ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

プレイ・バッハ

2011-01-06 01:44:41 | ジャズ喫茶マリーナ
 ”PLAY BACH”by Jacques Loussier

 この頃、妙にジャック・ルーシェの”プレイ・バッハ”のシリーズが気に入ってしまい、車を運転する時とかつまらない軽作業をする時なんかに頻繁にBGMで流しているのだった。
 ジャック・ルーシェなんて言っても今どきの人は知らないんだろうな。1960年代、ジャズのタッチでバッハの曲を弾きまくり、大いに評判を取ったフランスのジャズ・ピアニストだ。
 まあ、そんな試みは今日の感覚で言えばたいした驚きでもないかも知れないが、当時としては革新的だったのであって、私は友人と共に学校の視聴覚室にどこからか借りてきたルーシェの盤を持ち込み、恐れ入りつつ聴き入ったりしたものだった。

 それから気が遠くなるほどの時は過ぎ。私は、安価盤で手に入れたルーシェの”バッハを弾く”のシリーズを、平気でBGMとして聞き流しているのだった。うん、いろいろ音楽を聴いてきて、あらためて”プレイ・バッハ”を聴いてみると、「ああ、そういうことだったのか」とか見える部分が出て来て、別の楽しみ方が出来る。「ジャズやブルースとバッハの音楽との根の部分における共通点」なんて問題も、自然に顕かになる感じでね。

 何より楽しいのは「ここでバッチリ、バッハをジャズ化してやるぞ。これならどうだ!ここはこう行く!こっちはこうだ、恐れ入ったかっ!おっと、このあたりはあんまり崩さず弾いておくぜ。マトモにバッハを弾くことも出来るってのを、この辺で見せておかないとな」なんて、ルーシェのケレンというか若き日の野望というか(笑)そんなものが透けて見える瞬間。
 とはいえそんなものは発表後、半世紀(!)も経ってしまった今となっては可愛いもの、というか慎ましやかなものとなっていて、時の流れの中でなにやら非常に上品なエンタティメントとして成立してしまっている「ジャズピアニスト、バッハを弾く」の一幕は展開されて行くのでありました。



北の小島の夢語り

2011-01-05 03:46:43 | ヨーロッパ
 ”Vid Og Vid”by Olof Arnalds

 マニアな音楽ファンの間で話題の、アイスランドの女性シンガー・ソングライター。2006年のデビュー作。

 ジャケに妙なものが映っているが、これは一つの胴体に二つの頭を持つ白鳥がいて、その二つの首がニュ~ッと伸びてグルグルグルグルと絡まりあっている様が描かれているのだ。どんな物語が秘められているのか、何しろジャケもほぼ全編、アイスランド語でしか書かれていないので、知りようもなし。
 ともかく、こんな不気味なイラストでデビューアルバムのジャケを飾りたい、などとは、常人はなかなか考えないものだ。一筋縄では行かない女性と覚悟を決めたほうが良い。

 とは言うけれど、中身を聴いてみると、アコースティックな音を前面に出した、もの静かな美しさに溢れた作品である。ゆったりとした弦楽器の爪弾きが主体の伴奏に乗り、Olof Arnalds女史の甲高い声が、そっと優美で幻想的なメロディを歌い上げる。
 いかにもヨーロッパの古い伝統に連なる美しさに溢れているが、そういえば中欧の古きローレライの川辺では、こんな具合の妖精の歌声に惑わされた船乗りたちが水に飲まれて帰らなかった故事があるではないか。

 ヨーロッパも北の果ての雪と氷に閉ざされた小島で、長い冬の夜を暖炉のそばで過ごす子供たちが、お婆ちゃんの話してくれた夜話の中に見た幻想の手触り、などというものを想起させる。ファンタジックな、ちょっぴりホラーの気配も匂う、不思議な薄明境通信である。 冬の夜は、北辺の小島に吹き付ける風の音などに想いを馳せながら、この幻想に酔っていたいと思う。
 それにしてもOlof Arnalds女史、あのビョークに「個性的な人だ」と言われたっていうのだから、なにやら笑えます。



