ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ケルトを敵とする日

2007-09-18 05:16:16 | 音楽論など


 昨今、妙に見ていて苛立つテレビ・コマーシャルというのがあって、あれはハンディカムというのか、小型の撮影機材。正式には、”パナソニックのハンディカムSDハイビジョンムービー”と言うらしいが。
 そいつを娘の運動会に持って行く母親、なんて設定のCMである。

 で、娘に「ハイビジョンで取ってね」とか言われた母親たちが右手を外に開くと掌に収まるくらい小型の撮影機が現われる、なんて運びの映像。
 それら、母親に扮した出演者たちがいかにもモデル丸出しな気取り倒した雰囲気を醸し出していて、なんか鼻につく。まずそこが気に入らないのだが、それは今回の文章の主題ではない。

 どうも、それに被る音楽が私を苛立たせているようなのだ。それは、セリーヌ・ディオンが歌う「To Love You More」なる歌らしい。なんというか劇的な、まるで大作映画一本終わったかのような大仰なバラードなのだが、そのメロディ、いわゆる”ケルト的響き”と言う奴を感じさせる代物である。
 おそらくそんな感じに聴こえるように作られたメロディのはずだ。哀切さのうちにケルティックな神秘を秘めて渡って行く、そんなメロディであるように。

 どうもその”ケルトもどき”のあたりが、私を一番苛立たせているんではないかって気がするのだ。

 思えば、”いかにもケルト”なメロディが我が国のテレビCMのBGMとして使われるのは、いつの間にか珍しいことではなくなっている。
 ”シェナンドー”やら”サリー・ガーデン”やらと、かっては、自分のリスニングルームの中でしか鳴り響くことのなかったそれらメロディが、晩飯食ったり税務署に提出する書類を作ったりの日常空間の一瞬に、テレビCMとともに流れ出るのに、こちらもいつの間にか慣れはじめている。

 ヨーロッパの古代史の中で、時の流れに吸い込まれるように消滅していった謎の民、ケルトの人々が残した独特の玄妙な響きを持つメロディ。ケルト民族の存在自体が孕んでいた謎が、そのメロディにさらに奥深いロマンを付加した。
 若い日、私は気ままに心のうちに描いた、あまり科学的根拠のない幻想を弄びつつ、ケルトのメロディが収められたレコードに飽きることなく向い、時間を過ごしていた。

 独特の哀切さを秘めたメロディと不可思議な文様美術を残し、遠い古代に滅びた正体不明の民族の神秘。現実との折り合いを要領よくつけることもままならず、無為な日々を怠惰に送る青少年には、まあ相応な愛玩物でもあったのだろうと思う。

 いったい、今日のCMの世界における”ケルト・ブーム”に、いかなる裏の理由があるのか?私はいまだに知らずにいるのだが、ともかく、青春時代の孤独な幻想の呪物が今頃になって日向臭い日常に持ち込まれ、日常的な道具扱いで消費されるのは、あまり気持ちの良いものでない。

 ここで時代はもうどれくらい経ってしまったのだろう、劇作家の寺山修司が生きていた頃に戻る。それはNHK教育テレビの”日曜美術館”なる番組で、その日の特集は、シュールな画風で知られるルネ・マグリットだった。寺山は語っていた。

 「かって僕らは、マグリットが描いた山高帽の紳士が演じた超現実の夢に己が想像力を託した。が、マグリットの描いたイメージは今日、テレビCM等の現場で散々援用され、消費され、山高帽の紳士は退屈な日常の一齣となってしまった。
 今、僕らは、かって僕らが愛した山高帽の紳士を敵とする事から、もう一度はじめねばならないのかも知れない」

 なるほど。今頃になって私は、あの頃の寺山の言葉を妙に生々しく反芻するのだった。そう、どうやら私は、かって愛したあのケルトのメロディを敵とせねばならぬらしいのだが・・・

 (冒頭の画像は、アイルランドに残存するケルト民族の古跡)

さらに洋楽に演歌を探る

2007-09-16 23:37:49 | 音楽論など


 ”孤独の太陽”by ウォーカー・ブラザース”

 あっとしまった、前回の”60年代洋楽に演歌の影を見た”リストに、ウォーカー・ブラザースの”イン・マイ・ルーム”を入れておくのを忘れてしまったなあ。
 あの曲を入れておけばそこを突破口に、かのバッハ巨匠も演歌世界に引きずり込む計略が成り立とうものを。
 あの曲の邦題は”孤独の太陽”でいいんだっけ?まあ、今の若いヒトビトには、”チャララ~ン、鼻から牛乳!”と説明したほうが分かりやすいんだろうけど、メロディだけに関して言えば。

 あと、”ストップ・ザ・ミュージック系のメロディ群”に関しても、もう少し述べておきたかった。いやこれに関しては別に一章設けても惜しくはないテーマと言える。

 もう一つ落としていた演歌大曲が”ブラック・マジック・ウーマン”である。
 作曲者のピーター・グリーン、60年代英国ブルースロック・シーンをリードしたギタリストであると同時に、実に演歌な心を持った作曲家であったと、これも特筆しておきたい。
 彼は他にもいくつかの演歌的メロディのインスト曲を作っており、当方としては”古賀政男~アントニオ古賀~ピーター・グリーン”という演歌系ギタリストの流れを主張したいところなのである。

