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”OPM”by Sarah Geronimo
これを夏バテと言うのでしょうか、このところのクソ暑さが耐えられませんで、なにをする気にもなれない状態であります。ただもうエアコンの前にへたり込むだけの日々が続いているわけで、もうすっかり”廃人”の呼び名がふさわしい私なのです。
が、せめてここの文章でも書いておかねば、おりから当地を襲った地震で私が被災したかと考える方もおられるやも知れない。実際、もったいなくも私を気遣うメッセージを下さる方もおられた訳で。たとえば部屋の隅に積み上げたアイドル写真集の山に押し潰。あ、この話は洒落にならないのでやめるにしても。とにかく無事をアピールしておかねばと、パソコン起動させた私であります。
で、先日の例の地震ですが、確かに大きな揺れではあったんですが、私、マヌケな事にそれを地震とは気が付かないまま終わってしまった。
と言うのも、ちょうどその時刻は台風も当地に接近しておりまして、大変な降雨と雷がわが町を襲っていたんですね。そんな次第で私はその時間、玄関から川と化しつつある道路を見つめ、休みなく鳴り響く落雷を聞きながら、こりゃ大変な事になったものだなあと呆れていたのであります。
そんな時に最初の揺れがやって来たもので私は、「やあ、これは大変な風台風じゃないか。暴風で家が揺れてるよ」なんて見当違いな事を考えながら玄関の柱に掴まった事を覚えております。 と、次にもっと大きな決定的な揺れが来た。遠くで何か大きなものが倒れるような音もしました。が、それでも私は「ありゃりゃ、どこかにでかい雷が落ちたぞ。明日、雨がやんだら見物に行ってみよう」とか、ますますマヌケな事を呟き、玄関を締め、風呂に入って寝てしまったのでした。
で、翌日、遅くに目を覚ましてニュースを見てはじめて、それが地震であった事を知ったと言うわけで。とぼけた話ですがねえ、私の家にも周囲にも別に何の被害もなく、誰も地震なんか話題にもせず、盆休みの観光客相手に銭もうけに邁進している。高速道路の崩落のテレビニュースなんかをどこか遠くであった事件のような顔して横目で見ながら。
まあ、そんなもんなんですわ、現地の状況としては。
と言うわけで最近、なんとなくいい加減な気持ちで聴き始めているタガログ語ポップス、なおかつバラードものであります。歌うは、有望新人のサラ・ジェロニモ嬢。
何がいい加減かって。まず、この音楽が現地フィリピンでどのような存在であるのか、当方、さっぱり分かっていない。
なんでタガログ語でなければならないかと言えば、もともとがアメリカのポップス等と表面上はあんまり変わらないサウンドであるフィリピンのポップスであり、これで英語で歌われるとアメリカのポップスを聴いていればいいのであって、わざわざ面倒くさい思いをしてフィリピンの盤を求める理由がなくなる。
それならタガログ語で歌われていても音楽性という意味ではやっぱり同じ事ではないか?と問われると、これがまた、どう答えて良いのか分らなくなる。確かにその通り。いやいや。言葉が違えば音楽は相当変わりますよ。その”違い”を要領よく説明する言葉を私は現在、まだ持ちえていないんだが。まあ、あと20年ほど待って欲しい。
それにしてもタガログ語で歌われる盤、というのは現地フィリピンの人々にどのような意味を持っているのですかね?フィリピンの大統領の演説、なんてのは普通、英語で行なわれますよね。ああいうことが行なわれる国ってのはおおかた、国がいくつかの部族語圏に分かれていて、そのどれを”標準語”に採用しても別勢力から苦情が出る。だからとりあえず”旧宗主国”の言語をもって共通語にしとこうって事情があるわけでしょ?
で、音楽の場合も部族の垣根を超えてCDをたくさん買ってもらうには英語で歌っておこう、と。海外市場も計算に入っているのかな。そこへ行くとタガログ語で歌われている場合は、よりドメスティックな、もうタガログ語の分る人だけ聴いてくれればいいや、民族の懐の奥深くで商売しちゃおう、とかそういう覚悟の元に製作された盤と、まあ私は考えているんですがね。その辺に匂うものを感じて、追いかけているのです。
で、この盤。微妙に彩色は施されているんだけど、ほぼ白黒のジャケ写真が、内容と良い具合に響きあっている気がします。盤を廻せば抑制が効いた洗練されたサウンド、繊細なメロディ・ラインが湧き上がる。歳に似合わぬ歌唱力で美しいバラードを歌い上げるサラ嬢の姿がシンと静まり返った空間の中に浮かび上がる。
その、ある種ストイックな感触は、遠くの夜空に浮かび上がる音の聞こえない花火みたいな楚々とした美を演出しています。まあ、サラ嬢の素顔が、私がここで予想しているような深窓の令嬢かどうかは怪しいものですが、そのような演出が一応成功していると。
日本人だったら過剰とも感じるであろう、濃厚な感情移入のほどこされた歌唱も、そこはかとなく静的なモノクロームな手触りのストリングス・アレンジの底にスッと吸い込まれて消えて行き、濃い後味は残さない。
あとに残るのは、独特の、これはブラジル人だったらサウダージとか言いそうな、すっと以前に喪われ、遠くに行ってしまったものへの感傷。のように響く想い。
これは私がインドネシアや、このフィリピンのバラードものを聴く際に気になっている、かってヨーロッパ人がアジアの大衆唄の中に置き忘れていった情熱の残り火の気配なんかとも通ずるものなんですが。
などと、訳の分からない事を言いながら退場。暑いっスね、それにしても。
それから、サラ嬢は2003年デビュー、フィリピンの国民的アイドルなので、もう新人ではありません。
そのデビュー当時は15歳とは思えない歌唱力で衝撃を受けました。
どうも私、資料的な事とか正しい発音とか、その辺のことにあんまり興味がないもので、アバウトになってしまってますね。「まあ、大体このような人がいると知ってもらえればいいだろう。必要な人は自力で調べるでしょ」くらいにしか考えていないんで。
こう書きながらもさっぱり反省していなかったりして。それじゃいけないんでしょうけど。いや、確実にいけないんですが。