ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ポップインドネシア、ラテンの面影

2007-09-22 04:31:10 | アジア


 ”Cinta Pertama”by Bunga Citra Lestari

 とりあえず私、ワールドミュージックのファンをしているわけです。世界中のあちこちにアンテナを伸ばして、おいしそうな音楽を探している。
 どちらかと言えば嗜好は泥臭い。ポップスよりは歌謡曲、歌謡曲よりは演歌、みたいな。同じワールドものでも、”世界に羽ばたく芸術家”とか、”この国にもアメリカと同じような洗練されたポップスがあるんです”なんて歌手は興味がもてなくて、現地の裏町で愛されているようなイナタい、”港々の歌謡曲”的な世界に興味がある。まあ、そんな趣味であるわけで。

 ところが、場所がインドネシアとなるとやや形勢が異なって、なぜだか都会派のポップス支持だったりするんだから我ながら何を考えているやらよく分からない。
 インドネシアといえばワールドミュージックで最も初期に注目が集まったインドネシア演歌、ダンドゥッドをはじめとして、土俗ポップスの宝庫みたいなもので、その辺に興味のある向きはたまらない場所であるはずなのに、なぜかかの地に起きましては、その方面に背を向けて現地の都会派ポップスなど聞いている私なのであります。

 ここに取り上げるのもその一枚。いわゆる”ポップ・インドネシア”と言う奴ですな。
 ここでは土着の音楽はとりあえず無縁なのであって、ともかく洗練されたアレンジと美しいメロディラインによって、繊細な都会人の日々の感傷を密やかな憂いをこめて歌い上げる、そんな世界が提示されている。

 インドネシアの人口は世界4位だっけ?しかもさまざまな人種の坩堝。そんな国が赤道直下に広がっていて、政治的にも経済的にもたくましい蠕動を繰り返している。
 それはある意味、非常に生々しく暑苦しい現実であるんだけれど、この”インドネシアにもあるんです”的な洗練された都会派ポップスが描くのは、まるで別の世界。

 高層ビルのオフィスや瀟洒な郊外の住宅にはきちんと気温も湿度もコントロールされた清潔な空気が通い、高価なブランド物の服に身を包んだ人々がお洒落なラブロマンスに憂き身をやつす。
 事情を知らない人に聞かせたら、どこの音楽と思うんだろう?南欧かどこかのポップスと勘違いしても不思議はないだろう。少なくとも、赤道直下で消費されている音楽とは思えないんじゃないだろうか。

 でもこれも、世界の政治経済の明日に強大な潜在力を持って姿を写すインドネシアという大国の、もう一つの”リアル”であるのもまた確かであってね。
 で、自分がこの音楽のどこに惹かれているのか分析しますとですね、音楽のむこうで脈打っている”ラテンの面影”ではないかと推測しているわけです。

 インドネシアは長らくオランダの植民地であったのだけれど、古くから交易などを通じてポルトガル文化の存在が影を落としていたのは、たとえばインドネシアの古い大衆音楽、クロンチョンで使われているのがハワイのウクレレそっくりの弦楽器であったりするのを見ても明らかなのであって。あれは明らかにポルトガル原産ですからね。

 そんなポルトガルが遠い過去にさまざまな文物とともに当地に持ち来たって、インドネシア人の心の奥底に置き忘れていったと思われるラテンの激情の影がおりに触れて、このシンと澄んだクールなポップスの奥底で揺らめく、その辺に惹かれるんですよね。
 それを思う場合、独特のインドネシア語の響きがまた良いのですね。ちょい巻き舌で発音されるインパクトの強いインドネシア語がここでは、なにやら”擬似ラテン語”的な響きを持って迫ってくる。

 音楽的にはロックやソウルの影響しか感じられないけれど、魂の揺らぎのありようがいかにもラテンである。とは言え、その音楽はロックともソウルともラテンとも関係のない、喧騒のアジア最前線、赤道直下の地である、インドネシアに存在している。その辺の矛盾がまた、聞いていてスリリングなものを生み出しているんですな。
 あるわけのない音楽がそこにある。エアコンの効いた居心地の良い室内から窓ガラス越しに見下ろす、灼熱の、喧騒のメインストリート、そんな感じ。