ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

地の果てのワルツ

2011-01-19 03:17:10 | 南アメリカ

 ”LA REYNA Y SENORA”by JESUS VASQUEZ

 ペルー名物。きっとそうなのでしょう、バルス・ペルアーノなる白人系大衆音楽の、彼女は最初のスターとのこと。名花JESUS VASQUEZ 、デビュー。1939年のことであります。可憐な声で切なく美しいメロディを彼女は、夜空に瞬くお星様を仰ぎつつ心を込めて歌い上げます。
 バルス・ペルアーノ。アルゼンチンのタンゴなんかでも”ワルツ”なるサブ・ジャンルが存在しているのであるし、その辺の”ラテンアメリカ・三拍子文化圏”の中のものという方向から捉えていいのか?

 確かにその南欧の尻尾を付けた妖しく美しいメロディ展開は、その血族である事を主張しているが、バックのサウンドは、優雅なタンゴ世界のそれとはかなり違っていて、なにやらリズム・セクションが前のめりにジタバタとせっかちな進行をするあたり、あまり洗練されているとは言えず、ブエノスアイレスのタンゴ紳士たちからはイナカモノ扱いを、そりゃされるんではないかな?私などはこのパワフルなリズム展開はずいぶんと心地良く感じられるのだが。

 などと余計な心配をしている間にもアルバムは進行して行きます。今、南欧仕込みと書きましたが、いったい古きヨーロッパからペルーの地はどれほど離れているのか。彼女の歌に聴き入り、あるいはリズムに合わせてダンスのステップを踏む男女に、再び大西洋を越えて故郷に帰り、グラナダを見る機会などあるのだろうか?
 切なく流れるギターの音よ。哀しく揺れるピアノの和音よ。そして可憐なる少女歌手よ。君も我も、共に明日知れぬ人生の旅人ならん。

 旅路の果ての新大陸、荒れ果てた大地で見上げる星、二度と帰れぬ故郷を思い、可憐なるペルーのワルツにただ酔い痴れてみせる、わけあるバガボンドの心細き心情に想いを至らせば我が胸にもまた望郷の涙、溢れ出でて止まるところを知らぬのであります。



”艶歌”の捏造

2011-01-18 02:46:00 | 書評、映画等の批評
☆創られた「日本の心」神話
 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 輪島祐介・著(光文社新書)

 まだ形成されたばかりと言っていい「演歌」なる大衆音楽のジャンルを、まるで大昔から我が国に存在した音楽であるかのように吹聴する。そして「日本人の心である」などと言いくるめる。そんな無茶な歴史捏造はなんのために発生し、どのように人々に受け入れられて行ったのか。日本の大衆音楽史の大いなる闇にメスを入れる書。
 さらに、五木寛之の小説に登場する昔気質のプロデューサー、”演歌の竜”と、そのモデルになった人物とのキャラの落差が何を意味するか?など。
 あの頃、なんでもなく聞き流していた”流行歌”の影で何ごとが起こっていたのかが執拗とも言いたい追求の内に姿を現す。凄い凄い。




中東ロック in 60'

2011-01-17 02:53:52 | イスラム世界

 ”Hard Rock From The Middle East”by The Devil's Anvil

 70年代、クリームやマウンテンといった印象的なロックバンドを世に出した、ミュージシャン&プロデューサーのフェリックス・パッパラルディが1967年、ニューヨークはグリニッッジビレッジあたりでたむろしていた在合衆国の中東系の人々によるロックバンドと繰り広げた音楽的冒険の記録。あるいはバカ騒ぎの記録。これは血が騒ぎますな。

 冒頭、エレクトリック・ギター&ベースのゴツゴツした”ロック”なリフに導かれ、武骨なアラビア語のボーカルが呪文の如きコブシ付きで呻き出される。バックのサウンドはアラブ方面の民族楽器各種とロックバンドの標準装備との混交だが、あくまでロック志向なのが嬉しい。そりゃそうだ、まだワールドミュージックなんて概念のない時代のセッションなのだから。
 ともかく、アラブの旋律や伝統楽器の音が、いかにもこの時代らしいサイケなロック音、ファズギターの轟音と絡み合いながら進行して行く様は痛快の一言。ガツガツと刻まれるロックのリズムの上をイスラミックなメリスマをくねらせながらボーカルが渡って行くカッコ良さといったらない。

