私が加入している白鷗歴史散歩の会の例会があり、時間がとれたので参加しました。今回は吉原とその周辺です。今回もガイドは元白鷗高校校長先生の萱原昌二さんです。
まずは、萱原先生がつくってくれたパンフレットの冒頭のあいさつを紹介します。
吉原とその周辺
吉原大門の入り口にある「見返り柳」の記念碑ー
江戸時代、江戸では「男一度は伊勢と吉原」といわれ、男にとってはお伊勢参りと吉原は一度は通過しなければならない体験であったようだ。新吉原と呼ばれた遊廓は、江戸時代の文学や歌舞伎、浮世絵にも取り上げられ、「通」と「粋」、「洒落」の言葉に代表される江戸文化の基盤をなすものであった。
元吉原と新吉原
江戸の町は、徳川家康の入府以来50年以上も大規模な建築工事が行われており、女性は男性の半数以下しかいなかったこともあって、市中の各所に遊女屋がつくられた。 1612(慶長17)年、各所の遊女屋が小田原北条家・浪人庄司甚左衛門を代表者として遊廓の開設を申し出て、1618(元和4)年葭茅の繋る湿地二町四方(中央区日本橋人形町付近)を埋め立てて葺屋町とし、営業を開始した。当初は葭原(よしはら)と言っていたが、その後に吉原と改称した。
吉原に通う客については、当初は昼見世ばかりで、暮六つ(日没)までに登楼しなければならなかったので、昼間でも自由な時間のもてる大名や旗本などの武士を客として繁盛していた。その結果、時間的な余裕のない庶民を相手とする売春宿が再び増え始めた。特に吉原の強敵となったのが風呂屋の湯女(湯女風呂)であった。
そこで吉原では、湯女風呂の営業の禁止と夜間営業の許可を町奉行に求めていた1656(明暦2)年、逆に町奉行から、江戸の発展によって吉原が江戸の中心に近くなり、風紀上思わしくないので、浅草日本堤の浅草千束村への移転を命じられた。翌年の明暦の大火で吉原の遊廓が全焼したことから、移転の費用は町奉行が負担、江戸市中の湯女風呂の営業禁止、昼夜の営業の許可などを条件にこの浅草田圃に移転することとなった。
鷲神社ー大本は花畑の大鷲神社
吉原弁才天の西側に鷲神社がある。この神社は「おとりさま」として知られ、11月の茜の日は開運・商売繁盛などを祈願する江戸っ子好みの縁起のよい市として、現在に引き継がれている。酉の日には縁起物の熊手を売る店が境内にひしめき、商売繁盛を祈願して、たくさんの参拝者が押しかけている。売られている熊手や「やつがしら」は、もともと農業神であることを示している。
酉の市は浅草鷲神社が有名であるが、本来は足立区花畑町にある大鷲神社で始まったものである。奥州合戦で苦戦中の源義家(1039~1106)を援けるためにやってきた弟の義光が、綾瀬川で戦勝を祈願した時に、一羽の大きな鷲が飛んできて、義光を守るように空を舞ったという。戦いは義光の勝利に終り、村人たちはその鷲を鷲明神として祀ったのがこの神社のはじまりである。
樋ロー葉記念館・旧居跡
かつての新吉原遊廓の西の脇、旧竜泉寺町に樋口一葉が荒物・駄菓子を売る小店を間いた旧居があった。
それは間ロ二間(約4メートル)、奥行き六間(約12メートル)の小さな借家で、わずか10か月で廃業せざるをえなかった。歩道の道路側に「一葉旧居跡の碑」がある。