 しかし、演歌的なイメージを求めると、どうしてもマイナー・キーの曲が多くなってしまう。

 まあ、それだけの成り行きじゃない、たとえばクリームの”ホワイトルーム”の「文句あっか」と言わんばかりの歌いだしは、故・村田英雄先生がキッと客席ナカジクを見据え、「博多生まれで 玄海育ち♪」と見栄を切る瞬間を彷彿とさせるものがある。
 また、オーティス・レディングの、”ジ~ズア~ムズオブマアアア~イイン~♪”と自らの深層心理の奥底に探査機を沈めるかのような歌い出しは、北島サブちゃんが”な~みだぁのぉ~おおおおおぅっ 終わりのひとしずく~ ゴムの合羽に染みとおる~♪”と、まさに聞く者の心に染み透るような歌いっぷりに通ずるものがあり、そこが演歌だといいたいのである。

 それにしても、マイナー音階。こいつには、貧乏であるとか無教養であるとか因習に満ちたであるとかジメジメした感触であるとか、なかなかに陰湿なイメージがくっつきつつ、演歌の定義のすぐ隣に当たり前の顔をして座り込んでいる。

 これはどこの文化圏でもそうなのだろうか?いや、どのみち、”西欧文化が標準”と言うことが刷り込み済みの白人文化のナワバリ内でのみ通用している”合意”でしかないんだろうけど。それ以外の地域には、そもそもメジャーともマイナーとも言いようのない音階が平気で存在しているのであって。

 今回はとりあえず、話はまとまらないままに終わる。世界演歌探求の旅は、まだ途についたばかりだ。

60年代洋楽ポップスにおける演歌の探求トップ20

2007-09-15 00:23:49 | 音楽論など


 ”Stop The Music”by Lenne & The Lee KIngs

1)悲しき願い / アニマルズ
2)バンバン / ソニーとシェール
3)ストップ・ザ・ミュージック / レーン&リーキングス
4)キープミー・ハンギン・オン / バニラ・ファッジ
5)ホワイト・ルーム / クリーム
6)リトルマン / ソニーとシェール
7)朝日の当たる家 / アニマルズ
8)エピタフ / キング・クリムゾン
9)今日を生きよう / グラスルーツ
10)サテンの夜 / ムーディブルース
11)マンチェスターとリバプール / ピンキィとフェラス
12)アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー / CCR
13)スーという名の少年 / ジョニー・キャッシュ
14)ジーズ・アームズ・オブ・マイン / オーティス・レディング
15)霧の五次元 / バーズ
16)マイ・フェバリット・シングス / ジョン・コルトレーン
17)ビーナス / ショッキング・ブルー
18)マルセリーノの歌 / マルセリーノ
19)空の終列車 / スプートニクス
20)オーキー・フロム・ムスコーギー / マール・ハガート


 何をバカな事を言っておる、てなものですが。いやなに、昨夜、北島三郎先生が歌われるマカロニウエスタンのテーマ曲なるものがテレビから流れるのを聴きまして、ふとこのようなお遊びを思いついた次第です。
 まあ、どういう意味の遊びかは、分かってくださる方は説明せずとも分かってくださるでしょうし、分からない方はおそらくどのように説明してもお分かりになれないでしょう。・・・と言うような微妙な皮膜の間のジョークなんですが。

 これは何度も書いていることなんだけど、”悲しき願い”って曲の根にあるものってなんなんでしょうね?これ、どのあたりから生まれてきたメロディなんでしょう?
 メロディを奏でながらリズムを取ってみると、なんかアラブ世界のダルブッカとか、あの種の打楽器を持ち出したくなるようなノリが旋律のうちに感じられてならないんです。
 イスラム的と言おうかアジア的といおうか、欧米連中から言わせれば”異教的”なものが脈打ってはいませんかね、この曲には。

 60年代に存在していた”ティーンビート”なる音楽雑誌の新譜レヴューのコーナーに、「ソニー・ボノってひょっとして日本人じゃないの?彼の書くメロディって、なんだかもの凄く日本人好みのものがあるよね」とか書いてあったのが記憶に残っています。
 実際、ソニーとシェールの一連のヒット曲というものも、妙にネットリとした歌謡曲チックな何かを内包していて、この辺の来歴も気になります。

 ”ストップ・ザ・ミュージック”と”ダンシング・オールナイト”と”セクシーナイト”は実質、同じ曲ですね。”ホテル・カリフォルニア”も怪しい気がします。その他、”ストップ・ザ・ミュージック系”のメロディって、探ればいろいろと出て来そうな気がします。一ジャンルを形成するやも知れません。

 バーズの”5D”をここに入れるのは異論もおありでしょうが、この曲が流行った当時、私がシングルで聴いていたら父に「お前は浪花節を聞いているのか?」と真顔で尋ねられた記憶がありますんで、まあ、参考物件として挙げておきます。

 その他、シャンソンとかカンツォーネを入れだすと収拾がつかなくなるので。と言うかあの辺は普通の意味で演歌ですよね。
 あ、あとジョニー・キャッシュの奴は歌詞がモロに演歌w


小鳳鳳、走り続けろ!