 いや、実は「ワハハ、来てるぜ、アラブ・ロックが」とか言って、その出来上がりのうさんくささをせせら笑うつもりでいたのだが、実際を聴いてみたら。「いや、これで正しいんじゃないのか」と思わされてしまったのだった。アラブ音楽の臭味とロックのケレンは、結構相性がいいのではないか、なんて思われてくる。
 アナログ盤で言えばA面がすべてアラビア語のボーカルによるアラブ・ネタであり、B面に行くとさらにトルコ語やギリシャ語も飛び出し、それぞれの国のサウンドが導入されて、彼らの音世界はさらに多岐に渡ることとなる。ギリシャ語のバラードの哀切さが心に残る。

 このバンド、というかこの”中東風ハードロック”なる音楽上の試み、この一枚で終わってしまったようだけど、もったいなかったね。もっと続ける道はなかったものか。とか思うが、1960年代という時代を思えば、ゲテモノとして一瞬受けて忘れられるという結末しか、いずれにせよなかったのかも知れない。やはり、つかの間の夢で終わるしかなかったのか。
 それにしてもパッパラルディって、日本に来た時もクリエーションの連中と遊んで行ったし、なんか”異文化社会におけるロックバンド”なんてテーマに興味があるんだろうか?その興味、何らかの結果は出たんだろうか、彼の内では?どこかで語ってはいないものかと思う。



楓の森の少女

2011-01-16 03:04:01 | フリーフォーク女子部

 ”Vive la Canadienne”by Bonnie Dobson

 この盤は、初期カナディアン・フォークの隠れたる名盤ということになるんだろうか、1960年代にアメリカとカナダのフォーク・サーキットで活躍したカナダ出身の女性シンガーソングライター、Bonnie Dobsonである。
 今聞くとなかなか先鋭的なポジションにいた人で、確かにもっと再評価というものがなされてもいいような気がするのだが、その種の歌手、つまりシンガー・ソングライターのブームとなった70年代にはもう彼女は歌手活動の末期に入っていたゆえ、陽の目を見そびれたというところだろう。

 おそらくキャリアの初め頃はジョーン・バエズあたりに影響を受けたのであろうと思われる、澄んだ美声を高々と響かせるタイプの歌い手である。さっき明けたばかりの朝の大気の涼やかさ、そんな歌心が実に清潔な響きをもって迫ってくる。生成りの木綿のような、なんて表現があるでしょう、そんな感じだ。

 多くはギター一本の弾き語りで、素朴なフォークナンバーや自作曲を弾き語る。やや、トラディショナル・ナンバーが多いだろうか。初期にはアメリカ合衆国の。後期には自国カナダの。こいつもカナダ人ゆえのこだわりなのだろう、フランス語の伝承歌も重要なレパートリーとなってくる。
 おそらく、アメリカのフォーク歌手の物真似から入り、その後、カナダ人としての自分の独自性、といったものが気になり始め、やがて自分なりに曲も書き出して、といったステップを踏んで自分の音楽世界を構築していったのではないか。

 それにしても、この楚々たる響きの高音で美しいメロディを高らかに歌い上げるというパターンには最近、あまり出会わないせいか、心地良い。その素朴な歌心の向こうに、確かにカナダの広大な自然がひんやりとした空気の中に広がっているのが見えてくるようだ。
 非常に萌える、というのか、世代の違いゆえに彼女のキャリアの最盛期に同じ青春期を過ごして彼女を応援できなかったのが惜しくてならない、なんてバカな焦燥に駆られてしまったりするんで、我ながら弱ったものだと思っている。

 ところで彼女、付属のブックレットを見ると、もっと可愛く写ったり美人に写ったりしている写真もあるのに、何でこのアルバムのジャケ写真はこれなのかね?わざわざブサイクに写ったものの中からあえて選んだ、みたいじゃないか。
 それとも、彼女の身近かにいた人々にしてみれば、彼女の人間性を良く表しているのはこれ、なのかも知れないが。私は、なんか納得出来ないんだがね。




