平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宝城院は壇上伽藍の北の高台にあり、後白河上皇が仁安4年(1169)3月に
高野山に参詣した際に建てられた六つの坊の一つに始まる名刹です。
はじめ成仏(じょうぶつ)院という寺院でしたが、
寛永9年(1632)宝城院と改められました。江戸時代には、丹波篠山
松平家の帰依を受け、末寺が播磨はじめ丹波・丹後などに410ヵ寺あり、
閑院宮家の菩提寺ともなり隆盛しました。閑院宮は江戸時代中期、
東山天皇の皇子直仁親王が創設した宮家です。
本尊は大日如来、秘宝の弁財天図一幅は重要文化財に指定されています。

宝城院は高野山に多くある宿坊寺院の一つです。






山門でこうやくんが笑顔で出迎えてくれます。

本堂
後白河上皇は仏教に深く帰依し、仏道修行に熱心に励んでいました。
それにともない上皇は、
熊野御幸をはじめ高野山・比叡山などに参詣しています。
中でも仁安元年(1166)から同4年にかけては、
ほぼ一年に2回ずつ熊野詣を行っています。
当時、後白河上皇の寵愛はもっぱら建春門院平滋子(清盛の義妹)にあり、
清盛と上皇が手を組み、政治的に最も安定した平穏な時期でした。
出家後、福原に本拠を置いた清盛は、千人の僧侶を集めて
法華経を読誦(どくじゅ)する法会を福原の海岸で何度も催しています。
上皇は高野山から帰ると旅の疲れをとるもなく、
建春門院を伴ってこの千僧供養に参列しています。

 後白河上皇が高野山行幸の途中、建立した寺が大阪市にあります。

閑静な住宅街の一画にたつ法皇山母恩寺

「仁安3年(1168)に、後白河法皇が、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、ここに生母・待賢門院の菩提のために
この寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、
代々住職は皇女が勤める尼寺でした。
淀川の洪水や兵乱でしだいに勢いが衰え、一時は
荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の
画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。」
(現地説明板)

一時は大伽藍を誇っていた寺も洪水や戦国時代の兵火で衰微し、
今は見るかげもありません。

後白河上皇(雅仁親王)は、鳥羽天皇の第四皇子に生まれ、

生まれた時には8歳年上の兄崇徳天皇がすでに皇位についていました。
皇位継承の枠外で気楽な立場にあった雅仁親王は、青年期
母の御所に出入りしては
今様等の芸能に熱中して気ままに暮らしていました。
待賢門院璋子は鳥羽天皇の中宮で、
崇徳天皇・後白河天皇・上西門院統子ら
の生母です。

『後白河上皇』(移徒一覧)によると、上皇の高野山参詣は
仁安4年(1169)3月13日から同月18日とあり、
説明板の仁安3年に
疑問がありますが、それはさておき母恩寺は上皇が母待賢門院の
菩提寺として
創建した浄土宗の尼寺で、寺はもと大伽藍を有し、
寺域は一村に及んだと伝えられています。
本尊は恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像です。
都島神社は後白河上皇の勅命により、母恩寺の鎮守として創建された社です。
『アクセス』
「宝城院」和歌山県伊都郡高野町高野山156 
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、バス停「大塔口」下車徒歩5分
「母恩寺(ぼおんじ)」 大阪市都島区都島本通1-20-22
大阪市営地下鉄谷町線「都島」下車 徒歩約5分
『参考資料』
「和歌山県の地名」「大阪府の地名(1)」平凡社 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
高野山往復が一週間で出来たのでしょうか? (yukariko)
2014-08-31 21:35:33
今のように整備された道も乗り物もない時代に沢山の近臣、門院のおつき女房達を伴って、輿や牛車(大半の人は徒歩で)で上皇のような貴人が高野山への往復と滞在日数が五泊六日で可能でしょうか?
短くても半月はかかったと思うのですが?
途中の気に入った場所にお寺を作るなど(実務は清盛に申し付ければ簡単でしょうけれど)のんびりとしたたびに思います。

伊勢の斎王が交代される時別れの儀式を終えて伊勢の斎宮まで五泊六日で群行されたと以前に斎宮博物館で見ました。(こちらは遊びと違うから行程は結構大変だったのでは…)

それほど遠い所、しかも山登りに年二回も通われたのは信仰はもちろんでしょうが、皇位から遠く気楽な親王暮らしから堅苦しい宮中のしきたりで息の詰まる日常からの脱出もあったのでは?
 
 
 
今は電車や車を使えば日帰りもできますね。 (sakura)
2014-09-01 11:18:32
後白河上皇の高野山参拝が五泊六日で可能でしょうか?については可能だったようです。
「後白河上皇」(後白河上皇移徒一覧)をもう少し詳しく書きますと、
3月13日に高野に御幸、14日四天王寺に著御
15日、高野政所に著御、17日中院より奥院に参御、18日高野山より還御とあります。

念のため「棚橋光男・後白河法皇・講談社」の巻末に記載されている(践祚後の後白河の行動一覧)を見てみると、
やはり3月13日から同月18日高野山とあり、
同年同月20日から23日まで平清盛福原邸となっています。

当時、盛んに行われた上皇や、貴族の四天王寺詣、熊野詣などは、
早朝都を発ち淀川を船で下って天満橋辺りの船着き場に上陸していました。
船ですから順調にいけば早いですね。
参考になるかどうか分かりませんが、後鳥羽上皇の熊野詣にお供した藤原定家の
行程記録が「五来重・熊野詣・講談社学術文庫」に記されています。
それによると、安倍王子と住吉大社に詣でたのち上皇が馬に乗られたという記事が見えます。
後白河上皇は高野山の表参道だった九度山から奥の院をまでの
行程約24Kmの町石道を登られたと思われます。
今、九度山駅から町石道を高野山上の入口、大門まで徒歩ですと、
ペースや休憩時間にもよりますが7~8時間ほどかかります

 
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