ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

赤道直下、亜細亜、南欧。

2007-03-14 01:52:29 | アジア


 ”Meriam Bellina Vol.1”

 この人の歌に関して書こうと思い、いろいろ資料を求めて検索してみたんだけど、女優としての実績がほんのちょっと紹介されているだけで、歌手としてはたいした評価をされていないんだろうか?と首を傾げてしまった。冒頭にステージ写真でも貼ろうとしたんだけど、これも”女優”としての画像しか見つからないし。

 ワールドミュージック好きがまず注目するインドネシアの音楽といえばダンドウットだろうが、なぜか私はあんまりその方面に興味がない。タイあたりをはじめとして、他の東南アジア諸国の音楽に関しては泥臭い嗜好であるのに、なぜかインドネシアものに関しては、そのあたりに関心がない。我ながら妙だなと思うのだが。

 で、インドネシアものは何を聞いているかといえば、ポップ・インドネシアを聞いている。要するに土着の臭いのない、都会派のポップスであるのだが。こいつがちょっと良いのだ。気に入ってしまっているのだ。

 赤道直下の島国であるインドネシアで、冷房の効いたひっそりと静まり返った清潔なオフィスで過ごすお洒落な階層のための音楽って感じで、本来の私が好きになるはずはないんだが。まあ、香港あたりの洗練された、アジアの大地から数センチ浮き上がっているポップスの退廃を楽しむのと同じような趣味で好んでいるとでも言えばいいのか。

 たとえばこの美人女優兼歌手であるMeriam Bellinaのアルバムを、なんの予備知識もなしに聴かされたら、どこの国の音楽か分からない人は当然、出てくるだろう。これはポップ・インドネシアの、まあ懐メロ集みたいなものらしいが、その”ノスタルジック”はアジアの方を向いていない。Meriam Bellinaが可憐な声で歌い上げるのどかな美しさに満たされた歌の数々は、不思議な南欧情緒みたいなもので溢れている。

 雰囲気としてはポルトガルあたりのさらに南に無理やりもう一つのヨーロッパの国を作ってしまったような。からりと晴れ上がった空に時を経た石作りの古城が聳え、海を渡って来た風に吹かれて、征服者の王の記念像は大西洋の彼方を指差す。そんな架空の国から聴こえてくる、古きよき時代をいとおしむ昔々の歌謡曲。

 それはかって、インドネシアを植民地支配していたポルトガルがそこを支配した事の”副作用”としてインドネシアの民衆の感性の内に刻印し、そのまま置き忘れていった”ラテンの血のエコー”とでも言うべきものなのだろう。罪深い話なのだが、流れ去った歳月が、理不尽な植民地支配の生々しい罪の行方を曖昧なものにしてしまっている。

 Meriam Bellinaはそれらの感傷を、あくまで自らの土地の伝承として歌っている。その”南欧気分”はインドネシアの人々にとって、もはや借り物でもなければ押し付けでもない、地に足の着いた昔ながらの肌に馴染んだ感傷として成立してしまっている。時の流れという奴は、いつでもなかなかの曲者である。

 その感傷がかって、”ポップ・インドネシア”として洗練された都会の生活者の心情を歌おうとする際に浮かび上がって来ていたという構造に思いをいたせば、長い長い時は流れても”ヨーロッパの旦那方”による当地への魂の支配は続いているとも言え、複雑な思いが浮かび上がらないでもないのだが。
 いや、今日の”ポップもの”が、これは世界各地で起こっているのと同じようにアメリカ文化の支配下にある現実をむしろ憂えるべきなのだけれど。

 (冒頭の写真は、植民地時代のインドネシアの風景)


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