ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

30年目の幻滅

2007-03-17 04:49:07 | その他の評論

 文庫本を買っておいたものの、なんとなく読みそこなっていた矢作俊彦の「ららら科学の子」を、やっと読破。つまらなかった。

 30年前、中国へ密航したままだった学生運動の闘士が、”蛇頭”の船で今日の日本に帰ってくる。主人公の目に映る、変わり果てた日本の姿。さて、何が起こるのか・・・なんて物語。きっと面白いと期待していたので、読後、思い切り拍子抜けしてしまった。

 矢作は手持ちの駒、つまり60年代末期の学生運動の挿話やら文化大革命当時の中国の無残話やら、小説の話や映画の話やらを次々に絢爛たる絵巻物として繰り出すのだが、なんだか「ああ、またか」みたいな既視感ばかりが生じてしまうのだ。おお、この退屈さは何だ。意味ありげなケレンばかりが目に付いて、でもその向こうに新しい発見って何も見えてこないんだ。

 ”変わり果てた日本”と”行き過ぎる時代”を前にしてかっこ悪く傍観者の姿勢を取る主人公のかっこよさもまた、すでに見飽きた予定調和の世界としかこちらの心に響いてこない。主人公は見物人に終始するばかりで、それに積極的にかかわるわけでもなし、エンディングも、なんだかとってつけたような”ちょっといい話”で、こんなのつまらん。

 帰国した主人公の目に映る、30年の間に変わってしまった日本の様相などを並べ立てての時代への違和感の表現など、まるでありきたりの文明批判と言う感じで、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
 60年代末、漫画家ダディ・グースとして颯爽と登場した矢作のかっこよさに私たちは、何の疑いも無しに最上級の喝采を送ったものだった。だったのだが。

 ”小説家”となって再び人口に膾炙するようになった彼に、まさに30年ぶりに再会した私もまた、変わり果てた日本と、そのむこうに屹立してくる真実を見てしまったこの小説の主人公と相似形の体験をしたと言えるのかもしれない。
 その結果、分かってしまったもの。それは、”矢作、というかダディ・グースって、かっこつけてただけじゃないの、要するに?”である。

 うん、そう思うよ。かっこいい表現者を演ずる才に長けている、それだけの人。当方、そのように結論つけました。以上。うん、無茶な結論かも知れないけど、こう考えたら、なんか青春時代から抱えてきた憑き物が落ちたみたいでね。だからまあ、むちゃくちゃでもかまわないや、と。

ブラインドバード喪失

2007-03-16 00:15:56 | 60~70年代音楽


 ヒロミツ氏の死去を悼む特別企画として。ヒロミツ氏が彼のバンド、モップスを率いて70年代はじめにヒットさせた「月光仮面の歌」って、ありましたよね。昔のTV番組の主題歌をスロ-ブル-ス形式に変えて歌った他愛ないコミックソング。それをモップスが野音でやったある夜のことなど思い出してみたい。

 時は1970年代の極初期、場所は日比谷の野音、ということで意識のタイムスリップ、の上、読んでいただきますようお願いします。

 今、まさに売れている最中のヒット曲であり、と言うことで、皆、そこそこ喜んで聞いていたのだ、その曲を。が、その途中。
 ギタ-の星勝がデタラメ言語で何やら喋り、それをヒロミツが「月光仮面のオジサンは、こう言っております」とか「翻訳」してみせる、まあ、曲の笑わせ所、そこにさしかかったとき。

 それまでステ-ジのすぐ下で、シンナ-とかやってたのかなあ、寝ころがっていた、年季の入った感じのヒッピ-氏が。いや、古い言い方でフ-テン族と言ったほうが雰囲気が出るが、彼が「ウエアアアアアア」とでも表記するしかない奇声を大声で発したのだ。
 すると、なんとなく。何となく、一瞬、その場の空気が白けた。星勝のデタラメ語も急に元気がなくなってしまい、ヒロミツの「翻訳」も「う-んと。え-と」とほとんど絶句状態になってしまった。
 
 そんなしどろもどろのまま演奏は尻すぼみで終わり、その後のモップスの演奏も、調子を取り戻す事のないままだったと記憶している。

 つまりフ-テン氏は、モップスのステ-ジを奇声でブチ壊してしまったのだ。が、私の心のうちには、なぜかその時、彼に対する怒りはなく、それどころかむしろ、「正しいのは彼のほうだ」みたいな思いがあった。
 おそらく、会場にいた他の皆も同じ思いだったのではないか。皆のあいだにも彼に腹を立てる雰囲気はなく、むしろ急に夢から覚めたように、モップスの演奏が失速して行くのを、静かに見守っていたのだ、なぜか。

