「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ピリピ 2章 6~8
神に従うこと、これが私たちの生きる道であることを、イエスはこの地上の生涯において示されました。
しかし、従順であることは、なんと難しいことでしょう。私もイエスの救いを受ける前は、
不住順を誇っているような生き方をしていました。「どうしてですか、 ? なぜ 」 とよく口にし、態度ですねて見せました。
クリスチャンになってから、イエスは、私を抑えつけ、こわし、み言葉に従えるように訓練をしてくださいました。
人々から忠告を受けたり、( 一番辛かったのは、私をよく思わない人を通して来る忠告です。) 勧められたりするとき、
イエスからと思い従順に受け取ろうと思うのですが。なかなかできません。
この不住順にしか生きることの出来ない私の身代わりに、イエスは神の罰を受けてくださいました。
不住順の罪が赦され、その罪から解放されるためにです。ただし、主イエスは、神性を捨てられて、
人間のかたちをとられました。( しかし、神でなくなったことは一度もありませんでした。)
主( 神 ) が私たちが及びもつかない犠牲を払ってくださったことがここではっきりと知ることができます。
聖書から
「 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」 マタイ 20:28