平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



高野山の西室院には、頼朝の三男貞暁が建てた源家三代の墓塔といわれる
三基の五輪塔があります。
この寺はもと谷上院谷にありましたが、その後、南谷に移り、
明治時代に一心院谷の現在地(旧金光院の敷地)に移ってきました。

高野山駅から山内に向かうバスに乗って女人堂を過ぎ、そこから坂を下った辺りが
一心院谷で一心院谷聖のあとです。この谷の名は、行勝上人によって創建された
一心院という寺院に由来するものですが、寺は江戸時代に衰退して今はなく、
一心口・一心院谷という地名だけが残っています。
明治になって高野山は寺領の返還と大火で困窮し、
明治初年に680ヵ寺あった寺院は130ヵ寺だけ残しあとは廃寺となりました。
一心院谷には、いま巴陵院・蓮華定院・西室院があるだけです。

 江戸時代の『高野全山絵図』には、一心院谷の阿光院西南の丘、金光院の西北の山手に
四基の五輪塔が描かれ、「頼朝公」「頼家公」「実朝公」「二位殿」と注記されています。
二位殿は北条政子です。この五輪塔の経歴について
『紀伊考古学研究』に
次のように記されています。
「大正五年に行われた道路改修の際、この五輪塔は移動させられた可能性が高い。
絵図には四基の五輪塔が描かれているが、現在は三基しかなく移設の時に破損、
または破損の激しかったものを廃棄したか、組み替えたかの何れかと考えられる。」

西室院は宿坊寺院です。

裏山には貞暁の師・行勝上人の廟があります。

近年まで西室院の門前にあった五輪塔は庭園多聞苑に移されました。



五輪塔には三基とも銘がありません。

 文治2年(1186)2月、貞暁(じょうぎょう)は源頼朝の庶子として生まれました。
母は常陸介藤原時長の娘で、大倉御所に女房として仕えていた大進局です。
大進局が頼朝の子を懐妊したということが政子に知れると、頼朝は大進局を
遠ざけ出産の儀式はすべて省略されました。政子を恐れ乳母のなり手がなく、
貞暁は長門江太景国の浜の宅に引取られましたが、政子に呼び出され激しく
罵倒された景国は、貞暁とともに深沢に逃れます。それでも政子の怒りはおさまらず、
頼朝自身も強く責められ、貞暁は人目を憚るようにして育てられます。
頼朝は大進局に危険を避けるため逃れるよう説得し、生活の糧として伊勢国
三箇山を与え京都に追いやります。その翌年、7歳になった貞暁も仁和寺の
隆暁に弟子入りすることになり、頼朝は密かに貞暁をたずねて剣を餞別に贈ります。

上洛した貞暁は一条能保に伴われ隆暁法印の仁和寺の坊に入り、隆暁が亡くなると
仁和寺の勝宝院を継承し、更に修行を重ねて鎌倉とは距離を置きます。
隆暁(りゅうぎょう)は頼朝の妹(姉とも)婿にあたる一条能保の養子で、
治承・養和の飢饉の時、多数の餓死者が出たことを哀しみ、行き交うごとに倒れた人の
額に「阿」の字を書いて冥福を祈ったと『方丈記』に記された徳のある人です。
承元2年(1208)3月、貞暁は仁和寺を出て高野山に登り高野聖・行勝上人に師事し、
さらに俗界から遠ざかります。高野山の編年史『高野春秋』は、貞暁に
北条義時の手が迫り、貞暁は自らの身を守るため高野山に移ったと語り、同年10月、
熊野参詣の途次に政子が高野山麓の天野社で貞暁に会ったと記しています。
その時のことを、真言宗高僧の伝記をまとめた『伝燈広録』は、
承元2年(1208)10月、北条政子が弟時房を従えて高野山の貞暁を訪ね、還俗して
将軍になる意志の有無を確かめると、貞暁は片目を潰して固辞したと書いています。
これは実朝が将軍に就任してから五年目のことです。
さらに建保6年(1218)政子は熊野詣の途次、貞暁に会ったとは記してませんが、
天野社に立ち寄ったと『高野春秋』は語っています。
それから承久元年(1219)将軍実朝が子供のないまま頼家の子・公暁に暗殺され、
その翌年、公暁に与したという嫌疑で、仁和寺に入っていた頼家の遺児
禅暁が北条義時に京都の東山で誅殺されました。

貞暁は師の行勝が亡くなると一心院を譲り受け、貞応2年(1223)北条政子の援助で
高野山内に寂静院(じゃくじょういん)を建て、三代将軍の追善のため阿弥陀堂と
三基の五輪塔を建立しています。同じ頃、やはり高野山に政子が建立した
金剛三昧院の堂宇が完成しています。この頃になると九条道家の子の頼経を
将軍として迎えた北条政子・義時姉弟の政権は安定し、政子は貞暁を
頼朝の血をひく高僧として敬うゆとりが生まれたと思われます。
以後も幕府は寂静院を手厚く保護しています。
こうして京の貴族たちにも「鎌倉法印」としてその名を広く知られた貞暁は、
46歳で亡くなるまで鎌倉幕府内の激しい権力闘争に翻弄されることもなく、
源家三代の鎮魂のため生涯を捧げました。
『アクセス』
「西室院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山697
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、「一心口」バス停下車1分
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社 
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館  渡辺保「北条政子」吉川弘文館
 
「紀伊考古学研究・第13号」2010紀伊考古学研究会
 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 
五来重「増補=高野聖」角川選書「和歌山県の地名」平凡社



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
頼朝の息子は二人だけと思っていたのでびっくりしました。 (yukariko)
2014-09-14 23:34:47
実朝が子供のないまま頼家の子・公暁に暗殺されて、頼朝の血筋に後継ぎがいないから、京都から九条頼経を名前ばかりの将軍に据え、北条政子と北条義時が執権として実権を握ったと思っていたのでびっくりしました。

政子にすれば頼朝が他所に産ませた子・貞暁は大事に作り上げてきた政権を政子や北条から奪うための名目の道具としか思えなかったでしょうから。

権力闘争にかかわらず(関わった人たちが滅びてゆく様をずっとよそながら見続けてきたでしょうから)
その結果として朝廷、政権からも手厚く保護されて生涯を祈りにささげた人もいたのですね。
 
 
 
公暁は仕方ないにしても (sakura)
2014-09-15 15:20:09
政子は自分が生んだ子以外は後継者として認めず、
さらに北条一族・政子の謀略によって実孫の一幡・栄実
・禅暁までも将軍職を狙った罪で殺しています。

貞暁はあまり知られていませんが、10年ほど前に発行された高橋直樹の小説「霊鬼頼朝」の
「無明の将軍」という章に主人公として登場しています。

 
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