2007-09-13 04:11:58 | アジア


 ”向前走”by 小鳳鳳

 秋ですね。先日は急にストンと気温が下がり、用事があっていつものようにTシャツと短パンでバイクにまたがったら、昼下がりの街ははっきりと”寒かった”ので、呆れてしまった私でした。まったく昨今は。猛暑は秋抜きで、いきなり冬に直結しようとしやがる。
 おかげでこの頃、風邪気味で不調ですが、皆様、いかがお過ごしでございますか。

 この日録に書いたらちょうど良いような興味深い音楽に出会い、ちょっと熱中してしまったりするのはたびたびだが、「いやいや、もう少し資料が集まって記事にしよう」なんて言っているうちに書くタイミングを逸してしまう、なんてことがある。

 まだろくにその音楽に関する知識もないし、CDの2枚や3枚聴いただけであれこれ言うのは早いかな、などと思って、音楽への感想を述べる事を躊躇しているうちに、気が付けば、もうその音楽への興味が、こちらのうちで一段落していて、特に文章を書いてみようなんて情熱は失せかけている。「余計な事をグダグダ言わずに、黙ってCD聴いていればいいや」とか何とか言っちゃって。

 実は、「その音楽の実体は良く分からないのだが、なんとなく惹かれる、匂う」なんて時点が一番面白いのだ。一番、音楽とホットな関係が成立しているのだ。資料を集めて冷静に分析してみたりするようになったら、それはもう、ある種の倦怠期なのだよ、きっと。

 そんな次第で。一時期、夢中で聴いていたのだが、ろくに記事にせずに終わろうとしているある音楽について、ちょっと書いてみる。

 そもそもは、もう10数年前、いつも利用しているレコード店の店主氏に「面白い音楽がある」と教えられたのだ。聴いてみると、チャチャチャの軽快なリズムに乗り、極彩色のアレンジを施された中国歌謡や日本の懐メロ歌謡曲の中国語ヴァージョンなどが次々に飛び出してきて、そのバイタリティ溢れる音楽世界に驚かされた。

 マレーシアあたりを中心に展開している、東南アジア各地に在住の中国系住民らの間に流布する大衆音楽とのこと。福建省から東南アジアに流出した人々が多いようで、歌われる歌詞は同じ中国語でも福建語が多く、それゆえそれらの音楽、我が日本のマニアの間では”福建もの”とか”福建ポップス”と呼ばれているそうな。私は勝手に”南洋中華街サウンド”と呼ぶことに決めていた。

 マレーシアは人口1千万余のうち、中華系は三分の一程度だが、多くは商店などを営み、抜け目ない商才を発揮して経済力を蓄える。そんな彼らに反発を覚えた”多数派”のマレー人たちの中の一部の者による”中華系国民”への焼き討ち事件なども過去において起こっていたそうで、民衆の意識の底辺には、何事かわだかまるものがあるやも知れない。まあ、この件の解説は私なんかよりもっと適任者がいることでありましょうけど。

 ともかく私は、”福建ポップス”のえげつないばかりのパワフルな大衆パワーに襟首をつかまれた感じで、夢中でカセット(が多かった)やCD(は当時、まだ少なかった)を買い集めた。
 地図の上にはその”領土”が存在しない、にもかかわらす大衆に愛される、と言う形でやすやすと国境線も超え、東南アジアを覆う、”見えない共和国”を形成してしまっている音楽、という不思議さにも想像力を刺激された。

 手に入れたカセット群の中でもひときわ輝かしい光を放って感じられる少女歌手がいた。小鳳鳳という名の、まだミドルティーンの、マレーシア生まれの華人の歌い手だった。
 ともかく、その幼さにもかかわらず、と言ったらいいのか、それとも子供ゆえの生命力からと解釈すべきか、その歌はあつかましいばかりの迫力を放ち
、喉から吹き上げる大音声で朗々と歌い上げられる中国や日本の懐メロの数々は、実に痛快で、いくら聴いても飽きることがなかった。
 これはまた。とんでもないところに素敵な歌い手がいたものだ。

 南国らしく陽気にパワーアップされたリズム、ほのかにサウンドの中に紛れ込む、現地マレーの音楽性、異境にあってもしぶとく輝きを失わない中国大衆音楽、なぜか影を落とす日本の歌謡曲、などなどさまざまな要素が混ざり合い、グツグツと沸騰した、そんなサウンドに乗って快調に流れて行く小鳳鳳の歌声。やあ、いいな、いいな。まだ、ほんの15,6、そのくらいの女の子なんだけどねえ。

