「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
マタイ 5章 9~10節
多くの人が、初めに人と人との平和を求めます。世界はなんと平和を好むことでしょうか。
けれども、ここに「その人は神の子と呼ばれます」という約束があります。
人と人との平和は (今の世界を見てのとおりです) 成り立ちません。
初めは神との平和、そして神の平和が自分を満たし、それで自分に周りに平和を造ることができるのです。
「義のために迫害される者」。面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。
なぜなら、世は、心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、
心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。そういう人たちが自分たちの中にいたら、迫害し始めます。
迫害されるのは「義」のためです。イエス・キリストの十字架を受け入れるということは、
まさに神の義を受け入れることです。十字架を受け入れるということは、
「あなたがどうしようもなく、救いようもなく、何ら自分のうちには善いものがない、霊的な乞食だ。」ということを認めることです。
けれども、地に属する人々はそれを嫌います。表面的に行ないを改めることは良しとしても、
このような革命的な、過激な心の変革は望みません。そのために迫害します。
ローマ12:18
「あなたがたは、自分の関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」
マタイ10:34
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、
平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」