ぶべからざるの処、諏方の旧領を以て伊具に付けらるるの間、確執未だ止まざるか。その上箭束と云い射様と云い、すでに掲焉たり。頗る普通の所為に越ゆ。これに依って嫌疑の御沙汰出来すと。
8月18日 甲午 天晴
 諏方刑部左衛門入道これを召し置かれ、推問を加えらるると雖も敢えて承伏せず。仍って所従の男(高太郎と号す)を召し取り、糺問の法に任せらるるの処、気を屈し詞を出すに能わず。結句相論す。主人云く、すでに白状するに就いて事泄れしむ。爭か論じ申すべきやの由申す。奉行人問答を尽くすと雖も、彼の男云く、主人は兼ねて糺問の恥辱に預かり、仍って申すか。下人の身に於いては、更にその恥を痛まず。実正に任せ論じ申す所なり。且つは主人白状の上は、重ねて御問に及ばざるかと。

9月2日 戊申 終日終夜雨降る。暴風烈し
 今日諏方刑部左衛門入道梟罪を被る所なり。これ主従共に以て遂に分明の白状を進せ ず。爰に相州禅室賢慮を廻らされ、無人の時を以て、潛かに諏方一人を御所に召し入 れ、直に仰せらる。今日殺害せらるる事歎き思し食さるるの上、所従高太郎承伏勿論 の間、斬刑を遁れ難きの旨評議しをはんぬ。然れども忽ち以てその身命を終うべきの條、殊に以て不便なり。実正に任せこれを申すべし。その詞に就いて斟酌を加え、これを相扶けんと欲すと。時に諏方且つは喜び涙を抑え、宿意を果たすの由これを申す。禅室の御仁恵夏禹罪に泣くの志に相同ずと雖も、所犯すでに究まるの間、これを行われざれば天下の非違を禁しめ難きに依って、糺断せしめ給うと。また平内左衛門の尉・牧左衛門入道等流刑す。就中俊職、公人としてこの巨悪に與するの條、殊に物儀に背くの間、硫黄島に配流せらると。治承の比は、祖父康頼この島に流す。正嘉の今、また孫子俊職同所に配す。寔にこれ一葉の所感と謂うべきか。

ちなみに、「ウィキペディア」平康頼は阿波の木村氏に付いて書こうと始めたものですが、木村氏に付いて書くには平康頼から始めねばならず書いたのですが、木村氏の部分は全部削られ、平康頼の部分だけが残されたものです。
「ふるさと森山」では家人の木村となっていますが、木村大明神の碑文では行動を共にしたと書かれています。家人が家来を意味するのであれば、木村大明神の碑文の方が正しいのではないでしょうか。野間大坊の件も国司平保盛が康頼の墓を修理したいとの考えに賛成して敵将源義朝が戦で死んだのではなく、相伝の家人父子による湯殿での完全なだまし討ちにより死んだのでありその無念さに敵味方の垣根を越えた同じ人間としての同情として、それなら三十町歩も寄進して不断念仏でも唱えさせ丁重に弔ってあげるようにと承諾したものでしょう。三十町歩と不断念仏は保盛の考えであり康頼はそこまでは考えていなかったのではないでしょうか。そうであるなら源頼朝は保盛と康頼の二人の恩に対して報いた筈です。保盛は出家したので伴った二人の平は保盛の縁のものではなかったのでしょうか。野間に関わりのない平を伴う筈はないでしょう。表には平康頼一人だけの名前しか出ていませんが麻植保は三人の平による共同作業であったのではないでしょうか。そうであるなら「ウィキペディア」平康頼で伴った二人の平を消してしまったのは誤りで、木村大明神の碑文の記述の「行動を共にした」が正しいと云える。訂正したいが保護が掛けられ出来なくなっている。
 
 
 
一つの墓 (木邑)
2011-06-13 14:56:59
当家は墓分限者と云われ四カ所に分かれて墓地がある
そこに、一つの墓がある、誰の墓だかわからない。
位牌には
無住持聖人座位
六親□□為菩提造立此塔
二文字□だけは活字が見当たらない。
 眷、イヤ違う 養、の字の良を目に代えた様な字
 屬、イヤ違う 下の虫の字がなく 勺の字になる
 何と読むのか解らないが、六親が居無いので菩提を造立した、の意味と取れる。
六親とは? 自分に最も近い六種の親族。父・母・兄・弟・妻・子。または、父・子・兄・ 弟・夫・婦。六戚。りくしん。
四柱推命でいう六親とは、親、兄弟姉妹、祖父母、子女等を言うそうです。

