マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

違いが大切

2020年06月05日 | キリスト教

「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

                また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」

 

                        Ⅰコリント 12章 20~21節

人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、「必要としない。」と言っていることに注目してください。

目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。

けれども、見ばえがよいか悪いかで、その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、

もちろんありません。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。

 

パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。

目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互いが決して理解し合うことはできません。

目は明暗や色彩を中心として、何が明るく楽しいかを語ったとしても、

足は地面が堅くて歩き難いなどということを話題にするでしょう。

しかし目は足がなければ一歩も前進できませんし、足は目がなければ壁にぶつかってしまうのです。

ですから互いに必要な仲間なのです。人類は、まさにこの身体の各部分のような共同体を形成します。

そして互いが連帯を保ちながら生きることを求められています。誰一人として要らない人はいないのです。

 

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