 さらに言えばモップスの面々も、恐らくは何らかの思いを味わっていたのではないか。それはたとえば、”後ろめたさ”といったような。でなければ、あれほどのベテランバンドが、客席からのたった一度の奇声で、あそこまで調子を狂わせてしまう筈がない。

 そのフ-テン氏はあの時、まるで、「王様は裸だ」と叫んだ子供のように、その奇声によって皆を、一時、目覚めさせてしまったのだ、と私には思えてならないのだ。
 彼は、おそらくは無意識に、皆に問いかけたのだ。「そんな幼稚な悪ふざけではなく、今、この場で、もっと切実なロックが奏でられるべきではないのか?」と。そして、モップスの面々も含め、その場にいた者すべてが、冷水を浴びせかけられたように、一瞬、無邪気な祭りの夢から覚めてしまったのではないか、あの時?

 もちろん、「何故、彼のその一声が、それほどの力を持ちえたのか?」と問われたら、「ツボに入った」とか「何となくそう思う」等という間抜けなものしか私に答えはないし、その時遭遇した状況を、勝手に自分の思い入れで解釈してしまっているだけと言われればその通りなのだが。しかし、「夢の70年代」の終わりは、もうその頃には始まっていた、そんな気がする。

 その後モップスは、フォーク歌手の吉田拓郎の作になる”たどりついたらいつも雨降り”なるフォーク曲を歌い、”ジーンズと下駄履きの、白いギターを持った気の良いお兄さん”を求める当時の日本の大衆の心情におもねる道を歩き始め、多くの支持を集めた。そして私は、彼らに興味を失っていった。

 言い切るが、モップスはデビュー時、1stアルバムを出した5人組だった頃だけがロックだった。サイケだった。
 まだまだぶきっちょだった黎明期の日本のロックの極北からファズ・ギターの響きとともにやってきて、もう一つの世界の扉を開けてくれたように思えた。当時、田舎で一人、孤独にフィルモアの夢など見ていたロックファンのガキたる私には。
 なのにのち、4人組になってからは坂道を転げるように退屈になって行った。

 と言っても、秘密の鍵を抜けた一人が持っていたって話じゃない。毎度おなじみ、”生きて行くのはなかなか大変なんだよ”って話をしているわけだ。
 こいつに勝てた奴はいないから仕方がないし、これからは4人組になってからのモップスのことは思い出さないでいてあげよう。

嫌いだったんだね、「たどりついたら・・・」が

2007-03-15 02:21:59 | 60~70年代音楽


 モップス時代のヒット曲に、吉田拓郎作の「たどりついたらいつも雨降り」があるが、ヒロミツ氏は「嫌いな曲だけどヒットしたから仕方なく歌っていた」と語っていたそうだ。

 死去を伝えるニュースのハザマでそれを聞いて、なんだか「せめてもの救い」みたいな気分になった。

 昔々、モップスは好きだったけど吉田拓郎は大嫌いで、だからなんか釈然としないものを感じていたんだ。でも、そうかそうか、商売だから嫌々歌っていたのか。それならいいや。

 いや、良くはないけど。まあ、しょうがないやね、世の中、ままならないものだから。

 グッバイ。

 ○鈴木ヒロミツさんが死去
 (日刊スポーツ - 03月14日 14:31)
 歌手やドラマの脇役などとして活躍した俳優の鈴木ヒロミツ(すずき・ひろみつ、本名=弘満)さんが14日午前10時2分、肝細胞がんのため東京都千代田区の病院で死去した。60歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
 1967年、グループサウンズ「ザ・モップス」のボーカルとしてデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などのヒット曲を出した。
 その後、俳優に転身。「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画などの脇役として多数出演したほか、歌番組「レッツゴーヤング」の司会などで幅広く活躍した。

赤道直下、亜細亜、南欧。

2007-03-14 01:52:29 | アジア


 ”Meriam Bellina Vol.1”

 この人の歌に関して書こうと思い、いろいろ資料を求めて検索してみたんだけど、女優としての実績がほんのちょっと紹介されているだけで、歌手としてはたいした評価をされていないんだろうか?と首を傾げてしまった。冒頭にステージ写真でも貼ろうとしたんだけど、これも”女優”としての画像しか見つからないし。

