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原発事故の深刻さと先見性

2011-03-26 23:12:39 | 防災、安全

ついに福島第一原発事故がチェルノブイリ原発事故のレベル7に限りなく近い危険な状態となっています。あるサイトにつぎのような記事が掲載されていました。

 原発事故 スリーマイル島とチェルノブイリの取材経験から見えてくること

石 弘之(朝日新聞編集委員)

 「いつか」と言われつづけてきた超巨大地震がついにやってきた。そして、「まさか」と考えられてきた原子力発電所の炉心溶融事故が、現実のものになった。新聞記者として、米国で起きたスリーマイル島原発事故と旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の両方を現場で取材した経験から、私は原発の安全性に疑問を抱いてきた。だが、原発の発電量が日本で30%、世界で15%を占めるようになり、安全性をめぐる表だった議論は陰を潜めてしまった。今回の東京電力福島第1原発の事故で、改めて原発をめぐる議論が世界でわき上がるだろう。

 メルトダウンはこうして始まった

 スリーマイル島原発は、米ペンシルベニア州のサスケハナ川の中州にある。中洲の周囲が3マイル(1マイル=約1.6km)あるのでこの名がついた。

 問題の2号炉は1978年3月に試験運転を開始したものの、さまざまなトラブルに見舞われ、その年の暮れにやっと営業運転にこぎつけた。年内に定常運転に入らないと税の優遇が適用されないために運転を強行したともいわれている。

 79年3月28日午前4時ごろ、轟(ごう)音とともに原発が白い水蒸気を噴き上げた。原発関係者がもっとも恐れる、「炉心溶融事故」(メルトダウン)の幕開けだった。

 多くの大事故がそうであるように、スリーマイル原発事故も些細な故障と人為ミスからはじまり、それらが重なって大きくなった。タービンを回し終わった蒸気を水に戻す復水器の配管が目詰まりを起こし、主冷却水の給水ポンプが自動的に止った。同時に、設計した通りに原子炉が緊急停止した。あとは、炉心部をいかに冷やすかの問題だった。今回の福島原発事故と同じ状況だった。

 止まった主冷却水に代わって、緊急時に備えたバックアップの補助冷却水が注入されれば冷却が進むはずだった。ところが、その補助系が作動しなかった。42時間前に行われた整備点検時に、閉めた出口弁を開け忘れたのだ。だが、ここで最後の手段である緊急炉心冷却装置(ECCS)が自動的に作動し、高圧の大量注水を開始した。

 このまま、原子炉が冷えるのを待っていれば、炉心溶融は起こらなかったはずだ。しかし、操作の途中で運転員は炉内が満水状態になったと勘違いして、ECCSが作動を始めてから4分38秒後、手動で停止させてしまった。給水過剰によるパイプの破損を防ぐつもりだった。だが、実際は満水になっておらず、炉内の温度や圧力が急上昇し、水素が炉内に充満していった。冷却水を失って福島第1原発と同じように空だき状態になった。

あちらこちらでアラームが鳴り響き、運転員らは何が何だかわからないままに右往左往するばかりだった。炉心溶融へと一直線に進んでいった。水素爆発が起こり、炉心が溶けだして燃料の45%に相当する62tが原子炉圧力容器の底に溜まった。圧力を下げるために「圧力逃がし弁」が自動的に開き、ここから放射性物質が外部に漏れだした。運転員による給水回復措置が功を奏し、事態が終息したのは事故発生から2時間18分後。人類がはじめて直面した原発の大事故だった。

パニックを起こした住民

 当時、新聞社のニューヨーク支局に勤務していた私は、事故直後に現場に飛んだ。ちょうど州知事が原発から8km以内の妊婦と学齢期前の子どもに対して避難を通告したときで、周辺の町は大混乱に陥っていた。さまざまなデマが飛び交い、どうしたらよいのかわからない絶望感と、どこへ逃げたらいいのか分からない焦燥感が充満していた。

 その後、避難対象は半径24kmの20万人に拡大された。お金を引き出すために銀行には長い列ができ、スーパーは買い出しの大きな袋を抱えた客でごったがえして商品の奪い合いがはじまり、ガソリンスタンドでは先を争う人たちがどなり合っていた。

 スリーマイル島から25kmの避難地、ハーシー(チョコレートで有名なハーシー社のある町)では核戦争用の待避壕の中で子どもが泣き叫び、親たちもパニックを起こしていた。一方で原発の対岸にあるゴールズボロ市は、2万人もの市民が争って町を逃げ出し、ゴーストタウンのような不気味さに覆われていた。「目に見えない」「臭いもない」「気がつかない間にすべてを汚染する」放射能の恐怖は、現場にいたものにしか実感できない。

