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隠棲して歌ばかり詠んでいたように思いがちですが… (yukariko)
2014-07-13 16:30:48
西行法師が何の理由で出家されたかは別にして、日本全国を旅して歌ばかり詠んでおられたように思いがちです。
歌はもちろん生き甲斐だったでしょうが、浄土思想の中で堂塔伽藍の再建を夢見る事も、きっともう一つの生き甲斐なったかも。

厳然とした階級制度のある宮廷にも出入りし、上皇、法皇や女院皇女に近侍する近臣女房にも和歌を表芸として親しく付き合って、表舞台には出ないで使い勝手のいい相談役として大事な役割を果たしていたのではないかとおもいます。
そうでなければ富も権力の持たない一介の僧侶があの高野山の伽藍の復興に尽力が出来る訳もないですね。
西八條第も荒野聖と一緒に出入り…口利き役でしょうか?
この時代は僧侶さえ所属する寺院での身分や位階に縛られその寺院同士の争いも頻発、そのような硬直した時代に出家して現世の身分制度の外にいる僧は使い勝手が良かったかも。
またその持てる力を発揮して有力者をその気にさせて、復興に寄与してくれたからこそ今の高野山を見ることが出来るのですね。
 
 
 
西行の高野山での暮らし (sakura)
2014-07-15 13:30:08
高野山において西行の生活は、仏道修行・高野山整備のための勧進、
そして大半は作歌活動です。
西行が高野山に入ったのは、最初のみちのくの旅から4、5年後のことです。
奥州から帰った西行は、東国修行の聖として、歌枕を見てきた歌人としても
尊敬されて名声を得、和歌の依頼も増えていきました。
その依頼をした一人が歌をとりわけ好んだ崇徳院です。
宮中にも顔が利いたため、西行の勧進活動は、多くは皇室・貴族の縁によるものです。
頌子内親王とも和歌を通じて親しかったようです。
そして鳥羽上皇の追善供養を彼女に勧めてその気にさせたのでしょう。
春日局も西行を深く信頼していたようで、南部庄の寄進について
西行に一任すると記された彼女の手紙が残っています。
高野聖の八条邸への出入りが西行の口利きかどうかは分かりませんが、
大塔復興の勧進のために高野を下りて来た人々が、その総元締めの忠盛・清盛邸に出入し、
またある時には、忠盛邸に招かれて、仏を描く仏事などにも加わっています。
 
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