轟き森にて

2011-01-14 03:49:56 | フリーフォーク女子部
 ”I Can Wonder What You Did With Your Day”by Julie Doiron

 以前、一回触れた事のあるカナダの女性シンガー・ソングライター、Julie Doironの2009年作。
 ジャケには素朴なタッチの絵画で、顔に猫ヒゲを描いた少女や猫耳の生えた仮面を被った少年の姿が描かれている。こちらとしては何となく宮沢賢治の童話なんかを連想してしまう、気味悪いような懐かしいような世界なのだが、このようなものを欧米では、どのように認知されているのか。
 ちょっとしたアーティスティックな気取りと、それと裏腹な、刺々しい現実に心折れた者の奥底に芽生えた「悪意の表出の権利、我が内に生ぜり」みたいな確信犯的思いが、透けて見えるみたいな感じだ。

 前回紹介した出世作は、ギターの弾き語り中心のシンと静まり返って独り言みたいなフォークっぽい音つくりだったが、今回はギター中心のロックバンドが入って賑やかなものになっている。。
 とはいえバンドもあまり濁った音を出すタイプではなく、クリアな弦の音を響かせる個性なので、Julie Doironの温度の低いモノトーンっぽい持ち味にあまり変わりはない。出来の良い曲も実は、いつものギターの弾き語りを聴かせるものだったりする。
 とにかくJulie Doironの歌唱そのものはいつもの訥々としたものなので、このエレクトリック・サウンドの導入は合っているようなちぐはぐのような、奇妙なユーモアを含んだパントマイムを想起させるものとなって、聴く者の脇腹をくすぐる。そして気が付けば、喧しく思えたギターの轟音も、いつしか心地良く聴こえ始めるのだった。




2010~11年末年始にツイッターで呟いたこと

2011-01-12 21:39:15 | つぶやき
2011年01月12日(水)
”タイガーマスク運動”のニュースを見るたび、ロリコン雑誌の「ランドセルもの」と実は関係あるのでは?と疑っているのは私だけですか?

2011年01月12日(水)
自分の雑誌の応募葉書部分を切り取られちゃって怒る女性に、切り取って使ってしまった男がいきなりキス、なんてCMがあるけど、あれ、どうかと思うよなあ。あれで微笑ましいオチのつもりなのか?「女は押し倒してやってしまえば性奴隷になって、なんでも言う事をきく」なんて発想と変わらんだろうが。

2011年01月10日(月)
自分がハタチの頃、そういう風に若い奴らに理解のあるような事を言う奴が一番信用できない、と思っていた。 RT

@--- 成人式でムダに騒ぐ新成人を揶揄するのは簡単だけど、自分のハタチの頃のアホさ加減を考えたらなんもいえん・

2011年01月08日(土)
同じこと考えてるな(笑)私はあの漫画シリーズで「資本論」を読み終え、今は「続・資本論」にトライ中。その後は「共産党宣言」でも。 RT

@--- 小説の罪と罰はわたしには難解過ぎてムリだけど、マンガならイケるんじゃないかとマンガの罪と罰を買おうかと思ってる。。

2011年01月04日(火)
昨夜、NHK教育TVで再放送された「音楽の学校」を見て。MCの坂本龍一って、俎上に上がるロックをはじめとする大衆音楽を果たして好きなんだろうか?他のゲストたちが発しているようなポップスへの愛情は感じられなかった。「クラシックの人」が各音素を分析、解釈しているだけだよなあ、あれは。

2010年12月31日(金)
このところ見かけなかった”石川遼のような生命保険”なるCMを今、久しぶりに見てしまった。あらためて見ると、やっぱりしみじみとくだらね~。

2010年12月24日(金)
クノール・カップスープのTVCMで、「生パンに浸して食べろ!」とアピールしているが、とりあえず「俺は、そんなものを食べたいとは思わない」とだけ言っておこう。

ナメンヨルチャ最終便

2011-01-11 02:22:55 | アジア

 ”涙のギター”by 김수희(kim suhui)

 今日の韓国演歌界に”重鎮”として鎮座ましますキム・スヒ女史のデビュー当時のアルバムが再発されたと聞き、さっそく買いに走った私は、別にスヒ女史のファンではなかった。 むしろ、ゴージャスなフルバンドをバックに、周囲を威圧するような迫力で歌いまくる大スターの彼女はやや苦手というのが正直なところで、再発盤には野次馬的興味しかなかったのだ。

