マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

主の愛の中へ

2021年10月22日 | キリスト教

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」
 
                           ヨハネ 15章 9節 

天の父が人々を愛し、包み、働きかけていくのと同じような、愛の完全さをイエスは求めておられます。

「イエスが愛したように」「神が愛するように」人々を愛する。考えてみれば、大変なことです。

私たちは、神と違ってエゴイストです。他の人のことよりも、自分の望み、自分の生活のことを考えてしまいます。

たとえ、他の人の幸せを考えて働きかけることがあるとしても、なかなか真実で純粋な愛には近づきにくいものです。

しかしイエスは、私たちの汚れ、私たちの弱弱しさを十分に承知しながら高い理想を私たちに与えられました。

高い理想、それは私たちの力では実現不可能なことです。しかし、「神にはできないことはない」のです。

神の恩恵によってなら可能なのです。ですから、私たちはまず、高い理想をしっかりと見つめる努力をしたいと思います。

 

ところで、「とどまる」―「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまります。」

というのはどんなイメージなのでしょうか。どういうことがとどまることなのでしょうか。

一緒に過ごす、どこかに泊まってまでも親しく過ごすということも、とどまることなのですが、

「とどまる」は決定的な決意によって、継続的な生きた親しいかかわりを持つことを意味します。

どうすればそのようなかかわりを正しく理解し、それを自分のものとして経験することが出来るのでしょうか。

 

イエスは、ご自分にとどまるとは、ご自分の愛の中にとどまることであると特定しておられます。

イエスにとどまるということは、イエスを信じるということですが、パウロは、信仰よりも愛が優れていることを話しています。

愛とは単に感情的なものではなく、意思的なものです。自分の意思よりも、相手の意思を優先させることが愛であります。

イエスが、「わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。」というのは、イエスの父への愛でした。

このことを、イエスは弟子たちに分かってもらいたかったのです。

 

Ⅰコリント 13:13
「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」

 

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