 ワールドミュージック好きがまず注目するインドネシアの音楽といえばダンドウットだろうが、なぜか私はあんまりその方面に興味がない。タイあたりをはじめとして、他の東南アジア諸国の音楽に関しては泥臭い嗜好であるのに、なぜかインドネシアものに関しては、そのあたりに関心がない。我ながら妙だなと思うのだが。

 で、インドネシアものは何を聞いているかといえば、ポップ・インドネシアを聞いている。要するに土着の臭いのない、都会派のポップスであるのだが。こいつがちょっと良いのだ。気に入ってしまっているのだ。

 赤道直下の島国であるインドネシアで、冷房の効いたひっそりと静まり返った清潔なオフィスで過ごすお洒落な階層のための音楽って感じで、本来の私が好きになるはずはないんだが。まあ、香港あたりの洗練された、アジアの大地から数センチ浮き上がっているポップスの退廃を楽しむのと同じような趣味で好んでいるとでも言えばいいのか。

 たとえばこの美人女優兼歌手であるMeriam Bellinaのアルバムを、なんの予備知識もなしに聴かされたら、どこの国の音楽か分からない人は当然、出てくるだろう。これはポップ・インドネシアの、まあ懐メロ集みたいなものらしいが、その”ノスタルジック”はアジアの方を向いていない。Meriam Bellinaが可憐な声で歌い上げるのどかな美しさに満たされた歌の数々は、不思議な南欧情緒みたいなもので溢れている。

 雰囲気としてはポルトガルあたりのさらに南に無理やりもう一つのヨーロッパの国を作ってしまったような。からりと晴れ上がった空に時を経た石作りの古城が聳え、海を渡って来た風に吹かれて、征服者の王の記念像は大西洋の彼方を指差す。そんな架空の国から聴こえてくる、古きよき時代をいとおしむ昔々の歌謡曲。

 それはかって、インドネシアを植民地支配していたポルトガルがそこを支配した事の”副作用”としてインドネシアの民衆の感性の内に刻印し、そのまま置き忘れていった”ラテンの血のエコー”とでも言うべきものなのだろう。罪深い話なのだが、流れ去った歳月が、理不尽な植民地支配の生々しい罪の行方を曖昧なものにしてしまっている。

 Meriam Bellinaはそれらの感傷を、あくまで自らの土地の伝承として歌っている。その”南欧気分”はインドネシアの人々にとって、もはや借り物でもなければ押し付けでもない、地に足の着いた昔ながらの肌に馴染んだ感傷として成立してしまっている。時の流れという奴は、いつでもなかなかの曲者である。

 その感傷がかって、”ポップ・インドネシア”として洗練された都会の生活者の心情を歌おうとする際に浮かび上がって来ていたという構造に思いをいたせば、長い長い時は流れても”ヨーロッパの旦那方”による当地への魂の支配は続いているとも言え、複雑な思いが浮かび上がらないでもないのだが。
 いや、今日の”ポップもの”が、これは世界各地で起こっているのと同じようにアメリカ文化の支配下にある現実をむしろ憂えるべきなのだけれど。

 (冒頭の写真は、植民地時代のインドネシアの風景)

不可視の煉獄

2007-03-12 22:47:19 | 音楽論など


 ”Le Sacre Des Lemmings”by Tete

 なんかフランスの音楽を紹介する人たちに共通するおかしな雰囲気、というものを私は感じてならないのだが、あなた、どうですか?

 ともかくそれらの人々の文章においては、手放しのフランス賛歌が延々と展開され、音楽を紹介したいのかフランスなる国のコマーシャルをしたいのか、ついにはわからなくなってくる。宗教の勧誘なのかこれは?フランス真理教とか、そういうものの?うさんくさい。どうにも臭う。
 私が最近のフランス発の音楽に興味が持てないのも、そのあたりに原因の一つが確実にある。

 ここでラテン音楽の雑誌である”ラティーナ誌”の07年3月号、「スラム」なるフランスで起こっているムーブメントについて述べた昼間賢氏の文章を例にとる。(ちなみに「スラム」とは、昼間氏の解説によれば”ラップから音楽を取り除いたポエトリー・リーディングの一種”なのだそうだが)

