ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

銀座ACB、1968年・冬

2006-12-30 01:54:14 | 60~70年代音楽


 ACB、と書いて「アシベ」と読む。グル-プサウンズがブ-ムだった頃には、その生演奏に接することの出来る店があちこちにあり、それらは「ジャズ喫茶」と呼ばれていた。「ジャズのレコ-ドを聞く場所」と、名称としてはごっちゃだが、誰も気にしてはいなかった。今でいうライブハウス、と言ってしまうとどこかニュアンスが違うような気もする。もっと「芸能界」っぽい匂いがあった。芸能大手プロダクション系列の経営が多かったのかも知れない。
 名称から察するに、戦後すぐのジャズブ-ムの際に生まれ、そのままロカビリ-・ブ-ム、GSブ-ムと、洋楽指向の日本のバンドの最前線の現場として受け継がれていったのだろう。マスコミが「今日の奇矯な若者風俗」を取り上げる場合、客席で熱狂する女の子たちの様子とコミで、そこにおける「青春スタ-」たちのステ-ジ写真を添えるのが、まあ、当時の定番だった。

 東京の銀座ACBは、その本家みたいな存在で、新宿ACBというのもあった…ような気がする。ジャズ喫茶チェ-ン店「ACBグル-プ」が存在していたのだ。あのタイガ-スなども、確か大阪のACBに出演していた際に内田裕也オヤブンに見いだされ、デビュ-のきっかけをつかんでいる。

 あれは1968年のクリスマスも近い頃と記憶しているが、当時、そこら辺のガキだった私は、東京のイトコの家に遊びに行ったついでに、その銀座ACBを覗いてみたことがある。

 妙に天井の高い、が、それ以外は単なる普通の喫茶店だな、というのが第一印象だった。思っていたより古び、薄汚れた感じだな、とも感じた。店の片側に、不自然なくらい高くそびえ立った、円筒形のステ-ジがあった。(立ち上がった状態の、私の肩より高かった)あるいは2階席があったのかも知れないが、その時には気がつかなかった。8分の入りくらいで、席を探す必要もなかった。

 ステ-ジは、まず、店のハウスバンド?の演奏で始まり、全体の司会も兼ねるそのバンドのボ-カル氏に呼び出される形で、その日の出演バンドが登場する仕組みになっていた。今思えば、その「座付きバンド」は、演奏はそつがないが花もなく、陽の当たるチャンスもないまま、とうにアイドル年齢は過ぎていた、みたいな哀愁があってなかなかイイ味を出していたのだが、もちろんバンド名なんか覚えていない。

 私が行った日の出演バンドは、491とジャガ-ズだった。491について説明の必要があるかどうか分からないが、フォ-・ナイン・エ-スと読み、GS時代のジョ-山中の在籍バンドだ。と言って、期待を抱かせてしまったとしたら申し訳ない。ジョ-は、というより491というバンド自体、特に光るものを感じさせるバンドではなかった。(その日は、なのか、その日も、なのかは分からないが)バンドのユニフォ-ムである白いス-ツに七三分けサラリ-マン髪形でシャウトするジョ-の姿だけは記憶に残っているのだが。491のシングル曲なんて知らないし、それ以外にやったのは地味なR&Bのカヴァ-ばかりで、盛り上がりようがなかった、という事情もあったが、客席の反応も、冷やかなものだった。

 そういえば、忘れないうちに書いておくが、当時、私は、主に2流のGSのライブを幾つか見ているのだが、どのバンドも、ライブでやる外国曲のカヴァ-は、ロックよりもR&Bネタの方が多かった気がする。この傾向はカップスばかりではなかったのだ。タイガ-スとかテンプタ-ズとかの「一流の」バンドはどうだったのか、見たことがないので分からないが。

 491のパッとしないステ-ジが終わり(ヤバイなあ、ジョ-、読まないだろうなあ、この文章)、バンドチェンジの際、近々レコ-ドデビュ-すると言う女の子の歌手が「本日の特別ゲスト」として出てきて、座付きバンドをバックに「いかにも歌謡曲」な歌を歌った。この辺が、今日のライブハウスと違う「芸能臭」が漂うところだな。バンドの演奏の慣れ具合から、彼女が向こう一ヵ月位の間、連日、この店で「本日の特別ゲスト」を勤めて来ただろう事は、想像に難くなかった。更に1曲、当時流行っていた「サマ-ワイン」を、バンドのボ-カル氏とデュエットで歌ったが、彼女は、それだけ覚えているらしい1コ-ラス目の歌詞を、2コ-ラス目も3コ-ラス目も繰り返し歌っていた。うら寂しい光景だった。

 短い中休みをはさんでジャガ-ズ。やはりヒット曲のあるバンドの華やぎを、そこそこ感じさせつつの登場。しかし意外にも、と言うべきか、客席の冷やかな反応は491の時と大した変わりはなかった。そして私の関心も、演奏自体よりメンバ-の持っている楽器に向かっていた。「おお、本物のリッケンパッカ-だ!」などと。それは、彼等が私にとって、特に思い入れのあるバンドでなかったせいもあるが、なんというか、彼等の演奏自体も、客席の温度の低さに呼応するように、とりあえず予定をこなしただけと言うか、あまり熱の感じられないものではあったのだ。

 演奏はそのまま、ヒット曲にR&Bカヴァ-(彼らもだ!)を取り混ぜて淡々と進み、そして終わった。数人のファンの女の子がステ-ジ下に行き、飛び跳ねながら(なにしろステ-ジは高い位置にある)去りかけるメンバ-に握手やらサインやらをねだっていたが、ほとんどの客は、三々五々、特に感動も無さそうに席を立ち、出口へ向かった。

 まあ、私のその日の目的は「あのACB」をこの目で見ることだったので、十分目的は果たした筈だったのだが、妙な割り切れなさが残った。だって、491はともかく、「若さゆえ~」のジャガ-ズと言えば、GSとしてはビッグネ-ムなんじゃないのか?にもかかわらず、あの「現場」の、ヒンヤリした空気はなんだ?オトナたちに顰蹙を買っているはずの「GSに熱狂する頭のおかしいムスメたち」は、どこへ行った?「八分の入り」の客席はなんだ?ステ-ジ上のメンバ-に飛びつこうとするのが「数人の女の子」でいいのか?

 1968年といえば、例えばタイガ-ズの「君だけに愛を」や、テンプタ-ズの「エメラルドの伝説」「純愛」オックスの「スワンの涙」等々の、GSを象徴するようなヒット曲が大量に生まれた年であり、ついでにいえばカップスだってこの年にデビュ-しているのだ。そんなレコ-ドのリリ-ス状況、売れ行き状況だけ見れば、豊作といえる年だった筈だ。

 私は恐らく、GSブ-ム退潮の、最初の波の一つに立ち合ったのではないか。変わらず全国に吹き荒れているかに見えた「GSの嵐」も、その時、「ジャズ喫茶」という最先鋭の場では、もはや女の子たちの興味の中心からは外れ始めていた。都市の奥深くで発生した「ヒップな現象」(それの源流の多くは、都市辺縁部やら本当のイナカであったりするのだが)が、商業化しつつ、始めは無関心だったイナカ方面へ支持を広げ、やがて全国的な流行現象としてビッグ・ビジネスと成り上がる、が、その頃、実はその現象の発生源、根っこの部分はすでに腐り始め、シ-ン全体の崩壊への序曲が奏でられている。あの日私が見たのは、そんな現場だったのだろう。

 良いものを見た、ある意味では。と、思う。そして、明けて69年、GSの終焉は予感から現実へとなって行くのだが。



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