コメント
 
 
 
二十年間生活を支え続けるのは並大抵じゃないですね。 (yukariko)
2014-07-23 13:49:55
比企郡というからには領国といってもそれほど大きなものじゃないですね。
それでも援助を続け、頼朝の母達、都の一族とも連絡を取りあって物資だけでなく、情報をも届け続け、旗揚げまでの不遇の頼朝を精神的に支えたのは利害だけではなく、比企の尼の乳母としての愛?
安達盛長、景盛父子は源氏というより、頼朝自身の心利いた家人としてずっと仕え、対外折衝、戦闘、高野山で大伽藍造営にも力を発揮して信頼を勝ち取っていたのでしょうね。
とても疑り深い頼朝、そして政子にも頼りにされたその実力は、度々の御家人の勢力争いにも勝ち、北条氏と組んで勢力を温存して北条執権の時代にも主流でいられるのだから、実に凄味がありますね。
 
 
 
狭い領地です。 (sakura)
2014-07-24 13:50:03
鎌倉時代前期の比企郡は、現在の埼玉県比企郡川島町と東松山市です。
川島町西部に中山の地名が残っているので、比企尼が戻ったと伝えられる中山郷、
比企氏の所領はその付近の地域と推定されています。
残念ですが、比企氏の本拠地についてはこの程度のことしか分かっていません。
近くには、木曽義仲生誕地の比企郡嵐山町、
畠山重忠が菅谷に構えた館(比企郡嵐山町菅谷)があります。

乳母と養君の関係が利害や打算だけでつながっているのでしたら、
価値の無くなった頼朝の面倒を見るなど採算があいませんね。
それに尼の夫は領国へ下るとまもなく病没していますから、
比企郡から伊豆の頼朝のもとに重い荷物を運んだのは比企尼の娘婿たちです。
このことからも尼は婿らを動かす力をもっていたことになります。

比企尼は嫁ぐとき、実家から財産の分与を受けていたと思われ、
さらに夫の死によって相続した分を含めるとかなりの経済力があったと推測されています。
乳母としての愛、忠節心プラス経済力があったため、頼朝の生活を援助できたと考えられます。
 
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