 まず、スラムなるムーブメントへの賞賛が続くのだが、それはそういった類の記事であるのだから良いとして。文章が佳境に入ると、”長らく「自由・平等・友愛」の理想を掲げてきたフランスでスラムが好まれるのは自然なこと”なんてフレーズが飛び出し、「一体今はいつなのだ?」と唖然とさせられてしまうのだ。

 やがて”黒人でイスラム教徒のスラマー”なる人物の「フランス人であることとは、宗教を問わない民主主義的な哲学と常に連帯しているということだ」なんて発言が引用され、ああまた始まったのだなと頭を抱えさせられる。いつの間にか論の主題は音楽ではなく、”フランス”になってしまっている。
 そんな具合に記事は音楽に関する話のようでいて、その裏面に、”異なる宗教や人種を飲み込む度量のある、偉大なるフランス文化”賞賛のメロディを盛大に奏でながら進行して行く。

 他の人々の文章も大体がそんな具合。いちいち引用しているときりがないのでやめておくが、ともかく論の決着するところは常に”フランスは偉い。フランスは偉大だ”であり、この人たちはほんとに日本人か?と、以前、南太平洋で世界中からの非難を横目に行なわれたフランスの核実験など、ふと思い出したりするのである。

 そんなに異なる世界からの流入者に寛容なフランス社会であるならば、なぜいつぞやのように移民たちが暴動など起こすのだと突っ込みたくなるが、それを見越して、すでに”フランス信奉者”の人々からの答えが用意されている。
 いわく、”それこそフランスが時代の最先鋭である証拠である。他の国々は、暴動を内包するレベルにさえ達していない”と。なんだかここまで来ると汚職がばれちゃった政治家の言い訳みたいになってくるが、ご当人は大真面目のようだ。

 これに関しては私が突っ込まずとも、同じ”ラティーナ”07年2月号誌上にインタビューが掲載されている、西アフリカ生まれフランス育ちの黒人ミュージシャン、”テテ”がフランスにおける人種差別に関して重要な発言を行なっていてくれている。やや長めであるが引用する。記事は、各務美紀氏による。

 「今、フランスでは、誰もそういう問題について指摘してはいけない、とっても気味の悪い雰囲気があるんだ。ストレートな表現の歌をラジオでかけてももらえない、というように。(中略)アメリカでの人種差別とフランスでの人種差別はまったく違うものなんだ。アメリカでは誰もが人種差別があると意識していて、コミュニティも混在している。フランスでは共和制の秩序として、個人と民族的コミュニティとの関係を断ち切らなければいけない。(中略)この国でマイノリティが人種差別について何か体験を発言するということは、差別された分の責任を負うということなんだ。”問題を抱えているのはあなただけではありません。それは、あなたの努力不足が原因です。あなたこそ社会に溶け込もうとしていないのでは?あなたの責任です”と。」

 何が”自由・平等・博愛”だろうかと。こいつは巧妙に仕組まれた偽善の煉獄ではないか。

 ”フランス文化に敬意を払い、それを学べば、土人のお前も人間扱いしてやろう”というのがフランス文化の異人種への基本姿勢と当方は認識しているのだが、ここで話題にしている”日本人にしてフランス真理教信徒”の人々というのも、その”フランス文化の関門”の蟻地獄に真っ正直にはまり込み、”フランス文明を称揚すること、すなわち自分の存在証明”くらいに思い込まされてしまっている、ある意味、被害者ではあるまいか。

 などと考察している私なのですが、冒頭にジャケ画像を掲げたテテの最新アルバムを買おうかどうしようか迷っております。興味は惹かれるものの、フランス語の歌が苦手でしてね。いや、もはやフランス語そのものさえうさんくさく聴こえてしまうこの頃なのでありまして。

ディメトリオの”声の歌”

2007-03-10 01:23:42 | ヨーロッパ

 ”CANTARE LA VOCE”by Demetorio Stratos

 とりあえず、このアルバムのジャケ画をとくとご覧ください。天を仰いでハミングするアルバムの主人公、歌手のディメトリオ・ストラトスの喉にもう一つの口が開き、どうやらもう一つの歌を歌っているようですね。気持ち悪いですねえ。

 中に入っている音楽もこんな感じなんですよ。伴奏も何もなし、ただ歌手一人の声のみによるさまざまな声楽上の実験が収められている盤なんです。
 モンゴルのホーミーに影響を受けたんでしょうか、一度に二つの声を出してみたり、もともとディメトリオが探求していたギリシャの古典声楽に元ずく奇奇怪怪な発声法などなど、ともかく”どこまで人間の喉は妙な音を出せるか”に焦点を絞ったかのような不思議世界が展開されている。

