ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
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第787号 「八重の桜 ③」 新島襄と函館

2013年03月18日 | テレビ番組
昨夜の「八重の桜」のテレビ放映、長州藩が都に集結。緊迫した状況となってきた。



このころの八重の動向は手に取るように分かるのだが、将来の二番目の夫・新島はどんな人生を送っていたのだろうか?

新島襄は、現・群馬県下の安中藩士の子として生まれ、渡航前の名は「新島七五三太(しめた)」といった。
海外に新知識を求める志が強く、かねてから海外渡航を考えていた。
しかし、当時は出国はご法度で見つかれば極刑になるのは、長州の学者・吉田松陰の例により明らかだった。
そこで、失敗が少ないであろう蝦夷地・箱館港を選んだ。

彼が箱館にやって来たのは、1864年3月。
徳川から明治へと政権が変わる4年前であり、五稜郭竣工の年であった。

新島は、ロシア領事館司祭ニコライと親交を結び、日本語を教えながら脱出の機会を狙った。
また、イギリス商人が経営する商社で働く「福士成豊(後日再掲)」とも知り合った。
彼は新島が脱出するときの、大きな助っ人となったのである。

同年6月14日深夜、福士成豊(日本最初の私設気象観測所開設者)の助けを借り、現在の海上自衛隊函館基地(元の函館税関)あたりから小舟を漕ぎ出した。
舟底には変装した新島が伏せていた。
沖合いに停泊していたアメリカ船・ベルリン号へ。
船長の厚志に恵まれ乗船でき、国禁を犯した海外渡航は成功した。

船長から航海中「ジョセフ」の名で可愛がられたが、自らは「ジョー」と名乗り、
「襄」の字をあてた。

上海経由で渡米し、修学10年。明治7年に帰国した。
翌8年、京都に同志社大学の前身である「同志社英学校」を設立したが、明治23(1890)年、48歳の若さで没した。

新島が八重と結婚したのは、明治9(1876)年1月。32歳。八重は30歳だった。

現在、渡航記念碑の背後には、ヨット係留場があり、華やかな色の船がその体を休めている。

文中の「ニコライ司教」は、函館の老舗レストラン・五島軒の初代料理長・五島英吉氏とつながりがあったり、東京神田・ニコライ堂を建設するなど話題の多いロシアの人物であった。


ミカエル


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