南斗屋のブログ

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江戸時代の困窮者給付ないしはマイクロクレジット-持合金

2022年04月12日 | 色川三中
(色川三中日記に見える「持合金」)
色川三中「家事志」を読んでいましたら、「持合金」という言葉がでてきました。
1827年4月7日(文政10年)
・八つ(午後2時)過ぎ頃、木下庄右衛門殿がお出でになり、持合金のことを話していかれた。今日の寄合いの席でそのような話が出たと見える。
1827年4月8日(文政10年)
人が来て、惣代の寄合いがあることを伝えてきたが、病気と称して参加しなかった。寄合いで持合金の拠出が議題となることが予想できたからである。

(持合金一件)
この「持合金」については、三中の日記には何ら説明がなく、いったいどういうものかよくわからないまま読み進めていたのですが、調べてみたところ、白川部達夫「天保期における一城下町の動向ー土浦東崎町持合金一件をめぐって」ー『近世の都市と在郷商人』(1979年巌南堂書店)所収)に参考になる記載がありました。

(持合金とは)
まず、持合金については次のように説明されています。
「持合金とは、明和元(1764)年9月に当時の町奉行の発案によって、町民が「門並」に日掛け一文を積み立て、これを年利一割で困窮人の夫食金や営業資金として貸付け、利分を凶作時の手当や町費とするという趣旨で開始されたものであった。明和2年5月に取立てが、翌3年より貸し付けが開始され、文政10(1827)年まで続いた。」
これは最近話題になっている困窮者給付の一種です。貸し付ける側から見れば、
今でいうマイクロクレジット、マイクロファイナンスみたいなものです。いや、マイクロファイナンスそのものでしょうか。

(持合金運用の実態)
このような理想を掲げて始まった事業ですが、実際には理想どおりにはいきませんでした。
貸付先はごく限られた町役人又は特権商人であり、貸し付けたまま回収が中止されていたというのです。その金額は、東崎町(色川三中が属していた中城の隣町)だけで660両に及んでいたそうです。

本来は、借りたくても借りられない人を救済するために、町民みんなで積み立てをしていたのですが、実際には、金持ちがその金を持って行ってしまったという見方も可能でしょう。

持合金の積み立ては、文政10(1827)年でストップしています。
その当時は、そういうような状況が知られていた可能性はあります。
そこで、色川三中も持合金についてはあまり気乗りがしなかったのかもしれません。

(持合金に関する騒動)
ところで、この持合金の件は天保8(1837)年、土浦で訴訟となり、騒動へと発展したのです。
これが論文の副題にもある「土浦東崎町持合金一件」です。
この背景には、天保の大飢饉(1833~1837年)による生活困窮があります。

町民は飢饉により生活困窮に陥っており、手元が不如意になります。
そういえば、持合金というものがあったではないか。あれは皆が積み立てた金で、困窮した者に貸し付けをするのではなかったか。そういうことが思い出されたのではないでしょうか。

しかし、実際は力のある者、権力のある者がうまいことやってしまって、あるべきはずのお金がない。
そこで、貸した金は返してもらって、今困っている自分たちに分配せよという要求が起こりました。
これが「土浦東崎町持合金一件」の発端です。

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