 このアルバムを持ってる人なんてものは、思い入れでコレクションに加えているだけで、盤に針を落として音を聞いたりしませんな。こんなわけの分からない音楽、聴いたってしょうがないんだもの。
 でも、だからといってその盤を手放すことは決してない。むしろいとおしがって、レコード棚の一番良い場所にしまっておく。マニアのやることは、やっぱり尋常じゃありません。

 さらに、そんな聴きもしないアルバムを、アナログ盤だけではあき足らず、CD再発されたらそれもさっそく買い込んでるんだから、何を考えていることやら。まあ、そんな連中の一人が、かく言う私なんですが。

 このアルバムの主人公、ディメトリオ・ストラトスは70年代、イタリアで活躍した非常に個性的なプログレバンド、”AREA”の歌手であり、創造的エネルギーの源でした。
 アラブ~バルカンの民俗音楽とジャズロックが地中海独特の太陽パワーを炸裂させつつ、強力にバッテイングし燃え上がった”AREA”というバンドも素晴らしいバンドだったのですが、78年、中心人物のディメトリオが白血病で急死してのち、急速に失速して行きました。というか、バンドの魅力の相当部分をディメトリオが負っていたのだから、それも仕方がない。

 とはいっても諦め切れないファンたちは、ディメトリオが何枚かのソロ・アルバムを残している事を知ると、大喜びでそいつを買い込み。そして。「なんじゃこれは?」と呆れ返ったのです。その盤に収められていたのは、あの素晴らしかった”AREA”のサウンドとは似ても似つかない音楽だったからです。つまり上述の奇怪千万なる実験声楽。そんなソロ・アルバムばかり遺していったのですな、ディメトリオは。
 とは言え、これもまた敬愛するディメトリオの音楽であるのに違いはないのだから、無下には扱えない。

 ここで、我ながら自分の書いている文が可笑しくなってきたのだが、普通はこの”AREA”ってバンドの音楽について文章を書くところです。そのエネルギッシュにしてクリエイティヴな音楽をどれほど愛しているかについて、思うままに。だけど。
 この悲喜劇もまた、書き残しておくのも面白いと思ったのです。”AREA”の話は、何人もの人がすでに書いているしね。

 あの強烈な”AREA”のサウンドをもっともっと聴きたかったのに、何が悲しくて訳の分からん現代音楽もどきの実験声楽に付き合わねばならん、と言いたいところをグッとこらえてディメトリオの残した音源を買い集めるファン。それにしても一枚くらいは、かっての”AREA”のサウンドを彷彿、なんて盤を残しておいてくれても良かったのにねえ。
 いや、からかうような文章を書いてますが、私もそんなファンの一人であるのは間違いないんですから。


タンゴ酒場の夢

2007-03-09 05:40:02 | 南アメリカ


 ”Solo Tango”by Raul Parentella

 ”聞いているところを人に見られたら恥ずかしいなと思うアルバム”というものがあり、その一つがこれである。”ソロ・タンゴ”というタイトルだが、なにかの楽器がソロで奏せられるわけではない。単なるタンゴ、みたいな意味合いであろうか。そのような言葉遣いがあるのかどうか知らないが。

 シンプルな、シンプル過ぎるリズム隊を従え、サックスとピアノとバンドネオンがタンゴの、”ベタベタな感傷を歌う歌謡曲”としての側面にのみスポットライトを当て、ひたすらむせび泣く趣向の盤である。その臆面もない感傷の歌い上げようが実に恥ずかしい。

 ”世界的に通用するワールドミュージック”などという晴れがましい音楽とは対極にある、ドメスティックな人肌の音楽。アルゼンチン人にとってはあまりに卑近な感傷にかかわる音楽であり、スーパーの店内に流しておくのもウザイと感ぜられるのではあるまいか。

 もっとも似合いなのは、安い飲み屋のBGMである。深夜の、だらしのない酔っ払いにはきわめて居心地のいい空間を演出するであろうし、スカスカの音作りのインストゆえ、そのままカラオケ代わりに歌いだすのも可能だ。選曲も、アルゼンチン人の掌に良く馴染んだ昔懐かしいメロディの連発のようだ。

