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高野山奥の院近くに熊谷直実ゆかりの熊谷寺(旧持宝院・智識院)があります。
寺の由来は、熊谷直実が法然のもとで出家して蓮生と改め、
建久二年(1191)高野山に登り智識院に身を寄せて
平敦盛の霊を弔ったという故事により、
建保二年(1214)、源頼朝が熊谷寺と命名したと伝えられています。
また『新別所由来記』には、直実が文治年間(1185~89)に
来山して蓮華谷の智識院に住んだとしています。
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奥の院の入口あたりを蓮華谷といい、
明遍が始めた蓮華谷に所属する高野聖が住んでいた場所です。
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蓮華谷の一画にある熊谷寺は、高野山に50軒以上ある宿坊寺院の一つです。
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以前、高野山を巡るバスツァーに参加した際、
この正門をくぐって中へ入り熊谷直実の鎧を見せていただきました。
『吾妻鏡』には、熊谷直実は鶴岡八幡宮の流鏑馬の際、
頼朝に的立役を命じられましたが従わなかったため、
文治三年に所領の一部を没収され、これを機に幕府の行事から姿を消し、
代わって嫡男の次郎直家の活躍が記されています。
出家の動機ついては、その五年後の『吾妻鏡』建久3年(1192)11月25日条に、
所領をめぐる紛争によるとする記述があります。
吾妻鏡が記す時期に直実が出家していたとすると、
直実が高野山にやって来たのは、建久3年11月25日以後のことと思われ、
熊谷寺の由来や『新別所由来記』が語る時期とは相違があります。
『法然上人行状画図』は、入道蓮生の事績を詳しく記していますが、
蓮生の高野入山の記事は見えず、
『吾妻鏡』にも、熊谷直実の高野登山のことは記されてなく、
直実と熊谷寺の関わりについて一次史料から確認することは難しいようです。
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円光堂は、圓光大師(法然)・見真大師(親鸞)・熊谷蓮生(熊谷直実)の旧跡で
法然上人二十五霊場の番外札所になっています。
堂前の石像は熊谷直実(熊谷蓮生法師)です。
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円光堂内、向かって右奥に安置されているのが蓮生法師像、
正面が本尊の圓光大師(法然)像、右手前が熊谷頭痛除の兜と名付けられた兜。
五来重氏は『高野聖』の中で直実と熊谷寺について、
「蓮生が高野に登ったのは事実であろうとし、当時、蓮華谷に篭る
鎌倉武士が多かったので、蓮生がある期間居住することはありうる。
そのような因縁から熊谷寺の『水鏡の影像』や『弘法大師川越の名号』などという
奇妙なものまでできたものと思われる。」と述べておられます。
水鏡の影像は、蓮生坊が井戸に映る自分の姿を見て刻んだ像と伝えます。
当時、高野聖はいくつかの集団となって高野山内で修業していましたが、
蓮華谷の聖はもっとも活発に諸国に出向き、高野信仰を説いて寄付を集め、
高野山への参詣や納骨を勧めて歩く修行僧でした。
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高野山には、弘法大師川越の名号などのように、弘法大師自作の六字名号の
版木があり、高野聖はこれを印刷し、さかんに配って勧進して歩いていました。
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熊谷寺に残る「歌の会(え)の巻」の大きな版木は、法然や親鸞、
そして関白九条兼実が熊谷寺を訪れ、蓮生ともども一堂に会し
歌会を催したとされ、四人の和歌が多数添えてあります。
『平家物語敦盛最期』の章段は、様々な展開を見せ
幸若舞『敦盛』では、「熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討ち、
敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届けます。無常を感じた直実は法然上人を
師と仰いで出家して蓮生坊と名のり、敦盛の菩提を弔い、
高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げた。」とあるなど、
熊谷と敦盛の物語は軍記物語や演劇でも、時代を超えて多くの人々から
親しまれていたので、熊谷寺の聖が勧化のために、この物語をしながら、
「歌の会の巻」の刷り物を持って説法して歩き、
また参詣者にも配ったものと思われます。
『アクセス』
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 五来重「増補=高野聖」角川選書
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館
お寺の名前も頼朝公の命で熊谷寺に改名した、その元の熊谷直実という人は…と歩く村々での説法と共に語られる話は長い年月の間にいつか膨れ上がったのでしょう。
今のような新聞、TV,ラジオのような報道伝達手段がない古い時代には高野聖たちも重要なニュースソースだったでしょうから、名号、後代には暦も売り歩いたと言われる聖、御師達には平家物語は大事な種本だったかも。
その活動も商業化してさまざまな物を売り、
中には信仰を隠れ蓑に不正な商売をする者も現れるようになりました。