 だが、幸運なことに放射性物質の外部への放出は最小限にとどまった。事故時の混乱を今回の福島原発事故を比較すると、日本人の冷静さや規律の高さは、欧米のメディアも報じている通り驚嘆に値する。政府や東京電力はこの「理解ある国民」に感謝すべきだろう。

 事故からちょうど3年後に、事故のあった建屋の内部に入ることができた。まず、その内部の巨大さにびっくりし、いたるところに散乱するパイプ、パネル、機器類に事故時の混乱ぶりを見る思いだった。

1986年4月26日午前1時23分

 ウクライナ共和国(旧ソ連)の首都キエフから約30km北にチェルノブイリ原発がある。

 「チェルノブイリ」とは、このあたりに多い雑草のヨモギの1種である。原発に近づくと検問所があり、ここで汚染地区専用のクルマに乗り換えなければならない。あたりには原野が広がる。よく見ると、リンゴやスモモの木が点在し、ジャガイモやキャベツの葉が顔をのぞかせている。放射能汚染によって強制的に取り壊された村の跡だった。

 事故発生から36時間経って突然、避難命令が出た。「3日分の食料持参」の指示に従って住民は着の身着のままでひとり残らずバスに乗せられ脱出した。イヌも後を追ってバスに飛び乗ったが、汚染しているという理由で放り出された。原発から30km以内に居住する約11万6000人のすべての人が移動させられた。

 かつてのチェルノブイリ市内に入ったのは事故発生から半年ほど経ったころだ。コンクリートのビルはまだ少し残っていたが、木造家屋はほとんどが取り壊されていた。巨大な建屋の並ぶ原発に近づくと、いたる所に瓦礫(がれき)や資材が放り出されていた。軍用ヘリコプターが数十機、コンクリートのパネルの大きな山、ねじ曲がった鉄材、鉄板…。それらが錆びた無残な姿をさらしていた。

 しかし、4基あった原発のうち、まだ2基が稼働中で720人が働いていたのには驚いた。構内では半袖シャツ姿の職員とすれ違う。職員の給与は事故後、危険手当を含めて2~3倍に跳ね上がり、それが魅力で8割の職員がとどまったという。

 事故が起こったのは、86年4月26日午前1時23分44秒(モスクワ時間)。事故の前、チェルノブイリ原発4号炉では、検査と燃料交換のためにいったん停止させるのを機に、ある実験が行われようとしていた。

 事故や停電が重なって原発のすべての電源が失われると、緊急時に大量の水を注入して炉心を冷やすECCSまで止まってしまう。そのときは非常用ディーゼル発電機に切り替わるのだが、動きだすまでに数十秒間の空白がある。その間の電力を確保するため、原発が停止してもしばらく回りつづけるタービンの慣性を利用して発電する実験である。

 停止24時間前の25日午前1時、停止状態にもっていくために出力を下げはじめた。だが、いくつかの操作ミスが重なって出力が下がりすぎた。このままでは実験が続行できなくなる。そこで運転員は、核反応を抑えている制御棒を手動で次々に引き抜いて出力を上げようとした。

 200本あまりの制御棒をほとんどすべて引き抜いた。ところが今度は逆に出力が急上昇しはじめた。緊急停止ボタンを押したが止まらない。あわてて制御棒を下げはじめたところで原発は暴走をはじめ、大爆発を起こし、火柱が夜空高く立ち上った。原子炉上部の1600tもあるフタが吹き飛ぶすさまじいものだった。

人類がかつて経験したことのない最悪の原発事故であり、最大の放射能汚染のはじまりだった。事故直後、火災は30カ所で発生していた。現場に駆けつけた消防士は、致死量の放射能と濃霧のような煙のなかで火と戦わなければならなかった。

 広島級原爆500個分もの放射性物質が飛び散り、風やジェット気流に乗って予想をはるかに超える広い範囲に広がった。ロシア科学アカデミー地球気象研究所の調査では、汚染はウクライナ、ベラルーシ、ロシア西部にかけて、101万1000km2と日本の面積の2.7倍に及んだ。人体に危険なレベルの汚染地帯は4100km2と、東京都のほぼ2倍になった。さらに風に乗って北半球全域に拡散していった。