 でも、こういうのが聴きたいんだよ。ご立派な芸術作品なんかじゃなく、現地の人々の下駄履きの喜怒哀楽にかかわる音楽。こんな音楽に「恥ずかしながら」と溺れつつつ、ブエノスアイレスの下町の気の置けない酒場で、人々とベタな感傷に酔い、夜が明けるまで飲んだくれていたいと思う。

ウランバン批判

2007-03-07 04:48:34 | その他の日本の音楽

 ウランバン DX : 初代桜川唯丸 with スピリチュアル・ユニティ

 おおむね、皆のこの十数年ぶりで再発された作品への評価は好意的なもののようで、だからなかなか当方の感想が述べにくいのだが。いや、だからこそ書かねばならんのだろうと。
 河内音頭などとも同系列の仏教系語り物ダンスミュージックである江州音頭の大物、桜川唯丸を主人公に、打ち込みやシンセなどを導入し、新しい世界を展開して見せた作品である。発売当時もワールドミュージック好きの間で評判を呼んだものだった。

 ワールドミュージックがまだ耳新しい言葉だった頃には、当方もこのような音楽を、「おお、ミクスチュア感覚!音楽の新しい地平を切り開く試み!」などと素直に感動していたものだが。自分なりのワールドミュージック観が出来上がるにつれ、このような作品に違和感を覚えるようになっていったのだった。
 なんというのかなあ。なんか無理やり作り上げているって不自然な感触に納得できないというか。聴いていて、どうしても必要とは思えなくなって来るのだ、その”打ち込みやシンセ”の音が。

 また、このアルバムには”ブンガワン・ソロ”などというインドネシアの歌が挿入されているが、そのような歌が音頭の世界で普通に歌われているとも思えず。これも無理やりのワールドミュージックのイメージ作りのための演出、と思い始めるとその歌の存在が不自然でたまらなくなり、何でこんなわざとらしい事をするのかと嫌悪感しか感じられなくなってしまう。

 主人公の唯丸氏が、この音に納得していたかどうかは知らない。とりあえず、乗せられればその気になってしまうのは誰にでもあることであるし。
 ともかく当方、今ではこの音に接するたび、「江州音頭という音楽自体がそのままで十分エキサイティングであるのに、何を無理やり打ち込み音を導入しなければならないのか。よその世界から来たものが”現地”の音楽を安易にいじるのはやめろよ」と、だんだん凶眼になって行く心境であるのだ。

 それはまあ、世間になじみのない音楽を外部の人々に聴いてもらうためにはそのような工夫も必要と理解しないわけではないのだが。のだが、それをして”××音楽の新しい地平を切り開く”とか言い出してもらっては困るのである。それはあくまで一時的な措置であり、入門用のその音のむこうには、自然な形の音楽が控えていてもらわねば。大事なのはあくまでもそちらの音楽だ、という認識がなければ。

 ともかく、”お洒落なロック屋”が自分勝手な美学に元ずいていじり回した”現地の音楽”を押し付けられるのは、もう御免だ。
 今回のこの作品のケースは日本国内の出来事であるが、欧米のプロデューサーがアジア・アフリカなど各方面の音楽に赴き勝手な事をしているのに出会うと、新植民地主義などという剣呑な言葉も引きずり出したくなって来るのだが、間違っていますかね、ええ?

 ここで、たとえば当方が昨年のベスト1アルバムに選出した”LA NOUVELLE GENERATION DU REGGADA ”など聴いてみると、実に爽快な気分になってくる。収められているのはモロッコの祝祭音楽の”新しい地平”なのだが、それはあくまでも現地の人々の美学に元ずくもの。欧米のプロデューサーの感性では発想し得ない”奇矯な試み”が音の中に溢れ返っている。

 たとえばボコーダーを使ってのイスラム風メリスマのかかったボーカルの演出などという無茶なこと、どんな奴が思いつくのか。ともかく、欧米の新しい音楽を真面目にお勉強した者の仕業ではあるまい。土着の音を、いかに”ニューヨークの最新の音楽流行”と折り合いをつけるかにただただ腐心するのが音楽プロデューサーの仕事と理解している人物では出来ない発想。その展開が嬉しいのである。楽しいのである。ザマミロなのである。

 ああ、だから、”新しい音作り”を当方もすべて否定するものではない。江州音頭が歌われている地元の若者かなんかが、彼独自の美学で電気楽器を操作した挙句に出来上がってしまった、都会からやって来たおしゃれな音楽プロデューサーが一聴、顔をしかめるような暴挙だったらいつでも歓迎したいと思うのである。

