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高野山の内八葉外八葉は広大峻嶮でしょうから。 (yukariko)
2014-08-08 21:41:46
出身地や血脈、縁故の繋がり、宗教上の拠り所、基地となる寺院や宗教活動の根拠地とした谷の名前を名乗って日本全国を巡った聖たちの活動は時代を超えて連綿と続いたのでしょうね。

でも信西の子供たちがそれぞれ許された後、院の近臣として重用されたり、上人と呼ばれるほどの偉いお坊さんになって、時の政治、宗教に影響を及ぼした…を読んで、凄い事だとびっくりしました。
もちろん宮廷貴族で縁故も充分あるから、才能さえあれば失脚したままという事はなく、後援者としての政治力もあったのでしょうね。
 
 
 
スキャンダルもありました。 (sakura)
2014-08-10 09:31:36
澄憲法印は二条天皇の后高松院と通じて子供を産ませています。
その噂は後白河の権勢と澄憲唱導師としての名声によって秘められたようです。

平家物語の中で、静憲(じょうけん)法印は、後白河院と
清盛の橋渡し的な役割を担っています。
俊寛の山荘での平家打倒謀議の席では、唯一人後白河院を諌めています。
重盛の死後、後白河は清盛の勢力を排除しようと、清盛を挑発し追詰めてゆきます。
清盛が大軍を率いて福原から上京し、清盛が朝廷を恨んで事を起こすという噂が駆け巡ると、
院は静憲を使者として派遣します。波乱の幕開けです。

静憲法印は清盛に「鹿ケ谷の談合は、院は無関係。
貴殿は院から多大な恩恵を受けてきた身、それに背く行為はいかがか?」と
きっぱり反論するなどなかなかしたたかな面を見せています。(巻3法印問答)
「法皇流され」の章段では、清盛は後白河を鳥羽殿へ幽閉します。
その時も、静憲は清盛に願い出て、乳母紀伊局だけを供に幽閉されている
後白河のもとに出入りを許されています。

藤原成範は、流罪を許され都にもどり順調に公家社会に復帰します。
それは平治の乱の前、清盛の娘の一人が成範と結婚する
約束ができていた事も関係するのでしょう。
 
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