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江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年02月26日 | 大原幽学の刑事裁判
江戸バイト事情 嘉永7年2月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年2月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
江戸で仕事を見つけるのはタイヘン。辻番の口があるといわれたが、場所が小網町。知り合いと会いそうで、身バレしたらやばいので断念。元浜町の本屋(尾張屋市蔵)が仕事をくれた。軍書関ヶ原の写し作成。二冊持ち帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛が小網町で辻番バイトを避けたのは知り合いと会いそうだからです。江戸小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面からの江戸の窓口なのです。
・五郎兵衛に軍書の写し作成のバイトが見つかりました。本屋のある元浜町は、五郎兵衛らの居住地(神田松枝町)からそれほど遠くない場所です。元浜町は、現在の日本橋大伝馬町と日本橋富沢町に跨る地域。

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町

千代田区町名由来板 神田松枝町 to 日本橋大伝馬町




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嘉永7年2月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
軍書本の写しに取り掛かる。幽学先生は買い物に行かれた。惣左衛門殿はいつもどおり弁当持参で早朝から掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が写しを作成しているのは、関ヶ原関係の軍書本です。この年(嘉永7年)1月16日にはペリーが再び浦賀に来航しております。軍書本の写し作成のバイトが入ったのは、ペリー来航による軍事的なニーズの増大が背景にあるのかもしれません。

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嘉永7年2月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
今日も軍書本の写し。高松力蔵様が来られ、夕方にはお帰りになった。惣左衛門殿は早朝からいつもの掃除の仕事。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日も五郎兵衛は、関ヶ原関係の軍書本の写し作成のバイト。五郎兵衛は書くのが好きなのでしょうね。江戸在府中は一日も欠かさず、日記を付けていますし、筆まめです。

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嘉永7年2月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は馬喰町肴店で美濃紙を買って来られた。惣左衛門殿のバイトは休みなので、小生と一緒に髪結いし、昼から風呂に入る。その後、小石川の高松様方に行き、義論集を借りてきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日は五郎兵衛の仕事(軍書の写本作成)も休みのようです。同じく休みの惣左衛門とノンビリ。『義論集』というのは、大原幽学と道友らの討論を編纂し記録したもの。大原幽学記念館で入手可能です。
発行 大原幽学120年祭奉賛会
昭和53年11月30日
A5/97頁 ¥700


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嘉永7年2月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣左衛門殿はいつもの掃除バイトのほかに、日雇いの仕事あり。
小生、丁子屋でタバコを買う。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は昨日、髪結いと昼風呂、小石川まで行き義論集を借り、今日はタバコを買いに行っています。軍書本の写しのバイトが一段落したからでしょうか。ノンビリした様子です。
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嘉永7年2月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
帰村の挨拶に来る者多し。小生は元浜町の本屋で、写し用の本(軍書)を三冊持ち帰った。馬喰町で紙を買い、写しを行う。幽学先生から「忙しさにかまけて、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届いていない!」と叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
関ヶ原関係の軍書二冊を写し終えたようです。軍書三冊を本屋から持って帰ってきており、新しい仕事に取り掛かる五郎兵衛でした。しかし、帰村の挨拶に来る者への配慮が行き届かず、幽学先生に叱られてしまっています。
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嘉永7年2月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除バイト(弁当持参)。帰りに京菜を買ってきてくれたので、漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記に出てくる「京菜」は水菜のこと。ミズナ(水菜)は京都で発達した菜類で、関東ではキョウナ(京菜)とも呼ばれています。


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嘉永7年2月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
雨が降って寒し。軍書の写しを行う。昨日惣右衛門殿が買ってきたくれた京菜の漬け直しもする。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「雨が降って寒し」
旧暦2月中旬ですから、太陽暦だと3月中旬〜下旬でしょうか。この時期に南岸低気圧が通ると、関東には北風が入り込み、冷たい雨(又は雪)になります。
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嘉永7年2月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が辻番のバイトの話しを持ってきてくれた。「五郎兵衛は借家の掃除や賄いをしてくれているので、辻番のバイトではなく、本の写しの仕事の方が良いだろう」と幽学先生から話しがあった。引き続き本の写しを行うことなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「辻番」とは江戸時代、江戸市中の武家屋敷の辻々に大名・旗本が自警のために設置した見張り番所。この時期辻番のバイトの口が結構あったことは、道友たちの中でも辻番をしている者がいることからもわかります。
⇒本ブログ末尾「付 辻番」参照

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嘉永7年2月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
元浜町の本屋に行く。写しの注文あり。三冊持って帰る。
夕方から肩の張り、口内の痛みで休む。
晩に京橋の辺りで火事。三丁ばかり焼いたとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は、元浜町の本屋から新たな本の写しの仕事を取ってきました。今回も三冊。結構ハイペースで無理をしてるようにも見えます。肩の張りは写しの仕事のし過ぎ、口内の痛みはストレスから来ているようにもみえます。

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付 辻番(2月上旬ブログの続き)
今回の日記でも辻番のことが話題になっています(2月19日条)。
石井良助『江戸の町奉行』によって、辻番の実際を見てみましょう。
江戸の土地の六割は武家地(大名や旗本の屋敷のある所)です。江戸の辻番の数はある統計では899あったとされており、うち大名設置が219、旗本設置が680でした。
この辻番には配置基準があり、1万石〜1万9000石までの大名の場合は、昼3人、夜5人、2万石以上の場合は昼4人、夜6人です。旗本の組合 で作った辻番では昼2人、夜4人です。夜に厚く配置しなけれぱならないため、夜の辻番の求人が多くなるのですね。
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