ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ケルトを敵とする日

2007-09-18 05:16:16 | 音楽論など


 昨今、妙に見ていて苛立つテレビ・コマーシャルというのがあって、あれはハンディカムというのか、小型の撮影機材。正式には、”パナソニックのハンディカムSDハイビジョンムービー”と言うらしいが。
 そいつを娘の運動会に持って行く母親、なんて設定のCMである。

 で、娘に「ハイビジョンで取ってね」とか言われた母親たちが右手を外に開くと掌に収まるくらい小型の撮影機が現われる、なんて運びの映像。
 それら、母親に扮した出演者たちがいかにもモデル丸出しな気取り倒した雰囲気を醸し出していて、なんか鼻につく。まずそこが気に入らないのだが、それは今回の文章の主題ではない。

 どうも、それに被る音楽が私を苛立たせているようなのだ。それは、セリーヌ・ディオンが歌う「To Love You More」なる歌らしい。なんというか劇的な、まるで大作映画一本終わったかのような大仰なバラードなのだが、そのメロディ、いわゆる”ケルト的響き”と言う奴を感じさせる代物である。
 おそらくそんな感じに聴こえるように作られたメロディのはずだ。哀切さのうちにケルティックな神秘を秘めて渡って行く、そんなメロディであるように。

 どうもその”ケルトもどき”のあたりが、私を一番苛立たせているんではないかって気がするのだ。

 思えば、”いかにもケルト”なメロディが我が国のテレビCMのBGMとして使われるのは、いつの間にか珍しいことではなくなっている。
 ”シェナンドー”やら”サリー・ガーデン”やらと、かっては、自分のリスニングルームの中でしか鳴り響くことのなかったそれらメロディが、晩飯食ったり税務署に提出する書類を作ったりの日常空間の一瞬に、テレビCMとともに流れ出るのに、こちらもいつの間にか慣れはじめている。

 ヨーロッパの古代史の中で、時の流れに吸い込まれるように消滅していった謎の民、ケルトの人々が残した独特の玄妙な響きを持つメロディ。ケルト民族の存在自体が孕んでいた謎が、そのメロディにさらに奥深いロマンを付加した。
 若い日、私は気ままに心のうちに描いた、あまり科学的根拠のない幻想を弄びつつ、ケルトのメロディが収められたレコードに飽きることなく向い、時間を過ごしていた。

 独特の哀切さを秘めたメロディと不可思議な文様美術を残し、遠い古代に滅びた正体不明の民族の神秘。現実との折り合いを要領よくつけることもままならず、無為な日々を怠惰に送る青少年には、まあ相応な愛玩物でもあったのだろうと思う。

 いったい、今日のCMの世界における”ケルト・ブーム”に、いかなる裏の理由があるのか?私はいまだに知らずにいるのだが、ともかく、青春時代の孤独な幻想の呪物が今頃になって日向臭い日常に持ち込まれ、日常的な道具扱いで消費されるのは、あまり気持ちの良いものでない。

 ここで時代はもうどれくらい経ってしまったのだろう、劇作家の寺山修司が生きていた頃に戻る。それはNHK教育テレビの”日曜美術館”なる番組で、その日の特集は、シュールな画風で知られるルネ・マグリットだった。寺山は語っていた。

 「かって僕らは、マグリットが描いた山高帽の紳士が演じた超現実の夢に己が想像力を託した。が、マグリットの描いたイメージは今日、テレビCM等の現場で散々援用され、消費され、山高帽の紳士は退屈な日常の一齣となってしまった。
 今、僕らは、かって僕らが愛した山高帽の紳士を敵とする事から、もう一度はじめねばならないのかも知れない」

 なるほど。今頃になって私は、あの頃の寺山の言葉を妙に生々しく反芻するのだった。そう、どうやら私は、かって愛したあのケルトのメロディを敵とせねばならぬらしいのだが・・・

 (冒頭の画像は、アイルランドに残存するケルト民族の古跡)