 そのアルバム、ジャケ写真はデビュー当時の彼女の写真が使われているのだが、誰かの葬式に行って来たかとからかいたくなるような白黒の地味すぎる衣装で、暗い表情でガットギターを抱える姿もうら寂しい印象である。これは中身のほうもさぞや貧相なトロット演歌の世界が展開されているのではないか、それは逆に面白いんではなかろうか、などと言ったタグイの興味である。
 そして首尾よくCDを手に入れ、聴いてみたのだが。不明を恥じる、とはまさにこのこと。このアルバム、大傑作だったのだ。

 収められているのは「木浦の涙」や「太田ブルース」といった、日本の演歌ファンだって知っているような韓国演歌のスタンダードばかり。そいつを若き日のキム・スヒは、ギター一本、時にさらにベースかもう一本のギターが加わるというきわめてシンプルな伴奏に乗って、実に新人歌手らしい、純な情熱を込めて歌い上げているのだ。
 今日の、ファンキーなアレンジのトロット演歌ばかり聴いている身にはきわめて新鮮な、ナマの生命が脈打つ歌との出逢いだった。

 そして、ジャケの地味さにも得心が行った。彼女が新人歌手だった頃といえば、韓国の実権を軍をバックにしたパク・チョンヒ大統領が握り、まだまだ自由のない時代だったのではないか。なにかといえば戒厳令などがしかれていたのではなかったか。このアルバムに流れるきりりと締まったストイックな叙情を、そんな時代の産物だ、あの時代はある意味良かった、などと言い出す気は毛頭ないにしても。ここには今日の韓国大衆音楽が忘れてしまったものがある。月並みなフレーズで申し訳ない。

 このアルバムは、そんな時間を過ごしていた韓国からの一本の伝言でもある、と言えるだろう。そいつを受け取って我々は。流れ過ぎた30年の歳月を前に、どのような答えが出来るのだろうか。

 デビュー当時のキム・ソヒの映像はないかとYou-tubeを探したんだけど、やはりそんなものはないので、とりあえず私の好きなキム・ヒョンシクの作った歌を彼女が歌っているものなど、貼っておきます。




北の孤島における宇宙モグラの存在について

2011-01-10 01:58:20 | ヨーロッパ

 ”Yesterday was Dramatic -Today is OK”by Mum

 この間、アイスランドの不思議な持ち味の女性シンガーのことなど書いてみたけれど、「ひょっとして今、”最前線”にいるのはアイスランドのミュージック・シーンなのではないか?という、特に根拠の挙げようもない予感がある。
 具体的な根拠もないので、詳しい話のしようもないのだが、何だか彼等が”今、いるべき場所”にいるように思えてならないのだ、私は。彼等が音の底に共通して持つ独特の透明感やら屈折したユーモアの感覚など、なにやらありそうな感触がいっぱいなのだ。
 そんな私の疑惑(?)を裏付けるように、いつの間にかそっと来日までしていたというアイスランドの奇妙な持ち味のエレクトロニカ・バンド、”Mum”のアルバムなど。

 エレクトロニカであるのだから当然、打ち込みの音から始まるのだが、これが全然機械くさくない、それどころかむしろちょっととぼけて温かいニュアンスを振りまく。キーボードのソロは決して尖った音は使わず、丸っこい和音で、聴く者の心を雲で包み込むようなフレーズを積み上げて行く。
 楽器の音色の選択だって、「あれ?スピーカーの具合がおかしくなったのかな?」と首をかしげるような間抜けな音をあえて響かせるのだ。打ち込みの上に乗る楽器もメロディカみたいにのどかな楽器だったり、女性ボーカルは子守唄でも歌うようにホワホワと宙を漂う。

 そんな具合だからアルバムの進行に耳を傾けていても、機械仕掛けのモグラが太古の地球を探検に行く、みたいなすっとぼけた物語が頭を横切って行くばかりで、その正体を突き止めようと思うと最初から最後まではぐらかされているみたいな気分になってくる。
 でも、いつのまにかその独特な手触りの夢想サウンドが妙に恋しくなって、CDにまた手が伸びてしまう仕組みで、う~ん、こいつら、絶対に何を企んでいると思うぞ。