 などといっているうちに時は流れ。気まぐれな私としては、いくら小鳳鳳が気に入ったからといって、福建ポップスばかり聴いてもいられず、その他のアジアやアフリカやらの音に耽溺し、ひと時、福建ものの存在を忘れた。

 そのような事情で何年間かのインターバルをはさみ、私は先日、小鳳鳳の新譜の紹介に、ある店のカタログで出会ったのだった。そこに添えられたCDのジャケット写真で、すでにベテラン歌手の貫禄を漂わせ始めた小鳳鳳の姿があった。
 こいつはちょっとショックだったね。いやまあ、そりゃそうだよ。十数年前にファンだったミドルティーンの歌手、その子は今、当然、30歳を過ぎる。それはそうなんだけど。

 でも、私の心のうちには、でかい口をあけて思いっきりパワフルに福建歌謡を歌い上げる無邪気な南国の少女の面影が、あんまりはっきりくっきりと焼き付けられていたんでね。
 で、さて、小鳳鳳の新譜、聞いてみるべきかやめといた方が良いのか?どんな歌を歌ってるんだろうねえ、今は?

 それにしても今年は・・・はたしてまともに秋は来るんだろうか、私の大好きな季節。また、「来た」と認識するまもなく、木枯しの冬に直結してしまうんだろうか。


モザンビークの鰯雲

2007-09-10 22:46:17 | アフリカ


 ”Yellela”by Eyuphuro

 ケニアからタンザニアへ。そしてモザンビーク。ひねもすのたりのインド洋を左手に見ながら、アフリカ東海岸を南に向う。名所も多い。広大なる大地を切り裂く大地溝帯。人類発祥の地。キリマンジャロの頂上の豹の死体。
 それより何より。このあたりは”アフリカン・ポップスの微妙なところ”が気になるファンには見逃せないところ。

 遥か西アフリカでは、ユッスーやサリフの活躍で世界の最前線に躍り出た独自のポップスが躍動し、赤道直下のコンゴでは”アフリカンポップス総本山”の自負に溢れた洒落者のバンドマン連中が、天の神々も踊り倒せとオダを挙げる。
 冒頭に挙げた東アフリカの国々には、そんな極彩色のアフリカ大陸ポップス事情の、いわば裏通り、あるいはカウンター・カルチャーといった趣をそこはかとなく漂わせている。

 東アフリカとは古くから交易によって経済的、文化的に関係の深いアラブ世界。さらに大洋を挟んで対峙する南アジア諸国と蒼古より構成する”インド洋文化圏”なるもの。そして、そのど真ん中に呪物のように屹立する不思議の島、マダガスカル。
 これらの文化的背景が玄妙に絡み合い、独特の味を醸し出す東アフリカのポップス。古くから成立していた海洋性のアフリカ風アラビアン・ポップスであるターラブもあり、どこからどうして生まれ出たのかさっぱり分からぬ新しいサウンドもあり。興味は尽きない。

 そんな東アフリカはモザンビークからの、もうベテランと言っていいのかも知れないバンドが、新譜を出していた。これが2ndであり、と言っても前作、デビュー作が出たのは80年代というから、ほぼ20年ぶりのリリースとなる。悠然たるペースであるが、好き好んでそうなったのかは知らない、もちろん。そして残念ながら当方、前作は聞いていないのだが。

 男女一名ずつのボーカリストと、パーカッションが3名、加えてギターとベース、という編成。
 アフリカ音楽でパーカッション主体のサウンド作り、となると狂熱のリズムの饗宴を連想してしまうが、そこはそれ、だてに海峡を挟んでマダガスカル島が存在している訳ではない。そのサウンドはいかにもアフリカ東海岸のインド洋文化圏ポップス、どこかに潮の香りを感じさせるゆったりとしたノリの複合リズムを聴かせてくれる。

 それはちょうど日本のこの季節を例に取るのがふさわしい。
 まだ夏の暑苦しい太陽は空高く輝いているが、そんな日に、ふと吹き抜ける風一陣。そいつには明らかな秋の気配がしていて、いつの間にか忍び入っていた季節の変化に驚かされる、そんな、シンと静まった空気の固まりを忍ばせた夏の終わりの大気の手触り。
 そんな陰影が、マダガスカル島周辺ポップス(と、仮に呼んでみようか)には潜んでいる。
 その静けさは、どこからやって来たのかいつも不思議に思う、これまたこの地域のポップス特有の哀感を秘めたメロディ・ラインと微妙に響きあい、独特の世界を形作っている。

 光と影の微妙な混交を描きつつ、バンドの音は流れてゆく。ほのかにイスラム色も漂わせつつ、しみじみと哀感漂う女性歌手Zenaの歌声と、どちらかといえば飄々とした個性で歌い流す男性歌手、Issufo。

 二人の歌声の素朴さのわりに、歌詞の英語対訳を読んでみると、いわゆる”メッセージ色”の濃い内容が、やや意外である。
 アフリカの過酷な現実が、当然のものとしてそのような歌詞を歌わせているのか、それとも結成当時から国際舞台で活躍していたバンドの立場から、そのような歌が増えてしまったのだろうか。このあたりは、余所者があれこれ言えることでもないようだ。

