文政12年2月上旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年2月朔(1日)(1829年)
晴 乙丑
#色川三中 #家事志
(コメント)
2月スタート。天気の記載のみ。相変わらず
三中先生は多忙なようです。いつもと変わらぬ生活が続いているように見えて、突然の変化は忍びこんでくるもの。
☆想定外の事態が起こるまであと二日。
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文政12年2月2日(1829年)晴
せい(三中の妻)が実家の谷田部から土浦に戻ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻が実家(谷田部)から戻ってきました。せいさんが、実家に行ったとの記事はないので、いつから実家に戻ったのかは不明。三中先生は、結構こういう記載の仕方が多いのですよね。クセですね。
☆想定外の事態が起こるまであと一日。
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文政12年2月3日(1829年)晴
昼前に入江(名主)から、お出でいただきたい旨の書状が届く。行ってみると、「先日、中村九平次が町年寄を辞められたので、奉行所からそこもとに町年寄となるよう仰せがあった」と。辞退したい旨申し上げたが、奉行所からの話しでもあり検討して返答することとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
なんと三中が町年寄に就任!?
奉行所(土浦藩)からいきなりの連絡(実際の連絡は名主から)。事前の告知はなく、三中もビックリ仰天。本日の日記はかなり長く、三中の心中を表しています(もっとも、ツイートではバッサリと要約)。三中としては、多忙な上に持病(喘息)をかかえており辞退したいようですが、どうなりますか…。
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文政12年2月4日(1829年)南風 天気暖
昨夜、町年寄就任の可否について親族で相談。多忙、持病(喘息)あり、弟も元服したばかりで面倒を見ないといけない。町年寄はムリ。本日、親族の総意を色川庄右衛門殿から伝えてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
親族会議を開きましたが、三中としては町年寄は請けない方向性。しかし、町年寄は奉行所(土浦藩)の任命であり、断ることができるのでしょうか…。
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文政12年2月5日(1829年)雨
町年寄就任の相談にのってもらった親類宅へ先日相談にのってもらった礼に行く。町年寄は断ることはできなさそうだ。請けてよいかどうかの相談をする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
雨の中、親類宅へ御礼参り。やはり土浦藩の方では、三中の個人的な都合は聞いてくれず、町年寄の役職は請けざるを得ないようです。その点についても親族に相談。この時代は親族コミュニティの理解が大切なのですね。
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文政12年2月6日(1829年)晴 初午
この度大国屋勘兵衛殿が、家督を相続した。御上に御礼に行った帰りに、我ら方へも挨拶に来た。扇子一箱、風呂敷一つを頂戴する。
#色川三中 #家事志
(コメント)
大国屋勘兵衛という方が家督相続の御礼参り。町人の有力者だからでしょうか、御上(土浦藩の上層部?)の他、町役人に就任予定の三中にまで挨拶に来ています。挨拶回りの習慣が社会の隅々にまで行き渡っています。
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文政12年2月7日(1829年)晴 西風
町役を請けることとなった。
昼過ぎ入江(名主)から、御奉行所の御用のため、羽織袴で名主宅まで来られたしとの書状来る。同じく町役となる奥井吉右衛門と共に入江宅へ行く。入江同道で町奉行所へ行く。→
#色川三中 #家事志
→奉行所で町年寄の仰せあり。その後夕方まで各所に挨拶回り。夜五つ過ぎ(午後8時)からは、知り合いが宿で酒肴を出すお祝い。八ツ(午前2時)までかかる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が町年寄に正式に任命されました。挨拶回りからの宴会というパターンは今と同じ。夜遅くまでの宴会も。なお、挨拶回り先ですが、三中は丁寧にも全て記録しています。「御年寄衆、吟味衆、御目附衆、組頭、御代官、御歩行目附、郷目附、下目附等」
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文政12年2月8日(1829年)晴
町年寄となったことを、五人組や親類等に伝える。親類には自ら挨拶に行った。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉4名。それぞれ酒一升。
(コメント)
町年寄に就任した為、今日からお祝いが届きます。三中は「祝儀覚」として記録しています。名前は煩瑣なので省略し、人数と何をもらったかをツイートしていきます。今日は酒一升。これが最上級のお祝いなのでしょうね。
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文政12年2月9日(1829年)晴天 風静か
町年寄就任。奉行の面前で血判を押す。土浦藩の町奉行から「この度、町年寄を仰せ付けられたので、誓紙神文に血判を仰せ付ける」とのお言葉あり、お請けすると答える。町組小頭が誓紙を読み上げた後、小づかを抜いて薬指で血判した。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉3名。酒一升。酒一升とひらめ一枚。鴨一羽。
(コメント)
町年寄就任に際しては、誓紙神文に血判を押すという儀式をしなければならないようです。奉行の面前で差している刀の小柄で薬指を切って、血判を押します。文政といえば江戸後期ですが、このような武士文化が残っていたのですね。
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文政12年2月10日(1829年)少々雨
町役に振舞い。入江(名主及び隠居)や親類を呼ぶ。七つ(午前10時)に客揃う。吸物五通、本膳。引菓子として羊羹、五文まんじゅう。八つ半(午後3時)までに客は帰った。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉7名。味鴨一番。割酒一升。酒一升。扇子一対+小半紙10状。メバル五つ。メバル小五つ。カナガシラ七つ。
(コメント)
町年寄就任関係の儀式が続きます。本日は役振舞。名主や親類を自宅によんで、ご馳走をだします。このような儀式をこなすのは喜びもあり、また準備や気づかいも大変かと思います。日記を読んでいる方としては、当時の儀式が分かって勉強になります。
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付
色川三中の町年寄の就任について、中井信彦『色川三中の研究 伝記編』に以下の記載があり、参考になります。
「文政十二年(一八二九)二月七日、三中は南町奉行所に呼び出されて、中城分町年寄の任命をうけた。三中二十八歳の春である。
城下町土浦の町々は、中城町と東崎町との二つの町組に編成され、南北両町奉行所の支配に属していた。そして、両町組にそれぞれ一名の町名主と、それを補佐する複数(二一四名)の町年寄が任命され、また百姓代(一三名)が置かれていた。幕領の名主・年寄・百姓代の村方三役制が、城下町土浦の町組に準用されていたわけである。三中の薬種店(「本店」と称した)のある田宿町は中城町組に属し、醤油店のあった川口町は東崎町組に属していたのである。」