平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




保延元年(1135)、23歳で出家した佐藤義清(西行)は、鞍馬山や東山、
洛西嵯峨に庵を結び、32、3歳の頃から約30年間にわたって高野山に住みました。
その間、度々草庵を出て、都だけでなく吉野山、遠くは四国まで足をのばしています。

都では鳥羽上皇の葬儀に参列し、まもなく起こった保元の乱で敗れ、
仁和寺にいた崇徳院のもとにも馳せ参じました。四国讃岐では、この地に配流後、
亡くなった崇徳院の白峯御陵に詣で、弘法大師生誕の地善通寺を訪ねています。
西行入山の動機は、焼亡した伽藍の復興にあったと思われ、大塔造営奉行の
平忠盛・清盛の西八条邸に高野聖とともにしきりに出入りしています。

平安時代末期、末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にも
その影響が顕著に現れるようになりました。この頃、鳥羽上皇の帰依をうけた
覚鑁(かくばん)は、密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていました。

西行が高野山に入った頃は雷火で諸堂が焼失していただけでなく、上皇の
篤い帰依を受け急速に勢力を拡大した覚鑁に対して、従来の真言寺院である
金剛峯寺や京都の東寺がこれに反発し激しい紛争が続いていました。
そしてついに合戦に及び、敗れた
覚鑁は高野山を離れ、
保延六年(1140)、
根来にあった豊福寺に居を移し、晩年の活動拠点としました。
しかしながら確執は深く、その後も対立が続き、鎌倉時代の正応元年(1288)、
大伝法院と密厳院は高野山から根来に移され、根来寺が開かれました。

安元元年(1175)、本寺と末院の和解の場として、蓮華乗院が造営されました。
鳥羽上皇の菩提のために、皇女五辻斎院頌子(いつつじさいいんうたこ)内親王と
その母春日局の発願によって東別所(小田原谷)に建立され、その時同時に頌子は
蓮華乗院の維持費用として、紀伊国の南部庄の田10町を寄進しています。

春日局は徳大寺実能(さねよし)の養女で、鳥羽上皇の皇后、美福門院の女房となり、
上皇の寵愛をうけて生んだのが、頌子(のちの五辻宮)です。
上皇はことのほかこの母子を愛し、与えたのが秘蔵の所領である南部荘です。

蓮華乗院の後身にあたる大会堂(だいえどう)

治承元年(1177)、蓮華乗院は東別所(小田原谷)から現在地に移築されました。
蓮華乗院の勧進・造営・移築全てを引きうけたのが西行で、頌子亡き後、
南部庄全庄を寄進することを決めたのも彼の力であったと考えられます。
頌子内親王34歳、西行60歳の頃です。
西行にとって、頌子はかつての主・徳大寺実能(さねよし)の孫であり、
北面の武士として仕えた鳥羽上皇の娘です。
このような縁もあり、蓮華乗院勧進を行ったと思われます。

現在では大会堂(蓮華乗院)は、法会執行の際の集会所的役割を担っています。

三昧堂

大会堂の東隣に建つ三昧堂は、最初は親王院の地にあって東南院とよばれました。
この堂の修造にかかわったのが西行だとも、西行が蓮華乗院の勧進奉行として
この堂に住んだとも伝えられ、堂前の桜は、西行桜と名づけられています。

出家する前の西行が仕えていた徳大寺家の当主徳大寺実能は、
鳥羽天皇の皇后、待賢門院璋子の兄であることから、
白河院・鳥羽天皇に重用され、
保延二年(1136)には、41歳で大納言になっています。
歌人としても優れ、西行が和歌に関心もつようになったのは、
実能の家人となったことが大きかったと考えられています。
また徳大寺家の従者だったことがきっかけとなって西行は、18歳で
鳥羽上皇の北面の武士となり、上皇の身辺警衛、御幸に供奉しました。
その時の同僚に同い年の平清盛がいましたが、二人には身分差があり、
清盛は位の高い上北面、西行は下北面でした。
『アクセス』 
「高野山」和歌山県高野町高野山132

大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ
 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 「西行のすべて」新人物往来社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 
五来重「高野聖」角川選書 「和歌山県の地名」平凡社 
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 高橋修編「熊野水軍のさと」 清文堂

 



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コメント
 
 
 
隠棲して歌ばかり詠んでいたように思いがちですが… (yukariko)
2014-07-13 16:30:48
西行法師が何の理由で出家されたかは別にして、日本全国を旅して歌ばかり詠んでおられたように思いがちです。
歌はもちろん生き甲斐だったでしょうが、浄土思想の中で堂塔伽藍の再建を夢見る事も、きっともう一つの生き甲斐なったかも。

厳然とした階級制度のある宮廷にも出入りし、上皇、法皇や女院皇女に近侍する近臣女房にも和歌を表芸として親しく付き合って、表舞台には出ないで使い勝手のいい相談役として大事な役割を果たしていたのではないかとおもいます。
そうでなければ富も権力の持たない一介の僧侶があの高野山の伽藍の復興に尽力が出来る訳もないですね。
西八條第も荒野聖と一緒に出入り…口利き役でしょうか?
この時代は僧侶さえ所属する寺院での身分や位階に縛られその寺院同士の争いも頻発、そのような硬直した時代に出家して現世の身分制度の外にいる僧は使い勝手が良かったかも。
またその持てる力を発揮して有力者をその気にさせて、復興に寄与してくれたからこそ今の高野山を見ることが出来るのですね。
 
 
 
西行の高野山での暮らし (sakura)
2014-07-15 13:30:08
高野山において西行の生活は、仏道修行・高野山整備のための勧進、
そして大半は作歌活動です。
西行が高野山に入ったのは、最初のみちのくの旅から4、5年後のことです。
奥州から帰った西行は、東国修行の聖として、歌枕を見てきた歌人としても
尊敬されて名声を得、和歌の依頼も増えていきました。
その依頼をした一人が歌をとりわけ好んだ崇徳院です。
宮中にも顔が利いたため、西行の勧進活動は、多くは皇室・貴族の縁によるものです。
頌子内親王とも和歌を通じて親しかったようです。
そして鳥羽上皇の追善供養を彼女に勧めてその気にさせたのでしょう。
春日局も西行を深く信頼していたようで、南部庄の寄進について
西行に一任すると記された彼女の手紙が残っています。
高野聖の八条邸への出入りが西行の口利きかどうかは分かりませんが、
大塔復興の勧進のために高野を下りて来た人々が、その総元締めの忠盛・清盛邸に出入し、
またある時には、忠盛邸に招かれて、仏を描く仏事などにも加わっています。
 
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