 いずれにせよ、よく出来たアルバムで、なかなかの収穫だなと思うのだが、苦言一つ。男女二人のボーカリストはともにシンガー・ソングライターなのであって、自作の歌を交互にこのアルバムに収めているのだが、両者の個性、あんまり響きあっていないような気がする。

 ユッスー等、西アフリカの音に影響を受けたのではないかと思われる女性歌手、Zenaの音楽性と、コンゴあたりの音楽の影響もうかがえる昔ながらのアフリカン・ポップスのありようを受け継ぐスタイルの持ち主、そしてデビュー・アルバムからのメンバーであるIssufoの音楽世界とは、ちょっとズレがありはしないかなあ?
 Zenaがバンドを離れてソロアルバムを世に問い、Issufoがバンドの主導権を握るのがベストではないかと思う。やや社会派色の強いZenaの歌は、元来、飄々としたこのバンドの個性とはちょっと違うような気がする。まあ、この辺は趣味の問題、別の意見もあろうけれども。

世界の中心でお涙頂戴を叫ぶ

2007-09-08 06:11:22 | 時事


 さっきからテレビを見ていると、役所浩司が主演の映画だかテレビドラマだかのコマーシャルがやたらに流される。
 「象の背中」とか言って、癌で余命いくばくもない公務員かなんかの物語のようだ。

 なんか夫婦の間で
 「子どもたちもいつの間にか大人になって行くな。もう大丈夫だ」
 「何が大丈夫なのよ」
 なんて会話が交わされて、きっとこのあたりが泣かせどころなんでしょうな。
 残り少ない人生の時を前にして、夫婦の愛とは。とかなんとか。

 そういえばこの間から盛んに、癌で余命半年を宣告されたサーファーだかの物語のドラマ化のコマーシャルも流されていましたな。サザンのクワタが主題歌かなんか歌っちゃって。

 こういう”難病もの”のドラマって、昔から妙に人気があったのよなあ。私は辛気臭くて大嫌いなんだが。
 昭和30年代で言えば吉永小百合の”愛と死を見つめて”とかね。そういうものって、しばらく忘れられていたと思うんだけど、昨今、急激に復活してまいりました。

 あ、ちょっと前に公開された田村正和の映画もそんなのだったな。
 ニューヨークを舞台にジャズマンが主人公の「大人のラブストーリー」とか宣伝してるけど、要するにアレも「主人公が死ぬのが売りの話」なんでしょ?
 ほら、今、「同じ病気で妻を亡くした」なんて独白をする田村の姿がスポットで流れた。噂をすれば影という奴だ。こちらのかたも余命いくばくもおありでない。それはそれは。

 なんかさあ、この頃はドラマといえばそんな話ばかりで、いい加減にしろと言いたくなりませんか?
 要するに登場人物が死ねばいいんだ。そうなりさえすれば感動の物語で、百倍泣けます、で、バカな聴衆大満足ですか。

 こうなってくると、もう、戦争映画とかだって無事ではすまない。靖国も英霊も不戦の誓いもA級戦犯も何もありませんわ。人を死なせる必然性があれば利用しない手はない、ってなものでしょ。
 「この前の作品もその前の作品も、主人公が白血病で死ぬ話を作っちゃったからなあ。今度は戦死でもさせとこうか。公開は夏だし、時期的にも終戦記念日に絡ませられるしなあ」とかいっちゃってさあ。

 でもって。もはやそんな構図は丸見えであるにもかかわらず、泣けさえすれば皆は映画のチケット買うのな。ドラマにチャンネル合わせるのよな。そういうことなのな。

 で、ふと思ったんだけど。
 朝青龍でも金正日でもいいよ、この間、資金の流用問題で顰蹙買った政治家でも良いや。そういう連中ってさあ、記者会見を開いて泣いて見せればいいと思うんだよな。え?そんなことすれば自分の非を認める事になる?
 いや、いいの。昨今の日本人、事の正邪なんかどうでもいいんだもの。とにかく泣けりゃいいの。

 私が悪うございましたと懺悔し、その場でボロボロ涙をこぼして見せれば、我が国民はホイホイ感動して情にほだされて、どんな悪事を働いた奴であろうと、全部許します。今、国民はそんなメンタリティに成り果てているんだから。

 赤子の手をひねるようにたやすい、という奴ですよ、あなた。いや、ほんとにそのうち、誰かやると思うよ。すべての問題点を泣いてごまかし、無罪を勝ち取る大悪人、とかさあ。
 あっと。以上の文章でなにか文句を付けられた際には、当方も即、滂沱の涙を流して詫び、許しを乞う覚悟は出来ております。その時は感動してね。

宵の明星

2007-09-06 23:01:26 | 60~70年代音楽


 ”Salty Dog”by Procol Harum

 今回の台風9号は私個人に危害を加えるべく、つけ狙っている。それだけは確かだ。テレビの気象情報など見ても、台風は私の地方、というより明らかに私の家を目指して進んで来ているからだ。