原発の墓標

 ソ連政府の公式発表では、死者は運転員、消防士を合わせて33人だが、それ以外にも事故処理にあたった軍人や予備兵、地下から炉に接近するためのトンネル掘削に駆り出された炭鉱労働者など多数の死者が確認されている。

 放射能被害など長期的な観点から見た場合の死者数は、86年のウィーンでの国際原子力機関(IAEA)の非公開会議で4000人という結論になった。2006年になって世界保健機関(WHO)は9000人とし、国際がん研究機関は1万6000人、環境団体のグリーンピースは9万人と発表した。

 事故後の大混乱のさなか、考えられるあらゆる応急措置がとられた。放射能の拡散を抑えるために、コンクリート30万m3、鉄骨6000tなどをかき集めて、原発をそっくり覆ってしまう“石棺”をつくり上げた。作業部隊は重さ20kgもの防護服を着て、強い放射線のために1回の作業は1分13秒しかつづけられないという過酷な状況下で働いた。

 事故当時、原子炉内にあった燃料の95%が、現在も石棺の中に留まっている。内部の放射性物質の崩壊熱や雨水でコンクリートの劣化が進み、石棺が崩れるかもしれないという状態になっている。このため、外側をさらに新たな遮蔽壁で覆う計画が持ち上がっているが、膨大な建設費がネックになり、工事は進んでいない。

 これは、福島第1原発の運命を示している。海水まで注入した原子炉の復活はまずありえない。ということは、いずれ4基のならんだ石棺となり、原発の危険性を伝える墓標として無残な姿をさらすしかない。

 原発の寿命はなし崩し的に延長されてきたが、それでもせいぜい50年が限界であろう。私たちの世代はこの間に電力の恩恵を受けるが、「廃炉」になった後、炉内に放射性物質を大量に抱えた無用の長物を何千年も監視を続けなければならない子孫には理不尽な話でしかないだろう。

崩壊した安全神話

 原発の大事故でつねに問題になるのは、事故をめぐる情報の開示である。背後には、原子力専門家の傲慢さがある。「素人に説明しても理解できないし、下手に説明して誤解されてはかなわない」という態度である。

 チェルノブイリ原発の場合、当時のソ連政府は国民にも外国にも事実をひた隠しにした。スウェーデンの観測所が放射性物質の検出を公表して事故を否定できなくなってからも、被害は軽微なものと発表していた。

 しかし、ペレストロイカ路線を押し進めたゴルバチョフ元大統領が陣頭指揮を執ってからは、それまでのソ連では考えられないほど大量の情報が公になり、事故の実態がかなり明らかになってきた。

 振り返って、今回の福島第1原発事故では、過去の教訓が生かされているのだろうか。テレビに登場した東電や政府の担当者が「わかりません」「連絡がありません」「調査中です」を繰り返し、広報技術の稚拙さも加わってかえって不安を増幅させた。

 スリーマイル島原発の場合には、はじめての大事故とあって全貌がわかる専門家が払底し、世間に情報を提供する者がほとんど不在の中で混乱を極めた。しかし、電力会社側は事故3日目には現場近くに広報センターを設け、そこに多くの技術者が待機してメディアや一般市民に懇切丁寧に原発の仕組みや事故の現状を説明した。

 原発の“安全神話”も、今回の事故対策の大きな障害になっている。スリーマイル島やチェルノブイリで大事故が起きた後も、日本の電力会社はことあるごとに安全性を強調してきた。大事故の現場で、日本から視察にきた原子力の専門家に何人か会った。彼らは米ソの原発従業員の質の低さをあざけり、「こんな事故は日本では起こりえませんよ」と、日本の従業員の質の高さや管理運転技術の優秀さを誇った。

 大地震で原発が崩壊する危険性は、すでに1960年代の原発開発の創成期から指摘されてきた。とくに2007年の新潟県中越沖地震によって発生した新潟・柏崎刈羽原発の火災で緊急対策がほとんど役に立たなかったことで、地震に遭ったときの原発の危険性が研究者や市民団体から警告されていた。

 だが、安全だと言い続けてきたために事故発生を前提とした緊急時の待避計画などは公表するわけにいかず、突然、待避勧告を突きつけられた周辺住民はどこにどのように避難すればいいのかも分からないまま混乱した。

 「想定外の自然災害」はあり得ても、「想定外の大事故」はあってはならない。日本のような地震国では、今回の事故は「想定外」ではすまされないはずだ。とくに、原発のように外部との完全な隔離を前提に成り立つ技術にあっては、「想定外」はそのまま今回のような大惨事につながる。

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