時の流れを誰が知る

2011-01-04 01:35:39 | フリーフォーク女子部
 ”Who knows where the time goes”by Sandy Denny

 正月は何をするでもなくテレビを見ながら寝転がったりしていたのだが、もう絶望的に何も面白い番組がないのにはうんざりさせられた。まあ、いまさら言うことでもないのだが、年々ひどくなるのではないか、テレビの退屈装置のありようは。こんな内容の枯れ切った状態で地デジに移行とかいってるが、見る気を起こす奴が一人もいなかったらどうする気だ。

 という次第で、しょうがないから「フリーター、家を買う」なんてドラマをまとめて放映していた、それにチャンネルをあわせ、横目で見ながらずっと本を読んでいた。なにしろ”生涯一フリーター”で終わりそうな自分としては番組タイトルがどうも気になったので、一応チェックを入れておこうと。
 大学を出たものの就職が叶わず、土木のバイトをしながら就職活動を、うつ病を患った母親などにも悩まされつつ行なう若者、といった内容のようだった。というか、私には”自分の病気を脅迫材料として息子の精神を萎縮させ自分の精神的奴隷と化そうとする母親のホラー・ストーリー”のように思えたのだが気のせいか?その方向で見て行くと、最終回でも何も解決していないのだが。まあ、それはそれとして。

 見終えて思ったのだ。これから職を得、社会に出て行こうとする若者。そうかあ。これから人生が始まる奴もいるのか。そんなことに驚いているのも呆れたものだろうが、当方、自分の老化と共に全世界も衰退し崩壊へ向っているような気分でいたのだった。そうか、俺が
死んでも世界はまだここにあるのだな。

 大学卒業を前に職探し、なんてオノレの体験を振り返れば、もはや番組内容と比べようもないほど大昔の出来事となっているのだが、あの頃も大就職難で、真面目に勉強していた奴が拾ってもらえる会社を見つけられずにいた時代に、バンドばかりやっていた私が行ける会社などあるはずもなく、自慢じゃないが受けた会社すべてに、それも書類選考の段階で落ちた。
 で、ギター抱えて旅に出てしまった。「この社会に組み込まれたくないから就職はしない。好きな音楽の道に生きる」とか言っていたが、実は行き所のなくなってしまった自分の立場を、そうやってごまかしていたのだった。
 名目上はライブハウスで歌いながらシンガー・ソングライターを目指していることになっていたが、実は知る人の居ない土地でバイトで食いつなぎ、歌を歌うのなんて月に一度がいいところ、曲もまるで書けず。そんな生活に行き詰まれば実家に逃げ帰っていたのだからひどい話だ。

 将来自分が何になる気なのか、自分でも分からなかった。なりたい職業はミュージシャンだが、自分の実力を思えばなれるとも思えず。
 あの頃、いつも冬の高い空を吹き抜ける北風を途方に暮れつつ見上げ、行くあてもなく歩いていた気がする。あるいはバイトの現場で、出来上がった道路の埃を果てしなく除去して歩いていた炎天下。
 イギリスのシンガー・ソングライター、サンディ・デニーの”時の流れを誰が知る”は、そんな具合にマトモに人生なんかに直面せずに済んでいた、でももうすぐそこまでそんな時間は迫っていた大学時代に、ふと訪れたタイムポケットみたいなひとときを思い出させる一曲だ。

 歌の中に出てくる海岸に、自分はいたような覚えがあるし、去って行く仲間たちに心当たりがあるような気もする。寒さから身を守るための火を起こし、ここにたゆたう時間という物質はどこへ行ってしまうのだろうと想いを寄せる季節の記憶。
 この曲が収められていたフェアポート・コンベンションの”アンハーフブリッキング”なるアルバム自体が私には青春そのものの一枚みたいに思える。フェアポートが、自分たち独自の音楽世界への扉に手をかけ、開け放った瞬間を捉えたアルバム。彼らの心の内の、まさに青春そのもののときめきに溢れかえりそうな音楽に、自分の心も強力に共鳴していたと感じられたのだった。

 そんな具合にこのアルバムを一緒に聴いていた仲間と、もう会うこともなくなって久しいのだが。
 曲を作り歌ったサンディ・デニーも不慮の事故により、若くして逝ってしまった。冬が近いと感じる瞬間にはいまでもこの歌の一節、”Before the winter fire”のメロディが心に蘇るのだが。いったいそっちに行って何年になるんだ、サンディ?生きてりゃいくつになるんだ、君は?
 と問うてももちろん答えはないから、まだ生きてる私はやっぱり歩き出さねばならないんだが、さて、どこへ?



