どこの地にも思いがけない悲しい災害の出来事がある。
ここ函館にも大きな災害が3件ある。
その中で一番大きなのが、昭和9年3月21日に発生した「函館大火」。
函館は江戸時代にペリーが来航し、国際開港地となって以来、大きく成長した町であった。
このころ、市街地は、現在の赤レンガ倉庫あたりから函館山寄りの狭い区域。
しばし、大火が起きていた。
最大の延焼理由は、水不足。
と、風が吹き抜ける地形も起因していた。
もっとも、当時の建材は、木と紙、仕方がないのかも。
だから、市内には幕末の建築物が残っていないのである。
大火発生当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風。
午後6時53分頃、立待岬へ行く途中左側・住吉町91番地の民家から出火した。
火は強風にあおられ、またたく間に燃え広がった。
さらに強風による電線の切断による新たな火災地も発生し、
木造家屋が密集する市街地20箇所以上でも次々と火の手が上がり、
手が付けられない状態となった。
時間の経過とともに風向きは南から南西、西風へと変っていった。
火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失するという
大規模な火災となった。
死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして失敗し溺死。
あるいは、東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって、
逃げ場を失い溺死した者(917名)。
また、溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。
当時母は、21歳の独身。
もちろん私も兄も生まれてなかった。
母の実家はこの大火の数年前に、現・中島れんばい近くに建てた。
火が近くまで迫ってきたという。
家の前には「女子職業学校」があり、この建物が反対側に焼け落ちたため、
外壁の漆喰を焦がしただけで済み、火は付近で止まったという。
なんという幸運だったことか。
このときの被害概要。
罹災者数102,001人
死者2,054人、行方不明662名(当時の人口約210,300人)
焼失戸数24,186戸(当時の市内戸数約40,835戸)
市役所も焼け、元町の公会堂に仮庁舎を設けた。
昨日午前、大森町の「函館大火慰霊堂(昭和13年建立)」において、
「函館大火殉難者79回忌慰霊法要」が執り行われた。
主催は「函館仏教会」。
参列者は、年毎に減少し、今回は総勢80名ほど。
仕方がない現実なのだ。
私は午後からお参りに出かけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/e8/22a51d040a4a027403b98627e7428177.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/b4/90ef3830421531e12515d58faeebbb65.jpg)
函館市は、この大火を契機に、区画整理事業に着手。
道路の直線化、幅員の広げを図った。グリーンベルトと呼ばれる防火帯は、多く見られる。
消防力の増加も図った。
全国から救援の手が差し伸べられ、市民の復興力となった。
全国の皆様、本当にお世話になりました。
いまある函館は、皆様方のおかげです。
二度目の大きな災害は、昭和20年7月14日、15日の「函館地方空襲」。
死者477人。消失家屋約400戸。
青函連絡船12隻、鉄道車両120両損壊した。
低空での機銃掃射はパイロットの顔が見えたという。
男子学生は海に浮かんだ郵袋を集め、女学生がその郵便物を出し、
風で飛ばぬように小石を置き乾かし、戦地へ送ったという。
一ヶ月後の8月15日に終戦。
ようやく我が国に、安堵感が訪れたのだった。
三度目の大きな災害は、昭和29年9月26日「青函連絡船・洞爺丸沈没」。
台風15号の強風にあおられ横転沈没した。
救助に向かった同連絡船3隻も沈没。
死者1,173人。タイタニック号に次ぐ大きな海難事故となった。
この事故により、青函トンネルの建設に弾みがついた。
私が今こうしてブログを書けるのは、先祖や父母、私も災害に遭遇しなかったため。
幸運な人生に感謝しながら、残りの人生を精一杯生きてゆきたい。
(数値は、函館市市史編纂事務局発行の「函館市略年表」から転載しました。)
米 長い文章になってしまった今回のブログ、最後までお読みいただき、有難うございました。
ミカエル
ここ函館にも大きな災害が3件ある。
その中で一番大きなのが、昭和9年3月21日に発生した「函館大火」。
函館は江戸時代にペリーが来航し、国際開港地となって以来、大きく成長した町であった。
このころ、市街地は、現在の赤レンガ倉庫あたりから函館山寄りの狭い区域。
しばし、大火が起きていた。
最大の延焼理由は、水不足。
と、風が吹き抜ける地形も起因していた。
もっとも、当時の建材は、木と紙、仕方がないのかも。
だから、市内には幕末の建築物が残っていないのである。
大火発生当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風。
午後6時53分頃、立待岬へ行く途中左側・住吉町91番地の民家から出火した。
火は強風にあおられ、またたく間に燃え広がった。
さらに強風による電線の切断による新たな火災地も発生し、
木造家屋が密集する市街地20箇所以上でも次々と火の手が上がり、
手が付けられない状態となった。
時間の経過とともに風向きは南から南西、西風へと変っていった。
火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失するという
大規模な火災となった。
死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして失敗し溺死。
あるいは、東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって、
逃げ場を失い溺死した者(917名)。
また、溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。
当時母は、21歳の独身。
もちろん私も兄も生まれてなかった。
母の実家はこの大火の数年前に、現・中島れんばい近くに建てた。
火が近くまで迫ってきたという。
家の前には「女子職業学校」があり、この建物が反対側に焼け落ちたため、
外壁の漆喰を焦がしただけで済み、火は付近で止まったという。
なんという幸運だったことか。
このときの被害概要。
罹災者数102,001人
死者2,054人、行方不明662名(当時の人口約210,300人)
焼失戸数24,186戸(当時の市内戸数約40,835戸)
市役所も焼け、元町の公会堂に仮庁舎を設けた。
昨日午前、大森町の「函館大火慰霊堂(昭和13年建立)」において、
「函館大火殉難者79回忌慰霊法要」が執り行われた。
主催は「函館仏教会」。
参列者は、年毎に減少し、今回は総勢80名ほど。
仕方がない現実なのだ。
私は午後からお参りに出かけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/e8/22a51d040a4a027403b98627e7428177.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/b4/90ef3830421531e12515d58faeebbb65.jpg)
函館市は、この大火を契機に、区画整理事業に着手。
道路の直線化、幅員の広げを図った。グリーンベルトと呼ばれる防火帯は、多く見られる。
消防力の増加も図った。
全国から救援の手が差し伸べられ、市民の復興力となった。
全国の皆様、本当にお世話になりました。
いまある函館は、皆様方のおかげです。
二度目の大きな災害は、昭和20年7月14日、15日の「函館地方空襲」。
死者477人。消失家屋約400戸。
青函連絡船12隻、鉄道車両120両損壊した。
低空での機銃掃射はパイロットの顔が見えたという。
男子学生は海に浮かんだ郵袋を集め、女学生がその郵便物を出し、
風で飛ばぬように小石を置き乾かし、戦地へ送ったという。
一ヶ月後の8月15日に終戦。
ようやく我が国に、安堵感が訪れたのだった。
三度目の大きな災害は、昭和29年9月26日「青函連絡船・洞爺丸沈没」。
台風15号の強風にあおられ横転沈没した。
救助に向かった同連絡船3隻も沈没。
死者1,173人。タイタニック号に次ぐ大きな海難事故となった。
この事故により、青函トンネルの建設に弾みがついた。
私が今こうしてブログを書けるのは、先祖や父母、私も災害に遭遇しなかったため。
幸運な人生に感謝しながら、残りの人生を精一杯生きてゆきたい。
(数値は、函館市市史編纂事務局発行の「函館市略年表」から転載しました。)
米 長い文章になってしまった今回のブログ、最後までお読みいただき、有難うございました。
ミカエル
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