 なんか、訳の分からない話をしているかなあ。ともかくよその音楽を自分の都合で弄り回して得意になるのはやめてくれ。という話なんだけど。

モンゴル高原彷徨

2007-03-05 22:50:56 | アジア


 モンゴル人のシンガー・ソングライターなのだが、”騰格爾”をなんと読むのかが分からなかった。
 長いこと、中国人の名のように”騰”が苗字で”格爾”が名前との認識で分けて呼んでいたのだが、どうやらこれ、”TENGGER:テンゲル”と発音し”天”の意味、これ全部でファーストネームらしい。

 そういえば司馬遼太郎の本で「モンゴル人は基本的にファーストネームしか持たず、ファミリーネームが必要になったときは父親の名をもって代用とする」なんて話を読んだ記憶がある。

 モンゴル人と言っても中国領の内蒙古の人であり、中国内で活動している歌手である。1960年生まれ、28歳の時に発表した”我的興安嶺”が評判となり、プロ歌手の道に入る。音楽的には中国のポップス歌手によくあるフォークロック調に分類されるが、ともかくその濁声の迫力が凄い。モンゴル人がホーミーを唸る際のようなガラガラ声でシャウトされると、それだけでもう唯一無二の世界が出来上がってしまう。

 出世作の”我的興安嶺”とはもちろん、中国東北部とモンゴルとの間に屹立する大山脈地帯・興安嶺のことなのだが、彼の歌はこのように広大な大自然や、そのうちに放浪する人間の感傷などが大きなテーマとなっているようだ。

 彼のアルバムは中国語の歌詞の曲の中に何曲かモンゴル語の歌が混じるという、アメリカで言えばテックスメックスのような状態であるのだが、彼の歌の聞き手にどの程度モンゴル民族がいるのか。彼の歌の”受け方”を見ると、彼の持つモンゴル的要素はむしろ、中国人の聴衆相手にエキゾチシズムでアピールする、そのような作用をなしているように思える。

 そんな彼が1991年に出した、唯一全曲モンゴル語のアルバム、”蒙古”は忘れられない作品である。

 冒頭の、ジンギスカンに捧げた頌歌のワイルドさ、喉も破れよと言わんばかりのシャウトに、いきなり魅了されてしまう。
 あとはもう、北京のミュージシャンたちによるロックの音に、むせび泣くモンゴル名物”馬頭琴”の響きが入り混じった独特の騰格爾サウンド(?)が運んでくる、広大な草原地帯に吹きすさぶ風や厳しい大自然のありよう、その只中で営まれる人々の暮らしなどの手触りに触れ、すっかりモンゴル気分に酔うのみ。

 その無骨な感傷の世界に、一時、ずいぶん入れ込んだものだが、実は騰格爾、音楽的にはあまり幅の広い人ではなく、何枚かアルバムを手に入れたら「大体先は見えた」と思え、その後は聞いていないのだから、ファンというのも当てにはならない。自分のことだが。

 いや、その後も新譜を出したという情報やどこそこでコンサートを行なったなどという話題に接するたびに、その後の音を聴いてみようかなどと思うこともあるのだが、世界のあちこちから届く目新しい音の情報にまぎれ、なんとなくそのままになってしまっている。この文章を書いた記念に、今の騰格爾がどんな音楽をやっているのか、ちょっと確認してみるのも悪くないかも知れない。

 我が国で騰格爾が一番”メジャーらしきもの”に近付いたのは、90年代半ばに出したアルバム、”黄就是黄”がミュージックマガジン誌の”輸入盤新譜レヴュー”に取り上げられた時だったろうか。まあ結局、それでも特に話題にもならず終わってしまったのだが。

 そのアルバムの冒頭に収められていた”東方的駱駝”が、印象的ナンバーだった。
 1970年代アメリカのシンガー・ソングライターたちがこぞって歌っていた放浪に関する歌と、大昔、駱駝の背に荷物を積んで砂漠の彼方を目指した絹商人たちの物語がサウンドの上で二重写しになった、不思議な出来上がりのナンバーだったのである。