 昨日からの風雨は一段と勢いを増している。さっきちょっと外を見てみたのだが、国道沿いに植えられた椰子の木は風に煽られて葉のすべてが風下になびき、妙な姿となってしまっている。真ん中で折れるのではないかとも思える。
 電柱もかなりの勢いで揺れていて、こいつも本気でぶっ倒れるのではないかと心配になるほどである。

 停電は、ともかくしないで欲しい。なにしろひどい風でまったく外に出られないし、私には、こうしてネットするくらいしかやることがないからだ。

 これで台風自体はまだずっと南の海のむこうだというのだからなあ。私の住む、この地方に上陸するとすれば、明日の夜明け頃とか言っているが、この荒れようでは街自体が持つかどうか分からないぞ、そんなに先まで。

 外を眺めると、夜の街の外周が白くけぶり、淡く光っているのが不思議だ。あれは風に吹き飛ばされた雨が霧状になって空間を埋め、それが街の生活光を受けて光っているのだろうか。
 風は、町の通りの、普段は音なんか立てないような場所までも入り込み、ガタガタと大きな音を立てて走り抜けて行く。

 通りを行き交う人も、車の影もない。そりゃそうだよな。というか、こんな時に出かけねばならない用事が出来ない事を祈るばかりだ。本来であれば興味本位で海でも覗きに行きたいのだが、この風雨ではとても無理であって。
 子供の頃、台風の日の海は波が荒くて面白かったので好んで泳ぎに行ったものなのだが、今日ではそんな事は考えられないだろう。台風の荒れようも昨今は余裕がないなあ、などと呟いてみるが、科学的根拠というものがない。

 嵐を描いた音楽は、などと考えてみると私の場合、英国のロックバンド、プロコルハルムの1969年度作品、3rdアルバムの”ソルティ・ドッグ”に収められた”宵の明星(Wreck Of The Hesperus)”なんて曲をまず、思い出してしまう。

 曲の冒頭の性急な感じのピアノの分散和音や、間奏で奏でられる緊迫した表情のストリングスが、嵐による大波に翻弄される大航海時代の帆船の姿など、見事に描き出している。
 しわがれた声で歌い上げられる教会っぽい和音進行のメロディは、信心深い水夫が、マストにすがりながら挙げる神への祈りを想起させる。そして彼の頭上に輝く不可思議な聖跡、セント・エルモの火。中天に懸かる宵の明星・ビーナスは、彼等水夫の守り神なのだろうか、

 なんて光景があの歌を聴くたびに浮かんでくるのだが、歌詞の意味をきちんと聞き取ったことがないので、そのようなテーマの音楽なのかどうか、実は私は知らない。いい加減な話である。

 ともあれ。あの頃のプロコル・ハルムは良かったなあ。船の側面に縛り付けられている木製の浮き輪の中にヒゲ面の水夫が下品に笑っている意匠の、”ソルティ・ドッグ”のジャケ画。あれからしてもう、海の、潮の香りが漂ってくるものだった。

 プロコルハルムというバンド自体にも、どこかしら海の匂いがしていて、いかにも七つの海を制覇した大英帝国のバンド、という感じだった。
 そいつがいつの間にか潮の香りをぬぐい捨てて内陸性の(?)クラシカル・ロックのバンドになってしまい、私の興味の外に去ってしまった。

 私を魅了したプロコル・ハルムの”海のロマン”は、偏屈なキーボード奏者、マシュー・フィッシャーがバンド退団の際に一抱えにして持っていってしまい、そして彼は自身のアルバムで、そんな海への視線を感じさせる歌の数々を発表し続けた。
 けどマシュー・フィッシャーなんて、聴いたことのある人も、あんまりいないみたいですね。もったいないなあ。いい歌、歌うんですけどね。まあ、しょうがないか。

ブライアンこそストーンズ!

2007-09-05 03:33:43 | 60~70年代音楽


 ネット上の知り合いの”バッキンガム爺さん”さんのところでうかがったのだが・・・いまどきの”自分はローリング・ストーンズ通である”と自称する連中においては、

>どうしても『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』
>『メイン・ストリート』そして『スティッキー・フィンガーズ』じゃないと
>ストーンズではない

なんて事になっているそうなのである。

 な~にを言っておるのかと。いまどきの”自分たちはストーンズのコアなマニアである”などと自称している連中は、まさに”半可通”の典型例みたいな奴らなんだなと、私は呆れてしまったのである。情けなくなってしまったのである。
 何も分かっておらん。バンケットからフィンガースまでだと?ああ、嫌になるくらい普通のロック観をお持ちで、まことに結構なお話でございますなあ。

 そんなものを”傑作”として褒めそやす感性、なんて月並みな”ロック理解”なんだろう。
 そんな退屈な価値観しか持ち合わせないなら、ストーンズの理解者ぶるなどやめておくがいい、片腹痛いわい。
 そんな凡庸なロック観を並べ立ててストーンズの通のような気分になっている連中がでかい顔をしているのがマニアの世界とは、いまどきのストーンズ・ファンも不幸だ。

 ストーンズが最高だったのは、ブライアン・ジョーンズがメンバーだった頃、彼が生きていた頃、それに決まっているじゃないか。60年代、あの”スゥインギン・ロンドン”の熱くてヤバい空気が伝わってくるようなヒット曲群、あの妖気漂うスリリングな感触を理解できないのか!
 あそこでブライアンがかき鳴らしていたVOX製のビワ型ギターの、ブルース・ハープの、スライドギターの、そして時にはシタールやマリンバの響きの、聖なる猥雑さが聞き取れないのか?