海に来たれ

2011-01-09 04:39:31 | ヨーロッパ

 ”marinaresca”by La Moresca Antica

 とりあえず海のそばに住んでいるのであって。近くのコンビニに行って買い物を済ませ、レジ袋を持って店から出ると目の前に海の広がりがあり、なんだか幸せみたいな気分になる。まあ、それだけのことなんだが。

 イタリアに古くから伝わる海にちなんだ歌の数々を再生してみせたアルバムである。このバンド自体がその方面をテーマとして追いかけているようで、古楽で使う楽器や民族楽器など持ち出して、かなり精密にいにしえの歌世界を再現してみせている。舟漕ぎ人足の労働歌からシシリー島のマグロ釣りの歌まで。
 とはいえ、学術的に正しい事をしている人たちの音楽によくある退屈さは感じられず、地中海の陽光の元、のどかに海を行く古式ゆかしい帆掛け舟、みたいな悠揚迫らざるノリが微笑ましく、こちらの心の中までリラックスのおこぼれ頂戴的癒しがやって来る感じだ。

 さすがにこんな音楽はYou-Tubeにはあまり登って来なくて、下に貼ったものだけしか見つからなかったのだが、6曲目の凄く伸びやかな美しさを持つメロディの”La Biondina”あたり、貼りたかったなあ、皆に聞いて欲しかったなあ。解説には「もっとも有名なベネチア民謡」とかあったのになあ、誰か貼らんのか。
 シシリー島に始まり、北海を訪ねポルトガル沖に遊ぶ、”舟歌は時空を越えて”なんてイメージ豊かな舟歌メドレーにて締め。海はいいなあ



ロシアン・ロマンス

2011-01-07 01:22:43 | ヨーロッパ
  "Золотая коллекция романсов"by Наталия Москвина

 クソ寒いですね。地方によっては積雪などに悩まされている向きもおありでしょう。お見舞い申し上げます。
 というような本気の冬になってきたんで、このところ忘れ気味だったロシア音楽のCDを取り出しました。この寒気だってシベリア越えてきたんですからねえ、うん。

 自分でも読めもしないロシア文字を上に並べましたが、タイトルは発音も意味もほんとに分かりません。歌手名はこれで”ナターリア・マスクヴィナと読むようです。
 なにやら下着などちらりと見せまして、バルカン~東欧~ロシア方面で顕著に見られるエロ・ジャケの伝統を踏襲したジャケ写真となっていますが、内容は実に渋い作りとなっております。
 ジャンル名としては”ロシアン・ロマンス”と呼ばれるもののようです。シャンソンなんかにも影響を受けつつ形成された、ロシア特有の重く暗いバラードもの、とでも紹介したらいいんだろうか。

 暗闇の中に切れ込んで行くみたいなある種ブルージーな、ロシア特産の憂いの旋律の連発であります。聴いて行くと、ポツリポツリと聴き慣れたメロディが聴こえてきます。「黒い瞳」とか、「悲しき天使」とか。もちろんこれらは、こちらが元歌というか本家であるわけです。
 ナターリア嬢は、このアルバムではガットギター一本だけの伴奏で、52分に及ぶアルバム全曲を歌いきっています。エッチなジャケ写真には似つかわしくないしっかりとした基礎を感じさせる大人の歌声で。

 過度に激するでもなく、パワーで勝負するわけでもない。華麗なテクニックなど使うわけでもない。ただ、一つ一つの歌を噛み締めるように歌い込んで行く。
 聴いているうちに”踏みとどまる歌”ってあだ名を付けたくなります、ナターリア嬢の歌に。
 過酷なロシアの冬、吹きつける凍りつくような風に吹かれ、よろめきはする、だが倒れはしない。踏みとどまる。そしてまた歩き出す。暗闇の中を北風に向って。

 You-tubeにはないだろうなあ、とか思いつつ探してみたらありました、一曲だけだけどナターリア嬢の歌が。結構分厚い伴奏が入っているんで、音源はこのアルバムからではないようだけど。まあ、その歌声が聴けるだけマシとお考えください。