ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

初秋

2007-09-25 03:20:00 | ものがたり


 午睡の中にあった。昼の日差しはまだまだ夏の面影だが、こうして風通しのよい居間に寝転んでいると、空気そのものの中に密かな涼気が忍び入っているのが感じられる。昼食後の怠惰なひととき。ほんの一刻、横になるつもりが、いつの間にか深い眠りに引きずりこまれていたようだ。

 ふと気が付くと、店で母と妹が、何事か会話を交わしているのが、聞こえてくる。妹が来ていたのか。隣りの町内に嫁に行った妹が”里帰り”に来るのは日々、特に珍しいことでもない。二人の会話の内容は、どこか不明瞭で、聞き取れない。話し声そのものが小さいのか、それともこちらがまだ夢うつつにあるせいか。

 再び眠りに入っていたようだ。睡眠は浅くなり深くなり、何事か夢は見ている筈なのだが、記憶には残らない。
 隣室から、先刻より咳払いの音が聞こえてきていた。聞き慣れた、が、このところずっと聞く事のなかった咳払いの音。それが、十数年前に死んだ父のそれであるのに気が付くまで、しばらく時を要した。

 父は、60過ぎても、言葉に妙なところで幼児語の切片が残っている男だった。眉毛の事を「マミヤ」と言い、魚の「鮎」を「あい」と発音した。「自分は人生の成功者であり、人生の成功者は人の集まりがあったところで壇上に上り、挨拶の一つもするものだ」と信じ込んでいた。だから宴席に臨むたびに当たり前のように乾杯の音頭を取ったのだが、実は彼は人前が苦手で話し下手の男だった。
 だから彼の”演説”は、頻繁な絶句と意味の無い咳払いが大量に含まれた、しかも、慣用句を継ぎ足しただけの、ほとんど中身の無い、無残な長話でしかなかった。生涯、彼は自分が下手糞な話者であると言う事実に気付かずにいたようだが。少しぐらいは「何か変だな」とか「なぜ、自分の話は他の”成功者”のように流麗ではないのだろう?」などといった疑問を持っても良さそうに思うのだが、その気配はなかった。
 「そうでありたい」と「そうである」とは、必ずしも同一ではない場合がある、というより、食い違うケースの方が圧倒的に多いのが、その種の客観性の欠如を抱えたまま、彼は鬼籍に入ってしまった。

 ついでに言えば父は、自分で思っているほどの”成功者”でもなかったろう、他人から見れば。
 父の残した借金を返すのには、若干の歳月がかかった。
 そんな父が生前、演説の場で絶句するたびに、持てない間を埋めんとするかのように頻繁に発していた、あの咳払いが隣室から聞こえてくる。

 横臥したままの私の視界に、天井近くにしつらえられた収納庫が入ってくる。あそこには、何が収められているのだろう。子供の頃から不思議で仕方がなかったのだが、その謎が解明される前に、家は改築され、収納庫は解体、破棄されてしまったのだった。

 居間の真下に、商品収納のための地下倉庫が作りつけられているのは、改築前も以後も変わりない。ただ、改築前の地下倉庫は、現在よりもずっと狭くて汚くて、なにやらすえた匂いがしていたのは、鼠の死骸などが、見えないどこかに転がっていたせいだろう。
 その地下倉庫からある夜、祖母の号泣する声が聞こえてきて、まだ幼かった私は、ひどく動揺した、そんな記憶もある。どちらかといえば気丈な性格の祖母であり、それが、そんな形で人目を忍んで泣かねばならぬ、どんな理由があったのか。何も分からぬままに、ただ私は祖母の泣き声のただならぬ激しさに怯え、一人、居間で震え続けたものだった。
 もう40年も前に鬼籍に入った祖母の泣き声が、遠く近くに聞こえている。それはとてもかすかな響きで、小さな胸の痛みを残しはするが、私の心を、あの日のようにかき乱しはしない。祖母の号泣の理由は、いまだ、分からぬままだ。

 母の声がし、私は午睡の世界から現世へと引き戻される。母は言う。これから妹と一緒に買い物に行くから、そろそろ惰眠を切り上げ店番にかかれ、と。私は冷め切った番茶を飲み干し、立ち上がる。
 コンクリートの箱として立て直されて久しい我が家に、雨が降るごとにひどい雨漏りに悩まされた、あの古い木造家屋、私が生まれたあの家の面影はどこにもない。

 店の表戸を開け、国道の向こうに広がる海水浴場を望む。砂浜に人影はない。夏の間にあれほど渋滞を繰り返した国道は閑散とし、すっかり弱まった日差しの下で、白々と東へと続いている。

 私は吹き抜ける秋風の中で大きく伸びをしてみる。足元に、干からびたトンボの死骸が一つ、飛び来たり、そしてまた、飛ばされて行った。