 ストーンズとはすなわちブライアン・ジョーンズなのであって、彼の死後のストーンズなど、単なる出しガラに過ぎない。

 ”バンケット”から始まる70年代の一連のストーンズ作品、そのラフでタフなブルース・ロックの響きを評価したがる気持ちもわからないでもない。正直を言えば私も、”メインストリート”の発表当時、そのアーシーなロックの響きに、その出来上がりの見事さに舌を巻いた記憶はある。
 だがしかし、同時に、不思議も感じた。そんなに良い出来上がりのロックのアルバムであるにもかかわらず、なぜ自分は、このアルバムに愛着を感じないのか?
 今なら、その答えは簡単に分かる。そこにブライアン・ジョーンズがいないからだ。

 ストーンズの一連の70年代作品。それは実は遠い昔、まだロンドンの不良少年だったブライアンが夢見たロックの道の果てに、当然の帰着として現われたものに過ぎない。ミックもキースも、とうの昔にあの世に旅立った者の引いたレールにただ乗り込んで旅をしただけ、それだけに過ぎないのだ。
 そこに素晴らしいサウンドはあっても、そこに核となる魂が不在だ。だから私は”メインストリート”を客観的評価はしても愛することは出来なかった。

 そして・・・だから見ろ、ストーンズはいつの間にやら歌う蝋人形、クリエイティヴな側面など見るべくもない、単なる”大企業”と化してしまったではないか。

 もう一度言う。実はブライアンがストーンズだ。ブライアンだけがストーンズだ。だから、ストーンズが最高だった頃は、ブライアンが生きていた60年代でしかありえないのだ。

太陽と石の道から

2007-09-04 00:33:47 | 南アメリカ


 ”Identidades”by Maria Ines Ochoa

 「この新大陸の先住民は、海を越えてやってきたヨーロッパの人々を始めは、もしかしたら神ではあるまいかと半ば信じ込み、オズオズと歓迎の儀式をしました。
 そんな彼らにヨーロッパからの人々はためらうことなく襲いかかり、神殿を破壊し、富を奪い、人々を虐殺し、あるいは女たちをてごめにしました。
 そんな風にして行なわれた強姦によって生まれた、この大陸の先住民とヨーロッパ人、双方の血を受け継いだ子どもたち。その子孫が私たちなのです」

 照りつける中央アメリカの太陽の下、人の良さそうな笑みを満面に浮かべた老人にそんな話をされても対応に困るのだが、話者は全面的に聞き手に対する好意としてその歴史を語っているのである。
 しばらく前にテレビで放映されたメキシコの歴史に関わるドキュメンタリー番組の一齣だ。

 1960年代、たとえばマンボブームなどと言うものが世間を騒がせたりもして、ラテン音楽が全世界的なブームとなった時期があり、その頃の最先端を形成していたのがメキシコの大衆音楽だった。たとえば、手元に当時、ナット・キング・コールが発表したラテンのヒット曲ばかりを歌ったアルバムがあるのだが、収められている曲のほとんどはメキシコのヒットメロディだったりする。

 あの時期、なぜメキシコ音楽は世界音楽の最前線に踊り出るのが可能だったのか、またなぜその後、メキシコ音楽は国境線の内側に隠遁したままなのか。
 その辺は不勉強で分からない。というか、納得できる答えを出せる人もいないのではあるまいか。

 今回のアルバムは、かってメキシコの”新民謡”を代表する歌手としてメキシコ大衆に愛され、その人気の絶頂期にこの世を去った大歌手”アンパーロ・オチョア”を母に持つ若い女性、マリーア・イネスのデビュー盤である。

 歌うのは母と同じ、メキシコの大地に根ざした民謡調の曲ばかり。偉大過ぎる母と、完全に同じ土俵で勝負している。まるでその名跡を継ぐ、みたいな感じで、母のいくつかの名高い”持ち歌”さえもを歌っている。

 たとえば長嶋一茂なんて人を思い出しても、偉大過ぎる親の歩いた道をそのまま辿りなおす事のしんどさは想像が付く。何を好き好んで、と思うのだが、ジャケ写真の彼女はサトウキビ畑の中に佇み、両手を広げて微笑んでいる。
 母の残した”名”と、それがもたらす運命を、まるで歓迎するかのように明るい笑みを浮かべて受け止めようとしているようだ。ごく自然に。