五月の木の香のメロディ

2011-01-02 03:34:14 | ヨーロッパ


 ”Wishing Tree”by SHAUNA MULLIN

 年の瀬から何となく調子悪く。若干の寒気がして、クシャミや鼻水が出る。あきらかに風邪の初期症状で、ひどくなるかな、熱でも出そうだな、と思うが持ちこたえている。とはいえ、治るわけでもない。なんとか正月まで持ちこたえたのだから、このまま抜けてくれればと祈りつつ、が、体調はむしろ下り坂に感じられる。
 
 だったら早く寝たらいいものだが、体のだるさもあって、このまま起き上がって寝室へ行く気分にもなれず。時と健康を無駄にしているなあとちっぽけな焦燥を頭の隅に感じつつ、アイルランドのトラッド歌手、Shauna Mullinなる人のデビューアルバムを聴いている。
 ケルトの血筋のヒトだから、ということなんだろうか、この名前をなんと発音すればいいのか分からない。ジャケ写真を見る限りでは失礼ながら結構体格の良い女性みたいで、そのゆえか、なかなかに男前な低音の凛としたボーカルスタイルの人である。

 その凛とした低音が、大地を大きく踏みしめた感じのディープな歌心でゲール語の古謡を歌い上げる。こいつがベタベタした感傷を付着させがちなトラッド表現を、逆に清清しいものにしている。なにか5月の青葉が香る、みたいな爽やかな情感が伝わって来て、当方が今悩んでいる悪寒や鼻詰まりまでもスッと解消してくれるみたいな幻想があって、このCDを聴いているのだが、無論、そんな勝手な話が通るはずはなく、私はただ、本物の春の到来を待つしかないのである。



貝殻と流星群

2011-01-01 03:36:12 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”グーテフォルクと流星群”by Gutevolk

 はい、毎度のことですが、ジャケ買い作品。音に惹かれるよりジャケに惹かれて盤を買うケースの多いみたいな私ですが、いや本気で”ジャケ芸術”を愛しているのかもしれない。まあ私、もともとが画家志望だった人間なんで、その辺はお許し願いたいんですが。

 で、これは冬の夜明けの海辺ですかね、フードつきの赤い厚い上着を羽織った人物が貝殻らしきものを手にしている。その貝殻から光が零れ出して中空へ舞いかけている。上空に、このアルバムの正式タイトルらしきものが浮んでいます。”Tiny People Singing Over The Rainbow”と。2007年作品。このタイニイ・ピープル云々は、何かいわれとか原作とか、絡みがあるのかしら?分かりませんが。不思議な世界への扉が開かれているようで、興味をそそられますな。

 いくらジャケ買いとはいえ、このアルバムが私が今注目しているエレクトロニカ作品であることくらいの知識はあった。西山豊乃という女性のソロ・ユニットで、もう何作かのアルバムを世に問い、それなりの評価もあるようです。
 一番意外だったのは、電気楽器中心のインストものと想像していたのに、ほぼ全曲にボーカルが聴かれたこと。サウンドの基本は期待通り電子音楽っぽいものだったが、こちらが思っていたよりずっと開かれた世界の住人による音楽なのだろう。

 歌の歌詞は英語だったり日本語だったりするが、どちらも聞き流しているだけでは内容までは読み取れず、断片的なイメージを喚起する言葉が残るのみ。でも、それで良いんじゃないか。海辺の気ままな呟きは、自由に散って行くに任せたらいいんじゃないか。
 ジャケの海岸に寄せては返す波みたいな反復するリズムに乗って、まるで作意のなさ過ぎる声がポップスのような子供の遊び歌のようなメロディを呟く。全体をメジャー・セブンスっぽい響きが包み、基調音としてずっと鳴っている。

 多重録音されたキーボードの音の上をトイ・ピアノがポンポンと歩き回り、シロホンが揺れ、リコーダーが行進する。タンバリンやシェイカーが遠い昔に失われた夏の祭りの残響を演出する。
 凍りつく北風と海。寄せては返す波のきらめきと、立ち上って行く光の粒と。
 私が今、キイを叩いている部屋から出手、ほんの数歩で国道に至り、それを越えればもう海辺だ。とうに新しい年は明け、でもまだ夜明けはやって来てはいないけれども。波のざわめきは街路灯の向こうから確かに聞こえて来ている。