コメント
 
 
 
鳥羽天皇皇后得子と書いてあっても… (yukariko)
2014-07-08 09:56:24
陵の案内に葬られている人の名前がそう書かれていてもたいていの人は『誰の事だろう?』と不思議に思うだけでなんの気持ちも湧かないでしょうね。

「美福門院」と書かれていたらどこかで見た名前だと思う人もいるだろうし、『あの有名な人か!』と思う人も多いのでは(笑)

平時子の妹「滋子」または「建春門院」と並び、歴史書に名前を残す女性、平安後期から鎌倉にかけての宮廷政治の裏側で動かした大物の女性(なんといってもこの人が一番でしょう)が、遺言で高野山に葬られていたとは。
この時代の夫婦はそれぞれの一族の興廃をかけて力を及ぼしあう最先端で、思想も行動も別物で当たり前、男性はどうか知らないけれど一緒の墓に入って眠りたいというような甘い考えなどかけらもなかったでしょうから当然と言えば当然ですね。
 
 
 
そうでしょうね! (sakura)
2014-07-08 17:54:40
美福門院の名は、数年前のNHKの大河ドラマ「平清盛」で、
少しは知られるようになったようですが、知らない人も多いのでしょう。
平安時代に始まった女院の院号は、東三条院・八条院のように
在所の殿邸によってつけられた名や、建礼門院・建春門院・待賢門院・美福門院のように
大内裏の宮城門の名がつけられたものがあります。
院政期に登場する女院は、いずれも多くの荘園をもって権勢を振い、
朝廷政治に影響をおよぼしましたが、中でも美福門院は自分の地位を確かなものにするために、
待賢門院のスキャンダルを鳥羽上皇に再三にわたり吹き込みます。
上皇の心は次第に待賢門院から美福門院に傾いていきます。
一時は勢力を誇った門院も、死後は寂しく葬送の時には参列者が少なかったようです。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。