平康頼さんを見習ったようだ。
わが先祖ながら、なかなかできることではない。
当家は藍荘をしていた時期もあり、仕事で縁があった人かもしれない。
何物にも換えて、当家を守ってくれるだろう、そう信じて大切に祭って行きたい。

子供の頃、前山には松の木が茂り熊野神社のすぐ上から松茸が生えていた。朝、小学校に行く前に山を一巡りすれば弁当のおかずは出来た。今は松枯で松の木は枯れ見掛けるのも難しい。山には山麓線の道路が走り、一時期パイロット事業で開墾されて八朔みかんが栽培されスプリンクラーなどの設備が整っていたが、木が大きくなり沢山実がなり出した頃に全ての木は切り倒された。熊野神社の脇の権現谷には砂防ダムが築かれ谷はコンクリートで固められた。子供の頃は谷でエビや蟹を捕り夏には蛍が飛び交った。岩をU字形に切り開き冷たい水の流れ落ちる「どんど」と呼ばれる場所があり泳いだりした。水がどんどんと流れ出る所から付いた呼び名であろう。神主が祝詞をあげていた事があり、熊野神社に詣る前に身を清めていた場所で在ろう。これらの全ては今は無く、谷は大雨の時に水が流れるだけとなっている。熊野神社への献上米を作っていた田は荒れ地となり元の山に還り、笹が生い茂りクズの蔓に巻かれ得るものは何も無い。失ったものの大きさに気付かされる。ただ近所から苦情が出ない様に越境不法侵入してくる竹藪や笹との格闘にくれている。おかげで何よりの宝である体の健康を頂いている。
前に、何の裏付け資料もない私論を述べてしまいました。
 
 
 
