ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

台湾フォーク、あの頃。

2009-01-30 00:50:32 | アジア

 ”The Best Collection of Popular Music”by 李碧華

 濡れたような歌声、なんて表現は特に珍しいものでもないわけだけれど、歌手の歌声における水分の含有量を表す基準なんてものがあるだろうか。

 台湾の実力派女性歌手、李碧華の歌声を聞いていて、いつもそんな事を考えてしまう。
 彼女の場合、水分含有量は120パーセントといったところではないだろうか。すなわち、水分は多過ぎて吹き零れてしまう。
 澄んだ歌声が透明な空気を震わせつつ渡って行く、その狭間から清浄な水滴がこぼれ落ちる・・・そんなイメージを喚起する李碧華の歌声なのだ。

 水分過多とはいっても、彼女の場合、メソメソした陰鬱な泣き節ではない。新鮮な果実を丸齧りした際に口の中に広がる爽やかな水気の広がり、あの感触に近い、透明感のあるものである。
 そもそもその歌いっぷりの凛としたありようは安易な泣き節とは対極にあるものである。いつもスッと背筋を伸ばして歌っているような端正な美学に元ずき揺るぎのない、みたいな李碧華の歌いぶり。むしろその”水っ気”の多さは彼女の歌に宿る生命力の証しと考えるべきではないか。

 彼女が90年代に出した”郷土口承文学”のシリーズは、台湾の民衆の間に古くから伝わる大衆歌の数々を丁寧なアレンジと歌唱で歌い継いだもので、私の長年の愛聴盤だった。
 深夜、一人で酔いどれてはCDを廻し、台湾の片田舎の、行ったこともないくせに不思議に懐かしい風景と人々の暮らしの温もりに陶然となりつつ耳を傾けていると、時の過ぎるのも忘れた。

 そのアルバムについては以前、この場に書いたが、今回の作品は、そのさらに前、おそらくはデビュー当時の李碧華の歌唱を集めたものかと思われる発掘音源集である。録音されたのは80年代頃だろうか。
 ジャケで、まだ女学生然とした李碧華がギターを抱えている。収められているのは当時の台湾の歌謡界で流行していたのだろう、フォーク調の歌謡曲が多い。まだオリジナル曲にも不自由していたのだろう、カバー曲ばかりのようだ。

 中には日本曲の”瀬戸の花嫁”や韓国のバラード、”別離(イビョル)”なども含まれているのだが、曲調に合わせてコブシを廻したりせず、あくまでも端正にメロディを追って行く歌い口は、この頃からもう彼女は、私の知っている李碧華だったのだなと、半分微笑ましく、半分恐れ入る思いだ。
 微笑ましくといえば、ともかく次々に飛び出してくる台湾風フォークソング歌謡にも、なんだか気持ちがムズムズするものを覚える。そうなんだ、日本人と似たような感性で作られた曲が多いんだよねえ。いかにもギターを抱えてあまり深く考えずに作ってしまった、みたいな。C-Am-F-G7、とかなんとか、安易なコード進行で受けを狙うみたいな。

 ここに収められている曲が吹き込まれた頃、台湾の世情はどうだったのだろうか、などとも思ってみる。ひょっとして、長く長く続いた戒厳令が解除され、自由の風らしきものが台湾の社会に吹き始めた頃だったのではないか。
 昨年末、急逝した飯島愛に関するニュースを見ていて、台湾の民衆のあの事件に対する意外な関心の高さを知った。聞けば、戒厳令解除とともに彼女が主演のアダルトビデオが自由の風に乗ってかの地に流入し、飯島愛は台湾のスケベ心にとっての自由の女神となっていたそうな。

 台湾を知る人々は、時の流れのうちに、もうあの島はかっての素朴な人情を失ってしまったという。もう世界のどこにもある、刺々しい目つきをして欲望を追う世界と同じ場所になってしまったと。
 私には、それに関してなにごとか意見するほどの知識もないのだが。
 ただ、むずがゆい思いをしつつ、心の微妙な部分で彼らと共有する”恥ずかしい過去”を伝えてくる”安易なフォーク歌謡”のメロディを追ってみるだけだ。与えられたメロディを懸命に追おうとする李碧華の、まだ幼さを宿した歌声を噛み締めてみるだけだ。そして、ただ行きずりの風に吹かれただけでどうにでもなってしまう人の生を思う。

 李碧華の新譜というのも、この頃聞いていないが彼女は元気でやっているのだろうか。
 考えてみれば私は、彼女の年齢とか結婚はしているのかとか、そんなプライベートを何も知らないと今頃になって思い至るのだった。まあいいんだ。この世界のどこかに、こんな歌を歌う女性がいて、私はその歌を好んで聴いている、それだけの話だから。


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