平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



高野山奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師御廟がある聖地です。
一の橋から御廟まで約2キロの参道両側には、20万基ともいわれる墓碑や
供養塔が杉木立の間に並び、厳かな雰囲気に包まれています。

参拝者や観光客で賑わう一の橋口から奥の院へ

奥の院の入口にあたる一の橋

11C始ごろ、弘法大師は死んだのではなく入定(にゅうじょう)したのだという
信仰が起こり、高野山は現世の浄土として時代と宗派を超えた信仰を集めてきました。

その陰には高野聖の活躍があります。彼らは、高野山は弘法大師が住む浄土であり、
大師が生きながら仏となりあらゆる人を救い続けていると説いて日本各地を廻りました。
それによって朝野の広い信仰を集め、人々は浄土への往生を願い、
高野山納骨の風習が鎌倉時代に全国的に普及しました。
高野聖は高野山への納骨参詣を勧誘したり、委託された遺骨や野辺の
白骨を拾い集め、笈(おい)に入れて高野山に運びました。


一の橋を渡ると右側に熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の墓所があります。

左側には敵討ちで知られる曽我兄弟の供養塔があります。
建久4年(1193)5月、頼朝が御家人を率いて行った富士裾野での巻狩りに乗じ、
曽我十郎・五郎は父(河津祐通)の仇・工藤祐経(すけつね)を討って
永年の恨みを晴らした後、命を落とします。史上名高い曽我の仇討です。

彼らの祖父伊東祐親は、工藤祐経が宮中警護のため都に出ている最中、

祐経の所領を横領したため、怒った工藤祐経は訴訟を起こしますが、
うまくいかず狩りに出た伊東祐親を郎党に狙わせます。しかし祐親は逃れ、
彼の息子・河津祐通が殺されたもので、これを題材にした『曽我物語』は、
鎌倉末期に原型が成立し、次第に加筆訂正され南北朝期になると
流布本(仮名本)が出版され、さらに江戸期には曽我兄弟は、孝行息子の
手本として歌舞伎はじめ様々な芸能で演じられるようになりました。

工藤祐経は都での生活が長かったこともあって歌舞音曲に優れ、
平重衡が東国に送られてきた時、鼓を打ってその接待役にあたり、
静御前が頼朝の御前で舞を舞ったとき、伴奏の小鼔を担当しています。

多田源氏の祖で、摂津国多田に荘園を営み強力な地盤を築いた多田満仲の墓。
奥の院で最古の長徳3年(997)の銘があります。

 風林火山で有名な甲斐源氏の武田信玄(左側)とその子勝頼(右側)の墓所です。
血で血を洗う争いを繰り広げ、常に死と向き合っている戦国武将たちは、
高野山を菩提所とする傾向が強く、信玄は高野山に信仰を寄せ、
弘法大師のもとでの成仏を願い、その墓所を奥の院の一隅に求めました。

佐竹氏は河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
武田氏に代表される甲斐源氏と同族です。正面には
俗界と霊界をわける鳥居がたっています。古い時代、とくに修験道の道場や
密教の寺院において、入口に鳥居を用いることがあったようです。
奥の院に眠る諸大名の墓の多くが、やはり正面に鳥居を備えています。

佐竹義重の霊屋(国重文)は、慶長4年(1599)年につくられたものです。
家屋の中に五輪塔、周りを47本の塔婆形の角材で囲んだ珍しい霊屋(たまや)です。

法然上人円光大師墓所

御廟橋の架かる玉川は、流れ灌頂が行われるところです。
水辺に六道卒塔婆をたて、樒(しきみ)を流れにひたし死者生前の滅罪を祈ります。

水向地蔵 

灯籠堂の前を流れる玉川を背に地蔵菩薩像などが並び、
奥の院に参拝する人はここで水を手向け冥福を祈ります。

御廟橋から先は高野山の中でも最も神聖な聖地とされている弘法大師御廟があり、
その前に僧侶たちが毎日、食事や茶を供えています。
ここから先は撮影禁止です。

弘法大師御廟前にたつ灯籠堂
 ズームを使って撮影しました。
灯籠堂は空海の弟子真然が創建したものを、藤原道長の
寄進によって規模を大きくしたことに始まります。
堂の正面には
祈親が献じた「祈親燈」と白河上皇が献じた「白河燈」が
千年近く燃え続け、内部には信者が供えた無数の灯籠があります。

奥の院を散策する際には、観光案内所に置いてある高野山観光協会発行
「高野山奥の院の墓碑をたずねて」(100円)を参考にするとわかりやすくて便利です。
また歴史上の著名人の墓碑には、標識がつけられています。
『アクセス』
「奥之院」高野山駅前から山内バス「奥の院口」下車、御廟まで徒歩約40分。
高野山駅前バス乗り場で販売の安くて便利な
「高野山内1日フリー乗車券」(800円)を利用しました。
『参考資料』

山田耕二「日本の古寺美術・高野山」保育社 現代語訳「吾妻鏡」(富士の巻狩)吉川弘文館
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「和歌山県の地名」平凡社
 百瀬明治「高野山超人・空海の謎」祥伝社黄金文庫 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
何度も高野山奥の院にはお参りしていますが… (yukariko)
2014-09-26 10:25:00
道筋の立札、駒札で誰の墓所と分かる所は見せてもらって進みますが、女性会などは寺院でのお精進の昼食と奥の院の単なる観光なので、武将の名前を言っても興味を示すどころか足も留めて貰えないので、いつも何となく心残りな気持ちで奥の院への通路を通っていました。

山内あちこちの観光は無理でも、せめて墓碑を見て歩きたいと思ったら、一人でonedayパスを買い、「高野山奥の院の墓碑をたずねて」(100円)を道しるべにして歩けばいいですね。
こうして写真付きで案内して頂くと、それまで解説して下さった詳しいお話でその人が見知らずの人ではなく、血肉を持った人となって私の前に現れてくるような気がします。
そういう話に共感してくれる歴史の好きな友人が少ないのが寂しいですけれど…。
 
 
 
歴史の息吹が感じられます。 (sakura)
2014-09-27 11:08:50
奥の院には薩摩藩島津家、金沢藩前田家、長州藩毛利家など110家あるという大名墓や
人気の高い戦国武将などが祀られています。
一の橋を少し進むと、かつてのライバル・武田信玄と上杉謙信が
参道をはさんで仲良く眠っています。そんな光景を眺めて歩くのも面白いですよ。
墓碑が密集している所が多くあるので、「高野山奥の院の墓碑をたずねて」を
参考にされるのがいいと思います。

来年、高野山は開創1200年を迎えるので、様々な行事が予定されているようです。
 
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