木邑家の歴史 (八代目木邑茂兵衛)
2019-09-18 13:09:59
 我が家は阿波の古くからの百姓の家であるが刀や槍や鎧や火縄銃や抱え筒など武具なら何でも揃っていた、戦後までそりのない刀まであった。家は平康頼の勧請した熊野神社の一段下がった所にある。子供の頃に母に尋ねた、我が家は今は百姓をしているが元は武士であったのかと。武士なんかではない平である、この屋敷は平の屋敷であると。しかしそれ以上のことは先祖から何も伝えられず何も解からなかった。我が家の調度品の箱や掛け軸や蔵書には木邑氏所蔵と書かれていた。我が家は木村を名乗っているが木邑が本当の苗字だろう。木村を名乗る様になったのは幕末の頃からであるが、なぜ他人の苗字の木村を詐称する様になったのかとの疑問を持っていた。先祖が伏せているものをほじくり返してもあまり良いことは出てこないのかもしれないが識りたいとの思いはあった。手掛かりになる様な物は残しておいてくれた、それをどうするかは後世の判断に託されたものだろう。
 平安時代の末期保元・平治の乱があり平氏が勝利した、対抗出来ろ者は居なくなり平氏は驕り高ぶっていた、驕れる者は久しからずと言われていたが、時忠の失言の祟りだろうか、案の定木邑家の歴史は散々の歴史であった、されど北面の武士我が木邑家の歴史である。
 源平の戦いで平頼盛は平家一門として共に戦うが宗盛の一門都落ちには同行せずに都に留まった。頼盛の予感どうり踏ん張りのきかない宗盛の平家は壇ノ浦の藻屑と消え去った。
平が阿波の地に来たのは源平の戦いに勝利した源頼朝が平康頼を阿波国天領麻植保の保司に任じた、同じ平を名乗る二人の者が行動を共にした。かって平治の乱では頼朝の父義朝は敗れ頼朝(十三歳)や義経(一歳)等は武門の習いとして皆殺される定めであったが平頼盛の母池の禅尼に命を助けられた、頼朝は伊豆蛭が小島に流罪となり義経は四歳になると母元を離され鞍馬寺に預けられた、源平の戦いに勝利した源頼朝はその恩義に報いたのである。
 しかしその頼朝も落馬が元で亡くなり三代目実朝が公暁に殺された。好機と見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こすが圧倒的な鎌倉の大軍に敗れた。後鳥羽上皇は隠岐に流された。この戦で平保盛の子保教が石清水八幡で自害をしている。阿波の守となった小笠原氏により麻植保は没収され平を名乗っていた二人の者は百姓とされ生存することは許された。
「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」 出典増鏡 後鳥羽院
こうして後鳥羽上皇は新島守となり、平を名乗っていた二人の者は百姓となった。しかし百姓とした者に平を乗ることは許されず木邑氏と田室氏を名乗る事になった。後に平康頼流は阿波の地を去った。阿波では平を名乗る者は居なくなり、百姓木邑氏と田室氏を名乗って生きることになる。百姓になり木邑氏を名乗った事で尊卑分脈には平としては書かれていない。しかし木邑氏が朝廷を守る北面の武士であることには変わりはない。この事は阿波では公然の秘密である。
 この同じ頃に、吉野川の少し上流になる小笠原氏の脇城の城下脇町で藍作りの歴史が始まる、『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。
 麻植保の地で百姓となった木邑氏は他の百姓がやっていることと同じ事はやれない、学問には特に力を入れ多くの学者を出したと伝わる、また技術革新にも努め、小笠原氏の下で藍作りも産業としての成功の可能性は検討されたであろう。
文安2年(1445年)の『兵庫北関入船納帳』には、大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたと記録が残っています。木邑氏も藍師の林氏を置き本格的に藍作りを行っていた。
 藍の需要が高まり生産が本格的に行われるようになりました。それまでは、葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に三好義賢が上方から青屋四郎兵衛を呼び寄せ、すくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術とすくもの製法が伝わり、三好氏の城下勝瑞では、すくもづくりが本格的に行われるようになりました。
 戦国時代に麻植保の時代の建物は長宗我部元親の兵火で総て焼かれた。この頃に麻植保の地で木邑本家を名乗っていた者や多くの木邑氏が何処かへ行ってしまった、この地に留まる木邑氏も居た。藍作りも順調に行っていたのであろうが、この地に留まる木邑氏に託された。木邑本家は余程良い条件で味方として迎え入れてくれる者でも居たのであろうか。
 大阪の鶴橋の向かいに屋高く作れる家見ゆ。何がしの守の御苑にやと問うに、木邑権右衛門といえる農夫の家なるよし。素封(註、位や領地はないが大名ほどの富を有する人)の類なるべし。生駒山の麓まで他人の土地を踏まずに歩いて行けると言う伝説と共に鳴り響いていた。17代目は東本願寺に金を貸し、借金のカタ に御本尊を差し押さえたため"鬼権"と呼ばれた。大坂夏の陣に討ち死にした木村長門守重成に繋がると言う。
 織田信長の頃には源平交代説が信じられていた、信長は天下布武の印を使用し平信長を名乗る様になる。「平信長」の名前が初めて登場するのは、1571年(元亀2年)です(『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』)。織田信長が木邑本家に無断で平氏を名乗る筈はない。それに相応しい者で平を名乗りたい者が名乗ってくれればよい、百姓の木邑氏が平を名乗っては先祖を辱める事になる、木邑氏は平を名乗らないのだから。
 長宗我部元親を取り巻く外交環境は徐々に悪化していた。天正10年(1582年)5月上旬、信長は三男の信孝を総大将に、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成し中国四国方面への派兵を決断する。5月29日には信孝の軍は摂津住吉(大阪市)に着陣し、また信澄・長秀勢は摂津大坂、頼隆勢は和泉岸和田に集結し、総勢1万4,000の軍が渡海に備えていた。これらの軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だったが、当日朝に本能寺の変が起こり信長が自害したため作戦は立ち消えになった。
つづく、、、、、
なぜ木村を詐称する様になったのか、それは大塩平八郎の乱の後である、源平交代論を信じる者が居た、源氏を名乗る徳川にとって平家である木邑氏は極悪の末になるとされ根絶の対象にされた。四代目木邑茂兵衛や多くの木邑氏や多くの子供が亡くなった、殺されたとは言えなかった、南紀派の仕業である、親が殺されたのなら仇討ちをしなければならない。阿波で私怨で事を起こせば一族皆殺しにされる。外山氏と縁戚があり慶喜の将軍継承に与する為倅の勘兵衛は戊午の密勅に応じ天狗党の乱に参集した。藍の蓄えは総て軍資金とされた。慶喜は将軍になったが大政奉還をしたことで多くの犠牲を払った木邑氏は何も報われなかった。明治天皇はご存知だったのである、勘兵衛を孝子に叙し恩賜の剣と共に昭和天皇の子供の頃の御写真を御真影として賜わされた。孝子とは親に孝行をしたと言う事であるが、親の仇討ちをしたと言う事である。ウィキペディアの昭和天皇でその写真は見られる。
 
 
 
木邑さま (sakura)
2019-09-18 17:15:10
お久しぶりです。お変わりございませんか。
数年前、徳島市で1泊して、阿波民部(田口)成能ゆかりの地と
西光邸跡がある阿波高校、玉林寺・熊野神社を訪ねました。
(これらの記事を投稿したのは昨年ですが。)
木邑さまのお宅は、熊野神社のお近くだそうですね。

当初の予定では、康頼神社にも行くつもりでしたが、
だんだんあたりが薄暗くなりはじめ、帰ってきてしまいました。
本当に残念なことをしました。

 
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