寛政12年10月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年10月22日(1800年)
朝六つ(午前6時)過ぎから夜まで、蝦夷御掛である松平信濃守様ほか11名へ帰府届を提出した。道中足が痛くなり、雇駕籠で回り、夜五つ(午後8時)頃家に戻った(駕籠料900銅)。
#伊能忠敬 #測量日記
(帰府届)
私儀、蝦夷地測量の件、御用が済みまして昨21日に帰着仕りましたので、お届けいたします。
津田山城守知行所下総国佐原村元百姓
浪人 伊能勘解由
十月廿二日
この書付を次の方々へ差し出して回覧した。
松平信濃守(木挽町、築地)
以下11名略
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
前日昼過ぎに蝦夷地からの長旅を終えて深川の自宅に戻った忠敬ですが、本日は一日かけて役人に挨拶廻り。帰着した旨の届けを蝦夷地担当の役人等関係者に提出しました。江戸に戻って気が緩んだのか、道中足が痛くなり、雇駕籠を使っています。
⇒松平信濃守以下11名についてはブログ参照
寛政12年10月23日(1800年)
浅草の天文台(司天台)に行く。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
浅草にあった天文台(原文:浅草司天台)は天文方の役所でもあります。天文方トップは、師匠の高橋至時。忠敬は昨日は終日役人に挨拶回りでしたから、江戸到着3日目にしてゆっくりと師匠らと話しができました。幕府の役人三橋藤右衛門から依頼されたレポートの添削も受けたことと思われます。
寛政12年10月24日(1800年)
(編集より)本日、伊能忠敬先生は休筆です。幕府の役人三橋藤右衛門から依頼されたレポートの清書をしていると思われます。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年10月25日(1800年)
三橋藤右衛門様に蝦夷旅行中書くように仰せつけられた天文来歴の書付を本日お渡しした。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
三橋藤右衛門(三橋成方)は蝦夷地取締御用掛(現代風にいえば北海道開発庁の幹部?)。勉強熱心なのか、蝦夷地測量中の忠敬にレポート提出を要求し、忠敬は復路でレポート作成に追われるということがありました。江戸到着4日目で無事宿題を果たした忠敬でした。
寛政12年10月朔(1日)
— 断感ろーれんす (@tk23956) September 30, 2022
(1800年)
朝から晴れ、昼曇る。三橋(藤右衛門)氏への新暦伝来の草稿作成や象限儀を磨く必要があり、(盛岡に)逗留。盛岡までの先触を受け取ったので、止宿日限を書き添えて先触及び添触を仙台城下留めで出す。案文は三厩の際の先触と同じである。#伊能忠敬 #測量日記
三橋藤右衛門に提出したレポートは測量日記に書き写されており、どのようなレポートだったのかを作成したかが分かります(一部の現代訳につきブログ参照)。それにしても忠敬はマメです。
寛政12年10月26日(1800年)
(編集より)本日、伊能忠敬先生は休筆です。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年10月27日(1800年)
御領主(津田)様は蝦夷地のことを以前からお聞きになりたいというご意向をもっておられたところ、本日「明日来るように」との仰せがあった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
忠敬が「御領主様」と書いているのは、忠敬が住んでいた下総国佐原村(現千葉県香取市)を知行していた津田山城守のことです。忠敬は隠居しており「元百姓で浪人」の身分ですが、津田公のバックアップも受けていたようです。
寛政12年10月28日(1800年)
御領主(津田)様に参上し、蝦夷地のことにつき数刻にわたって申し上げた。三橋(藤右衛門)様に差し上げた書付を松平信濃守様にもご覧いただくように、津田様にお願い申し上げた(もっとも、このことは御領主津田様から内意のあったことである)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
伊能忠敬は、佐原の領主津田公から呼び出しを受けて津田公宅に参上し、蝦夷地のことをレクチャーしました。三橋藤右衛門様に差し上げた書付というのは、暦の来歴を旅の中で書き上げたものです(10月25日条)。これを三橋と同様蝦夷地担当役人の松平信濃守様にもご覧いただくというのが、津田公の狙いでもあるようです。
測量日記(蝦夷地測量編)はまだ続くのですが、毎日記されているものではないので、これにて伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編は終わりとなります。