”Song Fruits” by MaricaMizki
というわけで。いい加減にしろよっと言いたくなるくらいにいつの間にか寒くなっていて、やっぱり今年も秋をすっ飛ばして、いきなり冬がやって来ている。何だよ最近の気候と言う奴は。春と秋というちょうどいい気候はどこへ行ってしまったんだ。
そして。酷暑と酷寒に直結されたんではやりきれないなと愚痴を言っているうちに気が付けば年末。
久しぶりに奄美民謡のCDを引っ張り出して聴いてみると、これが実に良いのだった。
夏の暑さの中で今年は、ひたすら沖縄の音楽を聴きまくった。それなのにお隣の奄美の音楽は放り出したままだった。それがここまで寒くなったら急に奄美の民謡を聴きたくなって来たというあたり、やっぱり自分は奄美の民謡を”南国の便り”ではなく、”今に生きる古代歌謡”という方向で捉えているようである。
深夜、ストーブの前に身をこごめて、昔放浪したあれこれの土地のことなど振り返り、またあの場所に、昔と同じ気ままなヒッピー(死語。苦笑)として訪れることが出来ないものだろうか、なんてあてもない事を考え、もう逢う事もなくなって久しい懐かしい人々を思い出しながら、”らんかん橋”を聴く。”上がれ日ぬはる加那”を聴く。
そんな風にしていると、夜闇の向こうの静まり返った国道を吹き抜ける寒風に耳を澄ませて、遠い昔に過ぎ去ってしまった人々の日々の生活の残滓を聞き取ろうとしているみたいな気分になったりするのである。
というわけで、奄美の若手女性歌手二人、吉原まりかと中村瑞希による民謡ユニット、”マリカミズキ”の1stを聴いている。
このコンビで3枚、アルバムを出しているようだが、まだこの盤しか聞いていないせいか、あえてデュエットのチームを組む意味は当方、まだよく分からずにいる。
掛け合いの妙を聴かせるのか、普通はソロで歌われる民謡をコーラスで聞かせる試みなのか。あるいはそれ以外。いずれにせよ、いつものソロとは一味違うなにごとかを目論んでいるのだろう。
二人とも、一人で歌っている時より歌の表情が柔らかく聴こえる。あるいはそれは、ギターやウクレレといった、いつもは民謡では使われない楽器がバックに加わっていて、演奏にふくらみが出ているせいでそう聴こえるのか。
実は、あんまりそれらの楽器の導入が成功しているとは思わないのだが、今はその柔らかな響きが”癒し”と響き、救われた気分だ。なんかこの年末、いろいろ心が擦り切れるようなことが多いんでね。
それでもやっぱり、ギターの音がメインの1曲目が終わり、三線の鳴り渡る2曲目になると音に気合が入るようで、聞き手のこちらの気持ちも湧き立つ。この辺は難しいかなあ。
サウンド面で言えば、”赤木名観音堂”に始まるメドレーでパーカッションのアンサンブルをバックに聴かせ、なかなか血の騒ぐ出来上がり。
これには相当な可能性を感じる。複数の打楽器の織り成すリズムに乗った二人の歌声は、非常に自由でパワフルに飛翔している。
もともとがモノトーンの奄美民謡、旋律楽器も和音楽器もいらないと言うか邪魔になるんじゃないか。その代り、音の隙間をリズムのみで埋めて行く、というのはかなりいけるんじゃないかな。
けれど、製作サイドはそのような風には考えなかったのか、その後、この路線で行ったという話は聞いていない。この次のアルバムはバリに行ってガムランをバックにしたもののようだけど、それは違うだろうなあ、ちょっと。まあ、聴いてみないとなんとも分かりませんが。行くならアフリカでしょ、アフリカ。
相当良いんだがな、パーカッション群をバックに歌う二人は。私がプロデューサーだったら、バックに専門的な打楽器プレイヤーを揃えて二人に歌わせ、フル・アルバムを作りたいね。絶対に良いものが出来ると思う。あるいは全然逆方向で、打ち込みリズムのみをバックに、テクノなファンクで迫るのも一興かと。まあこれは冒険になるけど。
とかなんとか。いやまあ、里アンナが”吾島”であれだけ頑張ったんだから、今度はこの二人に一発やってみせて欲しいな、とかひそかに期待しているんだけどね。