 その姿勢と同じように、マリーアの歌唱もきれいに背筋を伸ばした素直で力強いものだ。まるで屈折することもなく、マリーアは偉大なる母の歩んだ道を、ごく自然に歩んでいる。
 メキシコの伝統に根ざした、あくまでも地に足の着いた、素朴過ぎる歌。社会の矛盾を告発し、欲におぼれた権力者に怒り、たくましく生きる無名の庶民へ賛辞を贈る歌詞。

 このようなタイプの歌がメキシコでは、どれほどの規模と深さで大衆に愛されているのか、私には想像もつかない。おそらく音楽の紹介者は、自らの視点に有利なように現実に下駄を履かせて語るであろうし、その解説をそのまま信じて良いのか、私には今のところ、判断できずにいる。
 なとという解釈もひねくれているのだろうが、まあ、あんまりお人よしにしていると妙な事になってしまう。これは、世界中あちこちの音楽に接してきた体験から学んだことなので、マリーアにもお許し願うしかないのだが。

 しかしまあ、このような歌を民衆が好んで聞く、と信じたくもなるようなメキシコの近代史ではある。

 そういえば昔、永六輔が、ある落語の大師匠にメキシコの大衆歌謡を聞かせたら、「私は外国の音楽は良く分かりませんが、この音楽の国、ずっと周りからいじめられてきたんじゃないですかね?」と尋ねられた、などと語っていた。「さすが一芸に秀でた人は、物の本質を見抜く力がある」と言う意味合いのエピソードとして永六輔は紹介していたのだが。

我がプログレ20選

2007-09-02 00:58:27 | ヨーロッパ


 ”Ojciec Chrzestny Dominika ”by Jozef Skrzek

ネット上の知り合いである”バッキンガム爺さん”さんのサイトで、よもやと思ったプログレが話題になっていたので私も尻馬に乗り、”我がフェバリット・プログレッシヴロック・アルバム20選”など挙げてみることにする。まあ、あれこれ解説は後にして、まずは20枚を。

1)Area / 1978 (Italy 78)
2)Banco del Mutuo Soccorso / Io Sono Nato Libero (Italy 73)
3)MAURO PAGANI / Same (Italy 78)
4)Triana / El Patio (Spain 75)
5)PFM /Per Un Amico (Italy 72)
6)Kebnekaise / Ⅱ(Sweden 73)
7)Osanna / Palepoli (Italy 72)
8)Samla Mammaz Manna / Klossa Knaptatet (Sweden 74)
9)Companyia Electrica Dharma / Tramuntana (Spain 77)
10)Formula 3 / Sognando E Risognando (Italy 72)
11)Pooh / Persifal (Italy73)
12)Omega / Gammapolis (Hungary 79)
13)Le Orme / Uomo di pezza (Italy 72)
14)Franco Battiato / L ombrello e la macchina da cucire (Italy 95)
15)Arti e Mestieri / Tilt (Italy 74)
16)Demetrio Stratos / Cantare la voce (Italy 78)
17)Alameda / Same (Spain 79)
18)Il Volo / Same (Italy 74)
19)Aphrodites child / 666 (Greece 70)
20)Jozef Skrzek / Ojciec Chrzestny Dominika (Poland 80)


 何か重要な作品を忘れているような気もするが、こんなものでしょう。

 ご覧になったとおり、イタリアものがやたら多いです。どうもこれ、私が音楽ファンとしての自覚を持つ以前、極初期の思春期ごろになんとなく好んでいたイタリアの歌謡曲、カンツォーネの、あの下世話で甘美な幻をイタリアのプログレに求めている気配があります、私には。だからまあ、純粋なプログレのファンではないと言えるかもしれない。

 そもそもワールドミュージックのファンであるところの私の視点としては、プログレなるものをヨーロッパの土俗音楽と定義しておりますし。(つまり、トラッドよりも、もっと泥臭い音楽であると考えているのであります)


 怪物・ディメトリオの、地中海古典声楽にヒントを得たといわれる奇怪なヴォーカルをメインに押し立て、バルカン半島の民俗音楽をジャズロック風に止揚して、強力にスイングするサウンドを作り上げたAreaの作品はどれも素晴らしく、79年のディメトリオ突然の夭折によって、この素晴らしい地中海ロックが永遠に失われてしまったのがいまだに残念でならない。

 Bancoは、あの強烈なイタリア臭さがたまりません。複雑に構築されたサウンドと、巨漢フランチェスコの、あの朗々たる”我らがテナー”な歌声と。

 スペインのフラメンコ・ロック(?)トリアナの、あの泥絵の具を塗りたくったような土着の、極彩色の幻想は凄かった。濃厚な、血の匂いに満たされた音楽世界には「ヨーロッパにこんな音楽もあったのか」と仰天させられたものでした。

 スエーデンのサムラ・ママス・マンナやスペインのコンパーニャ・エレクトリカ・ダルマなんて連中の、ヨーロッパ原住民にしか理解不能なのではないかと思わされるアクの強いブラック・ユーモアの世界に無理やり首を突っ込むのも、実に不快な快感でありました(?)
 
 (何がなにやらわけが分からん、と言う方へ。それが普通ですから、大丈夫)