2022年6月、私の子供の頃から用いていた本棚が図鑑の重みなどで壊れたために、修理に2階に上がった。 本棚の状態と修理工程について確認したが、やがて私の眼と心はそこにしまい込まれていた古い本やアルバム、写真や手紙、などに向かった。
過去の生活の痕跡、記憶に触れてゆくうちに、ふいに敬虔な気持ちになった。
この本棚は私の体験や記憶をしっかり内に抱えているのだ。
ある一つの出来事について思い出すということは、その後ろに長く連なる過去の記憶も扱うこと。次から次へと古い記憶に沈んでいる声を引き出して行く。 記憶は、個人の言葉、語りによって立体的になってゆく。
過去は、文献や各種の記録、映像などを通じて確かめられるが、真の過去は箇々人の記憶の中だけにある。
東日本大震災で津波による壊滅的な被害を受けた場所では、震災遺構が保存され、たくさんの声や言葉と共に記憶を留めようとしている。福島の帰還困難区城のように、震災の生々しい爪痕が刻みつけられたままの場所もある。
証人の声が集められ、 デジタルアーカイブ化する試みも始まっていた。
津波の具体的なルートを地図に表し、証言者の目撃場所も重ねて特定してゆく。
日付や数字、出来事の概要の間にある空白を、生きた声や語りで埋めてゆく。 鮮やかに、そして立体的に留められた記録は、ここで初めて土地と人の記憶となるのだろう。
ある出来事と時間的に距離が近ければ、それは記憶に留まりやすい。しかし、時間が経ち遠ざかるうちに、物事は平面的に受け止められ、記憶からすり抜けてしまう。だからこそ、遺構など視覚的な記録を土地に埋め込みつつ、生身の言葉や語りでそれの意義を持続させてゆかなくてはならない。
このような方法が必要となるのは、私たちが自分に距離が近いものに目を向けがちで、かつ共感しやすいからだ。 この場合の距離とは空間的なものだけではなく、時間的なものも含まれる。
身近な物事は、共感の範囲内に収まるからこそ忘れにくい。
遠い時代の戦争、遠方の自然災害を、ただ過去や場所の出来事と平面的に位置づけてしまいかねない。
何かに共感する時、隅々まで思いが覆いつくすのであるが、しかし、多忙な生活、情報過多の中、実際の関心が容易に別のものへ置き換わってしまう。