ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

30年目の幻滅

2007-03-17 04:49:07 | その他の評論

 文庫本を買っておいたものの、なんとなく読みそこなっていた矢作俊彦の「ららら科学の子」を、やっと読破。つまらなかった。

 30年前、中国へ密航したままだった学生運動の闘士が、”蛇頭”の船で今日の日本に帰ってくる。主人公の目に映る、変わり果てた日本の姿。さて、何が起こるのか・・・なんて物語。きっと面白いと期待していたので、読後、思い切り拍子抜けしてしまった。

 矢作は手持ちの駒、つまり60年代末期の学生運動の挿話やら文化大革命当時の中国の無残話やら、小説の話や映画の話やらを次々に絢爛たる絵巻物として繰り出すのだが、なんだか「ああ、またか」みたいな既視感ばかりが生じてしまうのだ。おお、この退屈さは何だ。意味ありげなケレンばかりが目に付いて、でもその向こうに新しい発見って何も見えてこないんだ。

 ”変わり果てた日本”と”行き過ぎる時代”を前にしてかっこ悪く傍観者の姿勢を取る主人公のかっこよさもまた、すでに見飽きた予定調和の世界としかこちらの心に響いてこない。主人公は見物人に終始するばかりで、それに積極的にかかわるわけでもなし、エンディングも、なんだかとってつけたような”ちょっといい話”で、こんなのつまらん。

 帰国した主人公の目に映る、30年の間に変わってしまった日本の様相などを並べ立てての時代への違和感の表現など、まるでありきたりの文明批判と言う感じで、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
 60年代末、漫画家ダディ・グースとして颯爽と登場した矢作のかっこよさに私たちは、何の疑いも無しに最上級の喝采を送ったものだった。だったのだが。

 ”小説家”となって再び人口に膾炙するようになった彼に、まさに30年ぶりに再会した私もまた、変わり果てた日本と、そのむこうに屹立してくる真実を見てしまったこの小説の主人公と相似形の体験をしたと言えるのかもしれない。
 その結果、分かってしまったもの。それは、”矢作、というかダディ・グースって、かっこつけてただけじゃないの、要するに?”である。

 うん、そう思うよ。かっこいい表現者を演ずる才に長けている、それだけの人。当方、そのように結論つけました。以上。うん、無茶な結論かも知れないけど、こう考えたら、なんか青春時代から抱えてきた憑き物が落ちたみたいでね。だからまあ、むちゃくちゃでもかまわないや、と。