 ちょうどそのあたりから彼のアルバムを聞かなくなっている私なのであって、なんだか騰格爾が、その隊商に加わってタクラマカン砂漠の向こうに行ってしまってそのまま帰ってこない、みたいな錯覚が心中にあるのだが、このイメージは悪くないので、いや、このまま彼の音楽は思い出のうちに眠らせてしまうのが正解でもあろう。(いやまったく、ファンなんて連中は信用が出来ない)

パオアカラニの花束

2007-03-04 04:54:05 | 太平洋地域


 相変らず昼下がりのひととき、街の周囲に広がる山間部の別荘地帯を散歩気分で車で流して歩いたりしているのだが、今年はこの暖冬のせいで、そこの道沿いに植えられている桜がえらいことになっている。
 テレビの天気予報では桜前線がどうの、なんて話は始まってもいないというのに、当地の桜はすでに満開を通り越して、散り始めているのだ。

 いつも春は別荘地帯の満開の桜がアーチを作った、その道を通り抜けるのがなかなかの快感だったのだが、こう早々と散ってしまっては、そいつを見届ける者もなし、いくらなんでももったいない。見物人が私のような物好きな閑人だけでは、桜もやりきれなかろうよ。 
 などと呟きながら、散り落ちた桜の花びらが染め上げたピンク色の道路をダラダラ走り抜けたりしているのだが。

 そんな際に良く聴くBGMは、以前ここで話題にしたこともあるハワイのウクレレ名人、オータサンことハーブ太田が、息子の、やはりウクレレ弾きであるハーブ太田Jrと吹き込んだデュオアルバム、”Ohana”である。こいつはのどかでちょっぴり切なくて、やはり良いねえ。

 そのアルバムの2曲目にたまらなく美しい曲が収められていて、その名を”パオアカラニの花束”という。これはほんとに、そのイントロが聴こえると反射的にカーステレオのボリュームを上げてしまうくらい、きれいなメロディラインの曲なのである。

 その切々たる思いを伝えるようなメロディラインから、私は長いことこの曲を恋人との別れを歌った歌なのだろうと想像していたのだ。が、この間、初めて真面目にライナーを読んでみたら、”王座を追われ、幽閉されていたハワイ最後の女王リリウオカラニが、彼女が愛した庭園に咲いた花々で作られた花束を贈られ、それに感動して作った曲”とあり、うわあ、そういう意味のある曲と知らずに聴いていたのかと息を呑んだのだった。

 リリウオカラニ(1838年9月2日-1917年11月11日)は、ハワイ王国第8代の女王であり、最後のハワイ王である。1893年、ハワイのアメリカ合衆国への併合を企てた”共和派”が、アメリカ海兵隊の力を借りて行なったクーデターにより実権を奪われ、宮殿に幽閉される身となった。その後彼女は、クーデター騒ぎで人質になった人々の命と引き換えに女王廃位の署名を強制され、彼女はそれに応じ、ハワイ王国は滅亡。そしてハワイはアメリカに併呑される道を歩むこととなるのである。

 まあ、その頃からアメリカはこんな事をしていました、なんて話なのだが。アメリカ人は得意げに言ったのだろう、「ハワイの人々よ。自由の使者アメリカは、王の専制から君たちを救い出した。民主主義の名によって。これからは君たち民衆がハワイの主人だ」なんて事を。そんな甘言を弄しつつ、彼らはハワイの国そのものを奪い去って行く。

 そのような欺瞞が進行する中で、ハワイの人々は宮殿に幽閉されている女王のために、彼女が愛した庭園でしか育たない花々を摘み、花束を作って、彼女に送った。「いつまでも私たちはあなたを愛しています」とのメッセージを込めて。それに応えて囚われの女王が書き上げたのが、あの”パオアカラニの花束”だったのだなあ。それは切ない響きを持つはずだよ。

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 何万というハワイ人はどこへ行ってしまったのか。
 みな家にとじこもってシャッターを下ろし、この悲しみの日を迎えていた。
 ハワイ人が示した親切な歓迎の気持ちを、アメリカから来た白人たちは裏切ったのだ。
 一つの国家が強奪されるのを、この日ハワイの人たちは見たのである。

 「ハワイ王朝最後の女王」(猿谷要著・文藝春秋)より。

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 リリウオカラニ女王といえば、あの”アロハ・オエ”の作曲者としても知られる、音楽家としても優れた王族だった。
 この歌といいアロハ・オエといい、彼女の作品にはことごとく、”近代”という荒波に飲まれて滅び行かんとする、古きよき楽園の日々に対する愛惜の念が込められているように感じられてならないのである。